2話・猪
猪
「千鶴はさYouTuberになったらええよ」
3回目のオーディションに落ちた私を励ますように彼氏はそう言った。
私に逢いに…という口実で上京してきた彼と東京駅の構内にあるカフェでコーヒーを飲みなながら私ではなく通り過ぎる人混みを嬉しそうに眺めて。
幼い頃から歌とダンスが好きだった。
人前で役を演じるのが好きで、容姿にも自信があった。
ただプロの世界は親という最大の後ろ盾が居ない人間にはいささか厳しかったようで施設を出てからはレッスンを受ける時間もバイトに消えた。
そもそもプロの女優になりたかったか、そこまで本気ではなかったような気がする。
奨学金を受け大学に通っているが、本気で芸能界に入りたいのならそれも捨てて全てを賭けるような情熱は私にはなかったと思う。
どうにもならない現実とそれを否定する理由をただ欲していた。
だが現実逃避の言い訳と呼ぶには諦めきれない夢への未練を3回目に受けた映画のオーディションで断ち切るつもりだった。
結果はだめだった。二次面接で落ちた。
これで学業に専念できる。
お世話になった施設と、孤独を支えてくれた兄弟とも言える仲間と、クソ兄はともかく、私を作る環境を与えてくれた人の為にも「普通」の人生を目指そう。
そう思っていた。しかしあの面接に受かっていたらという未練は私の中でくすぶり続けた。
何も生み出せない日々を消化しながら着実に精神を蝕んでいった。
見かねた彼氏が提案したのがYouTuberを目指してみてはどうか、というものだった。
「オカルトっていつの時代も流行っとるじゃろ。せっかくオカ研サークルにおるのにその人脈と知識を活かさんのもちぃと勿体ない気ぃするで。」
彼はどことなく他人事のようにそう言った。
「ちーちゃんが配信したい言うならみんな手伝ってくれるよ。」
私が所属していた大学のオカルト研究サークルは、体育会系でやっていくには体力がなく、理系に行くには情熱もないが、何かを調べてついでに人と集まって賑やかに過ごしたい人間が集まってそこそこな規模の団体だった。
Vチューバーの配信のための絵師をはじめとしたクリエイターの卵や、撮影機材や編集を行う監督候補が複数人居て、調べたオカルトに関する動画を投稿していた。数万の視聴率を稼ぐ人も居た。
私はそこまでオカルトに興味があるわけではなく、主に友達の配信動画の作成の手伝いを行う裏方についていた。
私のSNSのアカウントはフォロワーがそこそこ多かったが、写真がメインで歌とダンスはショート動画以外投稿しておらず、視聴者と積極的に交流していた彼女を羨ましいと、嫉妬と憧憬の間からいつも見ているだけだった。
もっとフォロワーと交流すればよかった。
自分を高尚な存在だとどこかで思っていたのか。ただ交流するのが苦手だったのか。ちっぽけなプライドが長めの動画配信をためらわせていた。
「何かをして反応を貰える。それはちーちゃんが想像して欲していたものより遥かに少なく規模も小さいものかもしれんが、今のちーちゃんには必要じゃ思うよ。」
話を聞いて悪くないと思った。
確かにそれは私の承認欲求を満たす数ではないだろう。
しかし今まで本気じゃない現実逃避だとしても追いかけてきた努力を無駄にしたくなかった。
証を残したかった。
誰かに褒めて欲しかった。
よく頑張った、と言って欲しかった。
やってみようかな。
と告げると彼は嬉しそうにニマリと笑って「じゃあそなたにネタを授けてしんぜよう。」と彼の故郷について語り始めた。
「因習村って今流行っちょるじゃろ。」
因習村、確かに流行っている。
漫画や小説、アニメで、二次創作やエロ漫画で忌むべき風習を続ける村を扱う創作物は確かに流行っている。
―――――――うちは実は因習村なんよ…と彼は小声で秘密を告白するように囁いた。
「前まで伝奇モノって呼ばれとったはずなのに今じゃすっかりそっちの呼び名になってもうたな。人が死ぬような物騒なそういう風習。俺の村にもあるんよ。毎年毎年その時期になるとああ、またあれやらにゃいけんのか…うわぁ面倒臭ぇなあと思うもんが。」
彼氏の実家がある村は広島県尾道市の外れに位置する。
駅からバスに乗って線路に沿った国道を東に進み15分ほど走った「朔日村前」というバス停で降り、高架下をくぐり森林に囲まれた一車線の道路を少し歩いた所に現れる古びたトンネルをくぐった所で小規模な新興住宅地が見えてくる。
この集落は約3千人程が住み、南には国道に続く入口のトンネルがあり、北にはバイパスが通るが村から入れる車線はなく、東西は森に囲まれている。中心には「晦彦神社」という大きな神社があり、隣には代々神職を務める地主の…彼の実家の小江本家の邸宅がある。
住民の大半は高齢者であり過疎化が進んでいる。村の西側には小中一貫の公立校があるが、生徒数は少なく日中子供を見かけることがまず無い。中学を出ると子供は自転車とバスを相次ぎ市の中心に近い高校へと進学していく。
北側には住宅地があり最北の高台に小さな公園があるが、彼は最近、子供が遊んでいる姿を見ることはないという。
北から東にかけての坂一面に村の特産物である八朔畑が広がっている。北西から西側は学校と商店路地と居酒屋、2軒の喫茶店、唯一の宿泊施設である料亭を兼ねた宿がある。村人は車で郊外に買い物に行くため、商店路地はいつも閑散としている。観光客は訪れるのは極めて稀と聞く。時折神社を訪ねて少数の団体が来る程度で、村から見えるしまなみ街道の大橋の恩恵にまるであやかれていないことが伺える。
東側には村役場、病院、図書館、村民会館、コンビニがあり暇を持て余した老人がタバコを買いに来る。夕方になると高校に入った若者が帰ってきて屯したりするが、野犬が出るためかコンビニも18時には店を閉めてしまう。日が落ちると虫の音とカエルの声、木々の葉がかすれ合う音のみが辺り一帯に響く。南には田んぼとみかん畑が広がり、いくつか住宅がありそのどれもが新築かリノベーションされたものである。その先には唯一の出入り口である国道へと続くトンネルに繋がる。線路と二車線の道路を超えると瀬戸内海に面している。天気が良ければ北の公園から瀬戸内の島がよく見えるそうだ。
村の住民の名字の8割が「小江」で、お互いを方角と土地名から一字足した名前で呼ぶのが通例だ。
大雑把に「東西南北」+朔で呼び、更に12の方角に分類される。「艮朔」「丙朔」「辰朔」といった風に。
一番下の南朔に、最近都会から入植する若い世帯が住み始めているらしい。
彼いわく、村には悪いことをすると「ツイタチさん」と呼ばれる神の使いに喰われるという言い伝えがある。
この「ツイタチさん」は備後地方の一部で語られる土着信仰で、動物を使役し人を守り助け導く神である。
集落によって呼び方が異なりツイタチさんの他にみつかいさん、おつかいさん、つみかいさん等呼ぶ地域もあるそうだ。
ツイタチさんは基本優しい神らしいのだが、恐ろしい一面もあるという。
八朔と大晦日の折、山にいる動物を使役して里に降りてくる。そして悪事を働く人間を食べてしまうというのだ。
食べるのは悪人のみで、清く正しく生きる人は決して襲わない。
人に迷惑をかけ傷つけた悪人を罰するために食べるのだという。そして悪人であっても罪を認め謝り改心したものは赦すそうだ。
幼い子供に「言うこときかない子はツイタチさんに食われるよ」と説教をされた、と彼は言った。
「ツイタチさんのはぁ、なんか偉大な大きゅうてまあ俺みたいにイケメンの有能な神さんでの。人ちゃんにも優しゅうて普段は人が困らんようにみまもっちょるが、使いが足らん連中なんよ。ツイタチさんの使い共は畜生じゃけえ加減がようわからんくて…悪事を働く人間を手当たり次第食い散らかしてしまうんよ。ーーーーーほら、悪事を働く言うても理由があったり止む終えなかったりする場合もあるじゃろ?小さい子供ちゃんが、善悪の区別もつかずうっかり虫を殺したりするじゃろ?ご飯を捨てるだとか食べないだとか壁に落書きをして母親を困らせるだとか、取るに足らんような……ーーーーーあの連中はそんな小さい悪事まで目敏く見つけて襲うんよ。まるで順番が逆じゃ。人ちゃんを食うための粗捜しでもしょうるようにな。そういうさじ加減があいつら、なんぼ言うても理解できん。祠をたてて御神体を祀ってやっても、きやつらは血眼になって「食っても良い人」を探しよる。ーーーーそんなやつらから、身をまもるためにここいらでその因習は生まれたんじゃ。俺の家を始大晦日に親戚一同が集まってツイタチさんに今年一番犯した罪をただひたすら謝るっちゅうもんがある。謝って謝って赦しをこうんよ。ツイタチさんは最初に話した通り、慈悲深く寛大で大きゅうて優しい美形で非の打ち所がない最高の神さんやけ、罪を犯した人ちゃんが心から反省して謝ればすぐ赦してくれるよ。
因習は所詮、人の法よ。人が作るもんよ。
人が作った因習を、神はようわかっとらんと思うなあ。
なんかしょうるなぁぐらいにしか…でも…
それこそ大雑把にどんな罪であっても、ちゃんと手順を踏んで心から謝れば赦されるけぇ、それだけで使い共は村人に手が出せのうなる。その風習ってのは、赦してもらうための贖罪のご祈祷じゃ。大朔祭って呼んどったな。年に1回大晦日に親戚一同が集まる。病気の場合は昔は手紙で、今はリモートで参加する。大掃除の後、和室の襖を取り除いて広間を作っての。上座に大きな鏡とツイタチさんの姿を模した招き猫みたいな御神体を置き背を向けて年齢順で座る。午後10時頃から年長者から順に、一人ずつ鏡と御神体の前に座り、玉串を手に持って、「ついたちさん、ついたちさん、ついたちさん」と3回唱えて8回柏手を打つ。その後、1年の反省を述べるんじゃ。「人に意地悪をしてしまった」「挨拶を返さなかった」と言った小せぇことから、「万引きをしてしまった」「人を殴ってしまった」「薬をやった」「金を盗んだ」「人を殺した」といった重い罪まで、自分が犯したことを最低1個懺悔する。懺悔を終えると、「ごめんください、ごめんください、ごめんください」と3回唱え8回柏手を打つ。
それに親戚一同が罪を許せたら「ええよぅ」と返す。ツイタチさんは大勢の人が赦すくらい反省しちょるなら…ってんで、その人の罪を食らうんじゃ。不味いんだなぁ、あれが。懺悔した人は玉串を奉納し、鏡と御神体に背を向けて親戚一同に深く頭を下げ次の人と交代する。最後に一番年ちいちゃい子供ちゃんが母親に習って………ーーーーー言葉が出てこんくらい小さい子供ちゃんは代わりに母親が懺悔をする。その後、全員で「あなうましたちばなつごもりひこのみことかむらぎまもりたまえかしこみかしこみもうす」と礼を述べ、鏡を背に一礼し、8回柏手を打つ。……………8回やで?親戚一同で打ってみぃ?煩いであれ。もう"カシワデ"じゃのうて"ハクシュ"よ。俺もそれの違いはようわからんのんじゃけど。その後他の神社で年末にしょうる大祓祝詞を全員で上げる。高天の原に神留ります~そう、あれ。祝詞が終わったらその後は宴会を開いて、庭に悪人の代わりに一人前分の馳走を置く。夜中の間にツイタチさんの使いが動物の姿を借りて人の代わりに要された地層を食べに来る。っちゅう感じで家の村では年をこすんじゃ。
―――――――…好かんわ俺、あの風習。だって紅白もガキ使も見れんのよ?延々親戚の懺悔聞き続けてそれもくだらんつまらん知らんような小さいみみっちぃ事を延々つらつら…それでほんまに1年の罪がチャラになるんじゃろか。
法律は赦してくれんじゃろ?ツイタチさんはほんま優しく格好良く賢く誰も逆らえん…いや日吉と高木先生は別か…まあ強靭無敵最強最高の美神じゃけぇ、年がら年中謝れば赦してくれるよ?でも許されるだけで罪は消えんけどな。
―――――――あの連中はバカじゃけぇ大げさに祀ってやらんと区別がもうつかんのんじゃろなあ。じゃけぇ、どんなに俺や若いモンが面倒くさがってもあの辺の人ちゃんは毎年あれをせにゃいけん。ほんまに食いにくるんよ。どんなに信仰がのうても、バテレンのもんだろうと、あの辺に住んじょる人ちゃんたちは形だけでもアレをせにゃいけんのじゃ。
俺が子供ん姿の頃、小学校にあがってなかったな。北朔の大林さんとこで起きた。大林さんは俺の大叔母さんを嫁に迎えて入植した余所さんの新参でな。
大きな病院をいくつも運営しちょるそりゃどえらぁ金持ちで…―――――いや、うちはただ土地持っちょるだけじゃ。金はないわ。毎年固定資産税でひぃひぃよぉるよ。大林さんが村に来てくれて大分楽になったなぁ…――――で、大林さんは一応うちの親戚じゃけど世帯をもっとったけぇうちとは別に大晦日の大朔祭を大林の大叔父さんと大叔母さん、息子夫婦と孫と息子嫁のいとことその家族、大叔母さんの家族でとりおこなっとった。息子嫁と大叔母さんは折り合いが悪ぅてしょっちゅう喧嘩ばぁしょうたが、家族の喧嘩の範囲で可愛いもんだったと聞いとるわ。それでねぇ、その年に春にあきらくんがたからくんを…大林のおじさんの孫が息子嫁のいとこの子供と遊びょうる最中に、転ばして怪我させてもううてな。打ち所が悪ぅてたからくんの右足が動かんくなったんよ。あれの騒ぎは俺んちまで響いたなあ…俺は年代が違うけぇ当時は話すこともなかったし…んで詳しい事情はほんま知らんのじゃけど……簡単に言うと、あきらくんがたからくんに取り返しがつかん怪我させた。大叔母さんと息子嫁は当のいとこをおいといて、そりゃあ激しゅう言い争ったらしいわ。
うちの村は大朔祭があるけ、喧嘩ちゅうのはあんま長続きせんのよ。その代わり短くて激しいんだわ。やれお前が悪いしつけがなってないだの弁護士を呼べ裁判じゃとか、その場で怒りを発散させんと年末に赦すことが出来んくなるじゃろ。1週間ほどあきらくんと叔父さんがうちに泊まりにきとったな。よう家におらんかったって。結局弁護士は呼ばずにお母さんが介入し、親戚一同で話し合って和解して今後あきらくんのお父さんが治療費出すことで話はまとまった。まー就職や進学には困らんけどね。大叔父さん羽振りがええしコネも効くし。だからか、たからくんもあきらくんの事、赦しとったわ。いや、最初から恨んどらんかった。たからくんは入院先の病院で自分の不注意であきらくんの手を煩わせた。はよ大朔祭で赦したい。あきらくんがついたちさんに食われたらどうしよう…まだ子供じゃったけ、そう心配しょうたわ。
そしてたからくんは院内感染で肺炎になって、その年は家に戻らんまま大晦日の大朔祭の日になった。いつも通り年長者から順に一年で犯した罪を告白した。大林さんは余所から婿を入れとる所為か、大人たちは信仰心はそれ程無くて、祝詞もまともに上げんかった。それでも良かった。本来は形だけでええはずなんじゃ。親戚が集まって飲んで騒いで年を超す為の、ほんまに形だけのご祈祷だった。最後に一番の年少だったあきら君の番になってあきらくんはもちろんたからくんを怪我させた事を謝った。ほんまに反省しとったんじゃろな、泣きながらごめんなさい、ごめんなさい言うて大人たちに謝った。
大人たちがええよって返そうとしたその瞬間、
「赦さん」
静かな、でもはっきりした拒絶やった。
親戚一同声のした方にばっと振り向いた。大林の大叔父さんの息子嫁のいとこの夫、たからくんの父親やった。大人たちは唖然とした。大林の家でもそれこそ本家の俺ん家でもご祈祷で赦さんかった事って無いんよ。何を冗談よぉるんか、呆れて息子嫁のいとこが夫に笑いながら返事を返した。でもたからくんのお父さんが表情一つかえんまま、もう一声
「赦さん」
と呟いた。
たからくんの父親もまた、余所から来た人やったけぇ、信仰なんぞなかった。
息子を生涯治ることがない怪我をさせて、それをこんなつまらん集会で赦してなぁなぁにするのが耐えられんかったんやろう。和解も成立しとった筈じゃけんども、本音が出たんかもしれんし、ついそそのかされて欲が出たんかもわからん。乾いた笑いが親戚一同起きたけど父親だけは笑わんかった。ーーーーー父親の本気が全員に伝わって一瞬静まり返り、全員が大慌てで父親に詰め寄った。
「今すぐ赦せ!!はよぅ!」
「ツイタチさんのみ使いが来るぞ!」
大人たちの狼狽に、あきらくんは火がついたように大泣きでごめんなさいごめんなさいと喚き散らし始めた。たからくんの父親はそれを見てようやく満足そうに微笑んで「冗談じゃ」と言った。なんだ冗談か、と一同気が緩んでどっと笑いが起きた。
「つい魔が差した、つまらん事を言った。」
そう言う父親を周りが大人げないなぁだの小突きながら、大林家の大朔祭は終わった。子どもたちは各々の部屋で寝かしつけられて大人たちは蕎麦をすすり酒を飲みながら深夜の年越し番組を見て午前2時頃全員が眠りについた。
朝4時頃、子供部屋からギャーって悲鳴が聞こえてな。
悪夢から目覚めたにしてはあまりにも異様な大声で、あきらくんの母親と姉がどないしたんかと部屋を覗いた。
どっから入ったんか、でっかい猪があきらくんの肩にかぶりついとった。
ふたりとも何が起きとるんか理解できんで、あっけにとられた。あきらくんは痛いと泣きながら母親に助けを求めた。姉は腰を抜かして、母親は一心不乱にうわーっと大きな声で叫んで猪に突進した。猪を殴って殴ってあきらくんから引き剥がそうとした猪の力は強ぅてあきらくんの肩を加えたまま頭突きで母親をふすまにぶっ飛ばした。そして騒ぎに駆けつけた大人たちの横をあきらくんを咥えたまま走り去って家の裏の森の中に消えていった。
「み使いじゃ!」
なんで!?という悲鳴が上がった。
大叔父さんははっと気がついたそうじゃ。
たからくんの父親は冗談じゃ抜かしよったけども、最後まで赦さんかった。発言を取り消さんかった。それがいけんかった。
警察に110番した後、鎌と斧と猟銃を持って男たちはあきらくんを追って山に入った。助けて!とう叫びが聞こえる方に向かって藪を進んでったが猪の姿は見つからなんだ。夜が明ける頃には、もう声も聞こえなくなった。警察が来て事情を説明し数十人で山に入ってあきらくんと猪を探した。親戚の一人が息を切らしてうちにきて、夜中に大人たちが子供らに絶対に部屋から出るな!ツイタチさんに食われるぞ!と釘を差して家から出ていったのを覚えとるわ。大事になっとるなぁ、と子供ながらに少しワクワクしてしもうて、腰が悪いけぇ残っとったお父さんに奥歯が欠けるまで「どうにかせぇ」言うて殴られたな。俺の耳に入ったときにはもう手遅れやったんになぁ。村内放送で凶暴な猪が出た、女子供は絶対に家を出るなと放送して、男たちは山に入ってあきらくんを探した。その間に、大林さんの家に残っとった子供が母親に付き添われてトイレに行ったら、血まみれのたからくんのお父さんが倒れちょるのを発見した。肉は食われていなかったが獣に噛まれた後が複数箇所会って、骨も折れとったが、死因はショックによる心筋梗塞やった。獣の毛はどこにも落ちてなかったらしいわ。抵抗して形跡もな。帰ってきた男たちはたからくんのお父さんもイノシシに襲われて搬送先の病院で死亡が確認されたと連絡が入ってみんな青ざめて呆然としちょった。正月から警察がぎょうさんきて数百人規模であきらくんの捜索がはじまった。3日の昼過ぎ頃、崖の下で食いちぎられて骨も見えとる遺体が発見された。遺体発見の知らせを受けて俺のお母さんが泣き崩れとったな。
取り調べや山狩をして数日後、あきらくんとたからくんのお父さんの合同葬儀が執り行われた。嫌な葬式じゃった。遺体はくるまれて見れんかったしあきらくんのお母さんは人でなし!と叫んで半乱狂やし退院したたからくんは僕が悪い僕も死ぬ言うて棺桶にすがりついて泣き喚くしお父さんはお前のせいじゃ役立たずが言うて俺を殴って、俺は翌日から熱が出るしで…みんな泣いとった。悲しみの涙じゃのうて、あれは何やろな…無力とか畏れとか絶望とか…なんとも形容しがたい感情やったと思うで。あんなの見るのは二度とごめんやわ。
そっからもう村では大朔祭は徹底するようになってね。村人をなるべく神社に足を運んで神社で懺悔のご祈祷をするようになった。来れん人はリモートや代わりや前日に来て奉納して、大晦日の0時から正月の0時まで他県で働きょうる人まで村に帰ってきて参拝した。一人一人は流石に追いつかんけぇ、玉串を奉納する箇所を複数作ってな。神社に努めとる人と役場の人が交代で謝る人に「ええよ」っていう係をつけて…ーーーーーーーー人がぎょうさん集まる姿は微笑ましいが…延々赦すのは疲れるわ。そん人らに茶菓子を振る舞い、お神酒を振る舞い、炊き出しを始めて………最近はなあ、あんな惨劇があったのになんだか縁日みたいに賑やかになってきょうるんよ。小さい子供ちゃんが一人、無惨に食い殺されたのに…ーーーーーーーああ因習やわ。あれこそなくすべき因習やわ。手伝いに駆り出されて結局ガキ使は見れんまま放送なくなってもうた…
大林さん一家の息子嫁のいとこ一家は、今は全員死んだよ。母親が気を落として衰弱して、姉は高校に上る前に自殺しちゃったな。父親は治療費を踏み倒して飛んでマニラで交通事故で亡くなった。たからくんは母親と離れて大叔父さんと今もあの家に住んじょるわ。大叔父さんの跡取りとして。足は動かんけども大学卒業して会社に入社していち新入社員として福山まで通勤しょうる。営業部署で揉まれとるみたい。ほんま俺とは偉い違いや。」
彼の口から語られた思ったよりヘビーな内容に私は黙り込んでしまった。
彼は出席日数が足りず高校を中退している。通信教育で資格を取ったが、一浪してしまっていた。
どこまでが本当なのか、スマホを取り出し「広島県◯◯市 猪 獣害」で検索すると一番上にニュースが1件のみ出てきた。数行で「大晦日の日に大林あきらくん12歳が猪に襲われて死亡した」とだけ書かれていた。
「大叔父さんが情報規制するように働いてね、ニュースそれしか出てこんよ。」
そう笑う彼に、引きつった笑みで返す。
恋人の親戚の、近しい人が亡くなった事件を、私の承認欲求を満たすネタとするのは如何なものか。
彼にそう問いかけるときょとんとした顔をして「知らしめて欲しいんよ。」と答えた。
「酷い獣害じゃ。噂を聞きつけた猟師が、探偵が、YouTuberがあの村に来て、あんな畜生ども殺してしまえばええ。そうしたらみんな安全に暮らせて、あんな因習のうなって、年越しにテレビや動画を見れるようになる。そうしたらもっと人ちゃんがあの村にくるじゃろ。あんなんがおるけぇ、いけんのよ。それに…」
それに?と聞き返した私を彼は見透かしたようにケラケラと笑った。
一つだけ気になった事がある。
たからくんの父親もまた獣に…猪に襲われていた。
あきらくんを赦さなかったのはたからくんの父親だが、たからくんの父親を赦さなかったのは誰なのか。
「悪意を持って、人を傷つけるのは、いけん。」
例え手を汚さずとも。
あくまでも他人事のように、彼はそう答えた。
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