夜橋に舞う剣

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夜橋に舞う剣

 夜の静寂が街を包む中、まるで時間が止まったかのようにすべてが静まり返っていた。

 月明かりが薄い霧を通してぼんやりと街を照らし、影を長く引きずる街灯の光が、細い路地を神秘的な銀色に染めている。

 風は冷たく、木々の葉をかすかに揺らし、その囁き声が静寂を一層際立たせる。

 そんな街を一人の中年を迎えたサラリーマンが仕事帰りの足取りを軽くして歩いていた。

 彼の名前は佐藤隆一、どこにでもいる普通の会社員だ。

 彼は昇進したばかりで、今日でやっと昇進した手当をもらうことができたのだ。

 今夜は祝いにと同僚たちと飲みに行ってきたところだった。

 しかし、隆一は酔ってはいない。酒には強いほうなのだ。それに今日は酔いたい気分でもなかった。だから二次会の誘いも断って帰ってきたのだ。

 ただ単に気分が乗らなかったからというわけではない。もっと重要な理由があった。

 それは彼の家で、妻と娘が待っているということだ。

 娘はまだ小学三年生になったばかりだというのにとてもしっかりしている子で、母親である妻よりもよっぽど大人びていた。

 いつも笑顔で明るく、家事も得意だし勉強もよくできる。

 料理だっておいしいし、おまけに美人ときてる。

 きっと将来はいいお嫁さんになるだろう。

 隆一は妻と娘の為に用意した花束とケーキの入った箱を大事に抱えながら、幸せそうな笑みを浮かべていた。

 人気ひとけがないが、街灯が照らす橋へと差し掛かる。

 川幅は70m程。暗い水面の上を滑るように風が渡っている。

 隆一にとっては日常の帰り道に過ぎなかった。

 しかし、この夜は何かが違っていた。

 橋の中程で、前方に人影が見えた。

 初めはただの通行人かと思ったが、その人影は動かずに彼の方を向いていた。何かが引っかかるような感覚を覚え、隆一は少しだけ警戒心を強めた。

 人影が近づくにつれ、その姿がはっきりとしてきた。

 若い男だった。

 黒いチェスターコートに包まれたその姿は、どこか冷たい印象を与えた。

「いい夜だな」

 若い男は空にある月を仰いで言った。

 突然話しかけられ、隆一は少し戸惑う。

 だが、すぐに異変に気付いた。

 若い男はチェスターコートを着ながらも、袖に腕を通しておらず外套のように羽織っただけという格好だったのだ。

 若い男の肩からコートが滑り落ちると、袴履きに道着を着た上半身が現れた。

 腰には帯刀していた。

「なんだ。あんたは……」

 時代劇の出演するかのような、明らかに異様な出で立ちをした男を前に、隆一は一瞬戸惑った。

 隆一の声は震えていた。

 若い男は一言も返さず、ゆっくりと刀を抜き放った。その刃が月明かりを受けて冷たく輝く様子が、隆一の恐怖を一層際立たせた。

「あんたに、なって欲しいものがある」

 若い男は言った。

 その言葉はなぜか、直接頭に響いてくるように感じられた。

 男の口調には敵意や殺意といったものはなく、むしろ穏やかささえ感じさせた。

 しかし、それが逆に不気味さを増長させていた。

 男は一歩ずつ、静かに歩み寄ってくる。

 隆一の足は動かない。

 いや、動けなかった。

「な、なにを……」

 律儀に隆一は訊いてしまった。

 すると、男がまた口を開いた。

「糧」

 瞬間、隆一は首に冷ややかな感触を覚えた。

 それはまるで真冬の吹雪が一瞬にして肌を刺すような、凍てつく鋭利な冷たさだった。彼の首筋を撫でるその感覚は、まるで氷の刃が滑り込んだかのように冷たく、鋭かった。

 空気すらも凍りつくような寒さが彼の体を一瞬で貫き、血が凍るような恐怖と痛みが一気に襲いかかってきた。

 その冷たさは、ただの冷えとは違う。

 骨の髄まで染み渡るような、死の冷たさだった。

 次第に麻痺し、視界がぼやけていく中で、隆一は家族の顔を思い浮かべた。

 妻の笑顔、娘の無邪気な笑い声。

 彼はその場で必死に何かを言おうとしたが、声は出なかった。血が喉を塞ぎ、呼吸すらもままならなくなっていた。

 隆一は橋の欄干にもたれ掛かると、彼の首は動いた。

 下に。

 その様子は、凍った湖の上を転がる枯れ枝のよう。

 摩擦を感じないままに、首が川面に向かって落ちたのだ。

 やがて体も崩れるようにして倒れた後、川に血の噴血が広がり始めた。

 それを見届けた後、若者は刀を拭い、静かに刀を鞘に収めた。

 それから欄干にもたれ掛かる隆一の脚を持ち上げると、そのまま体を川に向かって突き落とした。

 夜の闇に包まれた川に激しい水音共に、しぶきが上がるが、それきり、川は静寂を取り戻した。

「見える。俺には、見えてきている……」

 呟くように言うその声は誰に届くでもなく、闇に溶けて消えたのだった。


 ◆


 柔らかな日差しが、道場の木製の格子窓を通して内部をほんのりと照らしていた。

 木目の浮いた床板には塵一つなく綺麗に磨かれており、壁に掛かった竹刀や木刀にも汚れはない。隅々まで手入れされている証拠だ。

 そんな清潔感溢れる空間の中に、白い道着に身を包んだ一人の青年がいた。

 白い上衣と袴姿の男性。

 凛々しく、見る者に清廉な印象を与える。

 肩まで伸びた黒髪は、後頭部のところで結われていた。

 双眸は、鋭く切れ長であり、意志の強さを感じさせる。鼻梁は高く、唇は薄く引き締まっていた。

 その容姿は、誰もが振り返る美男子だ。

 歌舞伎では男性が女性を演じるのを女形オヤマと呼び、酔わせる美しさを魅せるが、彼はまさにその女形のようであった。

 名前を、霧生きりゅう志遠しおんと言った。

 念流道場の師範代であると同時に、剣士でもあった。

 門下生たちへの稽古を終えた後は、こうして一人で素振りをしていることが多いのだが、今日は少し違ったようだ。

 志遠の前にブレザー姿の少年が正座をしていた。

 短く切り揃えられた髪は黒く艶があり、肌は健康的に焼けている。

 身長は小柄だが細身だが引き締まった体躯をしており、端正な顔立ちをしていた。

 少年は神妙な面持ちで志遠に視線を向けていたが、床に手を着いて深く頭を下げた。

 そして顔を上げると、真剣な表情で言った。

「僕は、白石しらいし凛久りくと言います。霧生先生の剣士としての名声をお聞きした故、この度ご指導を賜りたいと思い、ここに参りました」

 凛久と名乗った少年の言葉に、志遠は表情を崩さずに彼の左脇に置かれた合皮製の刀ケースを見た後に口を開いた。

「失礼ですが。流派をお聞きしてもよろしいですか?」

 その問いに、凛久の表情が曇るのが分かった。

椿華つばきばな流です」

 躊躇いがちに答えたその言葉に、今度は志遠が表情を変えた。

 眉を寄せ、訝しげに目を細める。

「聞かない流派ですね」

 志遠の問いに凛久は答える。

「道場を持ち一般に開放していません。白石家だけに伝えてきた剣術ですから」

 それを聞いて、志遠は得心したように頷いた。

 聞けば、椿華流は、直心影流薙刀術の門人であった武芸者・白石宗盛が創始者だという。薙刀の特徴である薙ぎの太刀筋を独自に発展させ、刀を用いて戦う剣術として完成させたという。

 伝承によれば白石宗盛は椿華流の術を以って、横薙ぎの太刀筋で相手の首を落としたという。

 その話しを耳にした志遠は、その凄まじさに耳を疑った。

「……まさか。正面から首を斬ったというのですか?」

 驚くのも無理はない。

 法医学者、医事評論家・上野正彦は語る。

(1929年茨城県生まれ、東邦医科大学卒業後、日本大学医学部法医学教室に入り、東京都監察医務院長を務める。著書に『死体は語る』など多数。

 解剖5000体以上、検死20000体以上の死体を見てきた死体の専門家)

 頸動脈を斬れば人を即死に近い形で絶命させることはできる。

 しかし、首の骨は椎骨で刀で斬れるようなものではない。刀で斬ったぐらいで骨ごと首が落ちることはありえないという。

 実際に、人の首を切ることを綴った証言が過去にある。

 文久2年(1862)4月8日、吉田東洋暗殺。

 吉田東洋は、土佐藩の参政(筆頭家老のような立場)を務めていた人物で、この時の土佐藩では大きな権力を持っていた。

 これに対し、土佐藩の下士が結成した土佐勤皇党の党首である武市半平太は、自分の意見に反対し強大な政敵である東洋を殺害する計画を立てる。

 この日、夜には細かい雨が降っていた。

 高知城の御殿で、吉田東洋は藩主の山内豊範に『日本外史』の講義。

 その後、酒宴になり、東洋はしたたかに酔い午後10時頃に城を出る。そんな東洋の前に武市の命を受けた那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃し暗殺を成功させる。

 東洋の首を取る為に、安岡が斬ろうとするが

「首筋よりあごにかかり、よほど切れがたくしばし拝み打ちに仕り候」

 と那須が記した手紙があり、首を切る時に顎を切ったりして苦労した様子がうかがえる。

 なお首級は新しい木綿にくるんで運ぶものだが、この時には木綿を買える余裕がある者がいなかったので、三人の誰かが外したばかりの履き古した、ふんどしにくるまれて運ばれたという。

 刀という世界最高峰の切れ味を誇る武器であっても、花の茎を斬るように簡単に切断できる訳ではない。

 日本では斬首刑という処刑法や、切腹において介錯人が首を落としたのも事実だが、その行為は難しく、かなりの剣の達人でも一撃で首を落とすのは至難の技で、往々にして失敗することがあったと言う。

 しかし、江戸時代の首切り役人、山田浅右衛門は刃こぼれせぬまま失敗することなく500人もの首を切ったことが記録されている。

 いかにして斬ったか?

 それは頸骨を繋ぐ靭帯を狙って斬った。

 人間が正座をして首を前に垂れると、頸骨に隙間ができるので、山田浅右衛門はその隙間めがけて刀を振り下ろした。

 それでも首は貝柱のような靭帯で繋がっており、外からいくら眺めても隙間を判別することはできず、骨と骨の隙間を正確に斬るには卓越した技術が必要だったのだ。

 頭を垂れ頸骨に隙間が生じさせた姿勢でも斬首を行うことは至難の業だが、立ったままの動く相手を前に斬首を決めるとなれば、神業としか言いようがないだろう。

 凛久は、そこで言葉を区切ると真剣な眼差しで志遠を見つめた。

 その目に宿るのは強い意志の光だ。

「霧生先生。どうか僕に人を斬れるようにして下さい」

 そんな凛久の言葉に、志遠は小さく溜め息を吐いた後、彼に言った。

「なぜ。人を斬りたいのですか? 人の命を奪うという行為がどれほど重いものか分かっていますか?」

 静かな口調ではあるが志遠の言葉は重みがあった。その言葉を受けて、凛久は少し考える素振りを見せたがすぐに口を開いた。

 彼は、真っ直ぐに志遠を見て言う。

 その瞳に強い光が灯っていることに志遠は気づいた。

 そして、彼が本気であることを悟ったのだった。

 凛久は言う。

「4日前に河口付近で死体が上がったのを、ご存知ですか? 死体の詳しい状態は広く報道されていませんが……、僕は知っています」

 そう言ってから凛久は一度大きく息を吸い込んだ後で言った。

「その死体には首が無かったんです」

 志遠の目が僅かに見開かれるのが分かった。

「その犯人は椿華流の者ということですか? ですが椿華流は白石家の者しか伝えられていない剣と聞きました。……まさか身内が犯人だと?」

 信じられないと言った様子の志遠に対し、凛久は静かに首を縦に振った。それから視線を床に向けると呟くように言った。

「……僕の兄・白石すばるです」

 凛久の言葉に、今度は志遠の表情が驚きに変わった。

 しかし、それも一瞬のことで、次の瞬間には平静を取り戻していた。

「兄は、剣を極めようとする余り、椿華流に呪われてしまったのです……」

 そう言うや否や、凜久の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

 白石昴は、幼少期から父親・義弘に椿華流の手解きを受けていた。

 まだ幼かった昴にとって、父の教えは絶対だった。

 だがある日、義弘が仕事帰りに暴漢に刺され、無惨にも命を奪われた。彼は剣術の達人であったにもかかわらず、複数の暴漢に奇襲されたことで、抵抗むなしく刺されてしまった。昴はその知らせを受けたとき、深い悲しみと怒りに打ちひしがれた。

 父親を失った昴は、悲しみを剣術の修行にぶつけるようになった。彼は椿華流の技を磨くことで父親の仇を討ち、父親の誇りを守ることを誓った。

 昴の剣術が極まるにつれ、椿華流の呪いが彼を蝕み始めた。彼の心には次第に狂気が宿り、剣を振るうたびにその狂気は増していった。

 母・美紀は息子の変化に気付き、必死に彼を止めようとした。

 しかし、昴の狂気は日増しに強くなり、やがて制御不能となった。

 ある夜、昴は美紀と対峙した。

 美紀は息子を救おうと説得を試みるが、昴の目にはもはや母親としての美紀は映っていなかった。狂気に駆られた昴は、母親の命を奪ってしまった。

 昴は完全に椿華流の呪いに取り憑かれた。彼は父親の死と母親を殺してしまったことを切っ掛けに剣の鬼と化し、人々を斬り始める。

「創始者・白石宗盛は武芸者にして特別な力を持っていたそうで、人を斬り椿華流を極めていく過程で、千里眼の力を得たと言われています」

 凜久の言葉を聞きながら、志遠は自分の心がざわつくのを感じた。

「千里眼……。今で言うところの、透視能力のようなものでしょうか?」

 志遠の問いに、凜久は大きく頷いた。

「はい。遠くを見るというよりは、人体の構造を透かして見ることが出来るようです。筋肉や内臓、骨格までもが見えることによって、首を刎ねたそうです」

 それを聞いて、志遠は思わず息を呑んだ。

「……つまり白石昴は、その域に達しつつあり、さらにその力を高めているということですね」

 志遠の言葉に、凜久は再び深く頷く。

「椿華流の剣士として、僕は兄の凶行を止める責任があります。その為には兄を斬らなければいけません」

 凛久の表情は真剣そのもので、その言葉に嘘偽りがないことは明白だった。

(確かに人を斬ることは簡単ではない)

 人を斬るということは即ち殺人である。人殺しにはそれ相応の覚悟が必要だ。特に自分の意思で人を殺めるというのは、想像以上の葛藤があることだろう。

 ましてそれが肉親であれば尚更だ。

(凛久殿はそこまで考えておられるのか……)

 そう思うと同時に、志遠の中にも決意のようなものが芽生えてきたのだった。

 剣に狂った者を討つのに年月をかけて修行を行っていたのでは、犠牲者が増えていくだけだ。かと言って無策で挑ませる訳にはいかない。相手は首を落とす技量を持った達人なのだ。少しでも勝機を上げるためには、こちらも準備をして臨まなければならないだろう。

 そう考えた上で、志遠は言った。

 志遠の言葉に凛久は驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情が厳しくなる。

 そして、深くお辞儀をする。

「今すぐ、よろしくおねがいします!」

 志遠もそれに対して頭を下げる。

 死を賭した戦いが始まる瞬間だった。


 ◆


 夜の闇が一面に広がる中に橋があった。

 川の水面が銀色に輝く月光を受けて微かに揺らめいている様子が見える。

 水面に映る揺れるうねりはまるで得体の知れぬ化け物が潜んでいるようにも見え、不気味な様相を呈していた。

 そんな橋の欄干の上に一人の若い男が歩いていた。

 風が一瞬強く吹き、黒いチェスターコートが舞い上がる。

 その姿はまるで闇の中から現れた死神のようであり、月明かりに照らされて浮かび上がった彼の顔は端正な顔立ちをしていたが、どこか冷たい印象を受けるものがあった。髪は黒く艶があり、肌の色は白くきめ細かい。

 だが瞳だけは異様な輝きを放っているように見えた。

 名を白石昴という。

 昴は橋向から、人が橋に踏み込んだ気配を感じ取り自分も橋へと足を踏み入れた。歩幅は身長や体格によって異なり、また靴底の形状等から一定ではないが、それでもおおよその勘で橋の中央で遭遇するように昴は歩いた。

 足音を聞いた限り、その人物はかなり小柄であることが推測できた。

 十代後半の男と昴は思った。

 しかし、それはあくまでも予測でしかないので確信はない訳ではないが、誰であろうと昴には関係ないことだった。彼はただ、剣を振るうだけであるからだ。

 すると案の定、暗闇の中から小さな影が姿を現した。

 ブレザー姿の少年。

(子供か……) 

 心の中で呟くと昴は歩みを止めた。

 すると、相手も歩みを止める。

 やがれ流れる雲の切れ間から月明かりが差し込み、互いの姿を照らし出した。

 昴は少年の顔を認めると、驚きに目を見張った。

 思わず名前が溢れる。

「凛久」

 その言葉を受けた少年は、鋭い目で兄・昴を睨みつける。

 左手には納刀された刀を持っている。

 鞘に納められているとはいえ、抜き身と同様の威圧感を感じさせるほどの迫力が感じられた。殺気によるプレッシャーだ。

 それと共に、昴は自分の後方に人影がいることを感じ取り、視線を走らせた。

 ストレッチスラックスに、ネイビージャケットの青年。

 霧生志遠だ。

 腰には刀と脇差を差しており、油断なく身構えている様子が見て取れる。

 志遠もまた眼光鋭く凜久を見つめていた。

「白石昴ですね。僕は霧生志遠と言います」

 志遠は名乗った。

 2人の対峙を見て取った凜久は小さく息を吸い込むと意を決して言った。

 その瞳からは強い意志を感じることが出来た。

 覚悟を決めた者のみが放つことができる独特の雰囲気を纏っていた。その空気に触れただけで肌が粟立つような感覚を覚えるほどだった。

 3人は互いに睨み合ったまま動かない。

 いや動けないと言った方が正しいだろうか。相手の出方を見極めていなければ迂闊に動くことは出来ないのだ。下手に動けば隙を突かれる可能性もあるし、何より相手に先手を許すことになるかもしれないのだから。

 前後を挟まれた昴はチェスターコートの下で、ゆっくりと刀の鯉口を切る。

「二対一か」

 昴の呟きに志遠が反応する。

「いいえ。戦うのは凛久殿。僕は、あなたを逃さない為にここにいるだけです」

 その言葉に昴は苦笑する。

 この状況下で笑うことが出来る自分に驚いた。

(なるほど……)

 これが武者震いというものなのだろうと思った。今まで感じたことのない感覚だった。

 強敵を前にして自分が高揚していることを実感すると同時に、自分はこの戦いを楽しみにしているのだということにも気付いた。

(面白い……)

 そう思うと自然に笑みが浮かんだ。

(やはり俺は剣に取り憑かれているようだな)

 そう自覚しながらも、もはやそれを恥ずかしいとも思わない自分に気付いて可笑しくなった。

 いや、むしろ誇らしいとさえ思うくらいだ。

 そんな昴に無粋な言葉がかけられる。

「僕は椿華流の呪いから兄さんを助けたい。どうか罪を償う為に自首してください」

 凛久の心からの願いであった。

 それを聞き届けると、兄は無表情のまま口を開いた。その声は低く落ち着いており抑揚がないものだった。

「俺は椿華流の奥義を極めようとしている。刀を持たぬ相手に飽きてきていたところだ。ちょうどいい機会だ。凛久、相手をしてやろう……」

 昴はチェスターコートを肩から滑り落とし、刀を引き抜く。刃先を凛久に向けた。

 凛久も応じるように抜刀して正眼の構えを取る。

 それを見て、昴は口角を上げた。

 その瞬間、彼の姿がかき消えたかと思うと一瞬にして間合いを詰めて斬りかかってきた。

 太刀筋は左鎖骨から右脇に抜ける左袈裟斬り。

(速い!)

 凛久は昴の予想以上の速さに対応が遅れた。

 辛うじて体を捻り致命傷を避けることは出来たものの、左肩口から胸にかけて浅く斬られてしまったようだ。傷口から血が滲み出てくるのを感じた時は既に遅かったようで、完全に避けることは出来なかったらしいことが伺えた。幸い傷自体はそれほど深くない。

 命に関わることはないだろうが、それでも無視できるほど軽いものでもない。痛みは当然あるが、今はそんなことを気にしている場合ではないことも分かっている。今ここで戦うことを放棄してしまえば、二度と兄には勝てないだろうということも分かっていたからだ。

「凛久。昔から俺と稽古試合をしてきたが、お前が俺から一本を取れたことなど一度たりともなかったよな?」

 そう言ってニヤリと笑みを浮かべる兄の表情に狂気を感じた気がしたが、凛久は同時に闘志が漲ってくるような気もしたのだった。

(そうだ……)

 幼い頃から何度となく勝負を重ねてきたことを思い出していた。

 そして、その都度敗北を喫していたことを思い返すと悔しさが込み上げてきたが、それ以上に椿華流の剣を罪もない人々を斬ってまわる兄を止めたいという気持ちが勝っていた。

 その為の稽古を凛久は志遠から受けたのだ。


 ◆


 手入れの行き届いた庭にて、凛久は志遠と対峙していた。

 志遠の手には刀が握られているのに対し、凛久は丸腰であった。彼の息は乱れており額には汗が滲んでいることから、相当疲弊していることが見て取れた。

 だが、それは志遠も同じであるようだった。

「……申し訳ありません、霧生先生。動いてはならないと理解はしているのですが、どうしても抑えられませんでした」

 申し訳なさそうに言う凛久。

 しかし、志遠は何も答えない。ただ静かに目を閉じて佇んでいるだけだった。

「構いません。だからこそ稽古が必要なんです」

 志遠は刀を上段に構える。

 火の構えとも呼ばれるだけに、燃え盛るような闘気が伝わってくるかのようだった。

 凛久は、その気迫に圧倒されそうになる。

 だが、負ける訳にはいかないという気持ちで自分を奮起させつつ、志遠の動きに注意を払うことにした。

 凛久が行っているのは、太刀筋を見る稽古だ。

 何度も打たれ太刀筋を見る力を養うと共に剣への恐怖心を薄めるのだ。防具がない時代は寸止めで行われていたが、今行っているのは防具が無い状態だ。

 刀を一寸手前で止めることになっているが、一瞬の油断があれば木剣でも命の危険があり、かなりの集中力を必要とする。

 それは受け手だけでなく、攻め手も同様だ。

 志遠が手にしているのは真剣だ。

 一歩間違えば凛久を殺しかねない。一撃必殺の威力を持つ刀であるが故に、精神面においても消耗させられることになるのである。

 危険な稽古だが、昴と戦うには白刃を恐れず立ち向かっていくだけの覚悟を身に着けなければ勝ち目はないと判断した上での行動だった。

 志遠が、すり足で間合いを詰める。

 じりじりと距離を詰めながら機を窺っているのが分かる。それはまるで獲物を狙う肉食獣のような獰猛さを感じさせた。少しでも隙を見せれば一瞬で喉元に喰らいつかれるだろうということが容易に想像できた為、凛久は迂闊には動けない状況にあった。

 その鋭利な刀を目の前にした瞬間、全身に走る冷たさと共に、内臓がひっくり返るような恐怖を感じた。刀は、まるで自身が生きているかのように冷酷な輝きを放ち、その刃先が微かに揺れるたびに、彼の心臓は不規則に脈打った。

 月光を受けて銀色に輝くその刀は、夜の闇の中で一層際立ち、まるで死そのものが具現化したかのような威圧感を放つ。

 凛久の視線は、その刀の刃先に釘付けになった。

 まるで氷のように冷たい光を放つその刃は、彼の目には恐怖の象徴として映り、心の奥底にまで染み込んでくるようだった。その刃先が自分の肌に触れる瞬間を想像するだけで、全身の筋肉が硬直し、呼吸が浅くなった。彼の頭の中では、「逃げなければ」という本能的な叫びが鳴り響くが、体は恐怖にすくんで動くことができない。

 刀が少しでも動くたびに、彼の視界は狭まり、時間がゆっくりと流れていくように感じられた。

 耳鳴りが響き渡り、周囲の音は遠くに消え去ってしまったかのよう。目の前の敵が微動だにしないその姿は、まるで死神のようであり、刀の冷たさと相まって、彼の心臓を強く締め付ける。

(この一撃で僕の人生が終わる)

 そう思うと、凛久の喉が乾き、唇は震えた。

 刃が自身の首に迫るその瞬間の恐怖は、彼にとって耐え難いものであり、全ての感覚がその刃に集中していく。

 冷たい汗が額から流れ落ち、彼の視界を曇らせる。

 その中で、刀の輝きだけが鮮明に浮かび上がり、まるで最後の審判を告げる鐘のように彼の心に響き渡った。

 志遠の刀を前に凛久は逃げることなく、恐怖心を克服した時には、彼の体重は3kgも落ちていた。


 ◆


 だからこそ凛久は昴の太刀筋を目で追うことが出来たのだった。

(これならいけるかもしれない……!)

 そう確信すると同時に、凛久は地面を蹴った。一気に加速して相手の懐に入るべく駆け出す。

 その動きを見て昴は一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻し迎撃態勢を取った。彼は右袈裟斬りを放ったが、凛久は左脚を引き半身になって、それを躱すと反撃に転じた。

 刀を返し昴の右胴を狙う。

 しかし、それは読まれていた。

 昴は前へと踏み出す。

 凛久の刀がはしりだす前に、昴は右手で刀を刺突の要領で突き出すと、鍔で凛久の刀を押さえる。

 刀の動きを封じられた凛久に対し、昴は空いた左手を握ると拳を作り脇腹目掛けて打ち込んだ。

 息が詰まる程の衝撃。

 肺の中の空気が全て吐き出されるような感覚に襲われ、後ろへとよろめく。

 そこに目掛けて昴は刀を両手で握ると、横薙ぎに一閃した。

 凛久は咄嗟に後ろに飛び退くことで直撃こそ免れたものの、左肩口を浅く斬られてしまう。痛みに顔を歪めながらも、体勢を立て直そうと距離を置こうとするが、そこへ追い討ちをかけるように昴が間合いを詰めてきた。

 そこから繰り出された昴の刺突技に対して、凛久は反射的に体を捻って回避行動を取ると、今度は逆袈裟に斬り上げられた斬撃が来ることを予測していた凛久はその攻撃を防ごうと刀を構えようとするのだが、間に合わずに腹部に強烈な蹴りを叩き込まれた。

 これが剣道ならば反則だが、武術には反則はない。剣術は、刀剣を使って、敵と戦う武芸のこと。剣術は戦闘術であり、剣術でも必要ならば足蹴りや投げ技を使い、戦場で生き抜くための実戦力を重視していることを考えられている。

 そのことを考慮すれば、昴の攻撃は決して卑怯なものではない。むしろ合理的な戦い方であるとも言えるのだ。

 凛久の口から呻き声が漏れると共に、体がくの字に折れ曲がる。

 地に叩きつけられ、転がっていくうちに砂利や小石が傷口に食い込み激痛が走る。痛みに耐えながら何とか立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまって上手くいかない。

 そんな凛久の様子を見た昴は、余裕綽々といった様子で笑みを浮かべながら言った。

「お前が俺に勝つことなどできると思うか、凛久?」

 昴の声は冷たく、響くように夜の橋の上に広がった。

 その言葉に凛久の心に沸き上がるのは怒りと悔しさ、そして兄に対する悲しみだった。彼は歯を食いしばり、深く傷を負った肩を押さえながらも、再び構え直す。夜風が二人の間を冷たく吹き抜け、凛久の痛みを一層際立たせた。

「昴、もうこれ以上、人を斬るのはやめろ! 父さんも母さんも、こんなことを望んでいなかったはずだ!」

 凛久は叫んだ。

 その言葉に昴は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにその冷徹な笑みを取り戻した。

「お前には理解できない、凛久。俺は椿華流に選ばれた。俺の剣が求めるものを満たすために、俺は斬り続けるしかないんだ」

 言い終えるやいなや、再び昴が突進する。

 彼の動きは早く、冷酷な正確さを持っていた。

 凛久はその攻撃を受け流し、反撃に転じようとしたが、昴の剣筋は巧妙で、すぐに彼の防御を突破してきた。凛久の体に次々と浅い傷が刻まれていく。

 志遠との鍛錬により凛久は昴の太刀筋を完璧とは及ばずとも、軽症に抑えることに成功していた。

 だが、それでも静脈を傷つけ、徐々に出血量が増え、自分の動きが鈍っていくのが分かった。

 凛久は覚悟を決める。刀を八相に構えると、地に根を張ったようにしっかりと踏みしめた。

 昴は凛久の構え足の踏み位置から、次の攻撃を予測する。

(右脚を踏み込んでの、右薙ぎ……)

 そう読んだ瞬間、昴は地面を蹴っていた。

 凛久が待ちの徹した以上、間合いに入った瞬間に刀が飛んで来ることは確信できていた。

 ならば、その刃の下をかいくぐって懐に入って勝負を決する。

(勝った)

 そう思った刹那、昴の胸に熱い感触が走る。

 同時に、鮮血が飛び散るのが見えた。

 一瞬の出来事であった為、何が起こったのか理解できなかった昴だったが、自分が斬られたのだということを認識した時には、脚は止まり立ち尽くしていた。

 そして、斬られたハズの出血は夢か幻かのように消えてなくなっていた。

 凛久には分からなかった。

 なぜ昴が間合いを詰めるのを止め、その場に立ち止まっているのか?

(どういうことなんだ……?)

 凛久は混乱しつつ、昴は背後を振り返る。月明かりに照らされた その顔は驚きから穏やかさに変わっていた。

「晦まし、か」

 昴は、視線の先に立つ青年・志遠に向かって呟いた。

 志遠は、ゆっくりと頭を垂れた。

「一対一の勝負に水を差した無礼。お許しください」

 そう言って志遠は非礼を詫びた。

 一人理解できていない凛久に昴は、何が起こったのかを告げた。

「そこの霧生とかいう奴が俺にしたことは、殺気を放ち刃として相手を斬ってみせたということだ」

 昴の言葉に、凛久はすぐにその意味を理解した。

 武芸者たるもの殺気という目に見えぬモノを相手に戦うことになる。相手の攻撃を読み取り、それを躱すことによって勝利を掴むことができるからだ。

 しかし、この殺気というものは実際に存在するものではないので、読み取ることが難しい。だから、武芸者は修練を重ね、自らの肉体と精神を鍛えることで、殺意というものを感じ取れるようになるのだ。

 それを体得した武芸者がいた。


柳生やぎゅう宗矩むねのり】(1571~1646年)

 柳生宗厳(石舟斎)の五男として生まれ、柳生新陰流を宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだ。

 父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となるが、徳川家に仕官する。上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣した他、関ヶ原の本戦では本陣で参加。大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人を瞬く間に斬り伏せた。

 一介の剣士から大名まで立身したのは、日本の歴史上、宗矩だけとされる。

 その宗矩の剣士としての鋭さを伝える話しがある。

 宗矩は小姓を伴い庭の桜に見とれていた。小姓は今なら背後から襲えるだろう、とふと思った。

 すると宗矩は散歩を止め、何か考えている様子をみせた。

 小姓が、その訳を訊くと、先程一瞬殺気を感じた。回りには誰もいない。不思議なので、そのことを考えていたと語った。

 小姓は青くなり、邪心を語り許しを願ったという。


 志遠は自身の持つ殺気を応用することで、昴の背後にそれを放ち、昴の意識に斬られたと思わせることに成功したのだ。

 昴は志遠の実力を認めたのか、フッと笑った。

「できそこないの弟と戦うより、お前と斬り合う方が面白そうだな」

 昴はそう言って刀を構える。

 志遠は、ゆっくりと深呼吸をしてから言った。

「……今の勝負。相打ちでしたよ」

 それは、昴にとって思いも寄らぬ言葉だった。

「なに?」

 昴は思わず聞き返す。

 志遠は静かに答えた。

「凛久は捨て身で、あなたを迎え撃つつもりでした。己の首が刎ねられる覚悟の上で、渾身の一撃をあなたに叩き込もうとしていました」

 志遠の言葉を聞き、昴は再び凛久の方を見る。

 彼は傷付いた体を庇いながらも、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。

 そんな凛久の表情を見て、志遠は小さく言った。

「兄を止めたい。その気持は理解できるつもりです。ですが、それではダメです。椿華流という剣が、この世から絶えてしまう。

 凛久。あなたには椿華流の心と技を次の世代に伝えていく役割があります」

 志遠は腰の刀に右手を伸ばすと、静かに抜き放った。

「白石昴。あなたの凶行は僕が止めます」

 月明かりに照らされて輝く刀身の美しさに凛久は一瞬目を奪われるも、すぐに我を取り戻して八相に構え直す。

 志遠も正眼に構える。

 二人の間に静かな緊張が走る。

 気が張り詰め、橋の上で風がささやき、月明かりが冷たく二人の剣を照らし出す。

 凛久は自分の傷を忘れ、眼前の決闘を見守るしかなかった。

 橋の上の静寂は、二人の息遣いと風の音だけが支配していた。

 月の光が志遠と昴の姿を浮かび上がらせ、その鋭い眼差しが互いの一挙一動を見逃すまいとしていた。

 凛久は血の気を感じる自分の傷口を無視し、その場に立ち尽くす。

 志遠の瞳はまるで闇夜に光る星のように鋭く輝き、昴もまた、冷徹な笑みを浮かべたままその場に佇んでいる。

 まるで呪いにより石像になったかのように。

 だが、二人の間には、見えない刃が交錯するような緊張感が漂っていた。

 一瞬でも気を抜けば命を奪われるという、張り詰めた空気が凛久の肌を刺し貫く。心臓の鼓動が耳元で響き、彼の全身を駆け巡るアドレナリンが、決して目を逸らさせない。

 互いが互いを斬るために、その間合いを詰める。

 志遠は静かに一歩を踏み出した。彼の目は昴の一挙手一投足を見逃さぬように鋭く光り、手の中の刀が微かに揺れる。

 昴もまた、同じように一歩を進める。その動きは滑らかでありながら、まるで獲物を狙う獣のように緊張感を孕んでいた。

 彼らの距離が徐々に縮まるにつれ、空気はさらに重く、鋭くなっていく。

 志遠の呼吸は静かで整っており、一瞬の隙も見逃さないという決意が全身にみなぎっていた。昴もまた、冷徹な表情を崩さずに、次の一手を見極めるべく集中していた。

 月明かりが二人の剣尖を冷たく照らし出す。

 夜風が彼らの間を抜け、わずかな音を立てて消えていく。その風の音すらも、二人の間に漂う緊張を際立たせる効果音となっていた。

 凛久はその場に立ち尽くし、息を潜めて二人の動きを見守っていた。

 一歩、一歩と近づくたびに、互いの殺気が増していくのを感じる。

 志遠の眼差しは一瞬たりとも昴から離れず、その鋭い視線が昴の心臓を突き刺すようであった。

 昴もまた、その冷徹な笑みを崩さずに、志遠の動きをじっくりと観察している。

 二人の距離が縮まり、刀が届く範囲に入る。

 どちらが先に斬りかかるのか、凛久には予測もつかない。その緊張感はまさに爆発寸前の火薬のように張り詰めており、橋の上の静寂が一層深まった。

 計り、必殺の一撃を放つ瞬間を待っていた。

 昴は志遠の首に鋭い視線を送る。その目は獲物を見定める猛禽のように鋭く光り、全神経を集中させていた。

 志遠の首元に焦点を合わせると、その皮膚が徐々に色を失っていく様子が見て取れる。月明かりが冷たく照らし出す中で、志遠の首の皮膚が白く浮かび上がり、血管や筋肉が際立って見えた。

 首の筋が緊張して浮かび上がり、その下を流れる血管が青く透けて見える。

 昴はその筋肉の動きを細かに観察し、微細な動きすらも見逃さないようにしていた。首を支える骨格が、まるで透けるようにくっきりと現れ、その輪郭が明確に浮かび上がってくる。

 骨の形状や位置が、昴の目にはまるで地図のように刻み込まれていく。

 志遠の喉が微かに動くたびに、筋肉の繊細な動きが皮膚の下で波打つのが見て取れる。昴はその一つ一つの動きを見極め、次の攻撃の瞬間を狙っていた。

(見えた)

 昴の唇が紙一枚程の薄さで開く。彼の視線はまるでレーザーのように鋭く、志遠の首元に注がれていた。

 緊張感の中で、昴の意識はますます鋭敏になり、周囲のすべての音が消え去ったかのように感じられた。

 ただ、志遠の首元に集中し、その一瞬の動きすらも見逃さないようにしていた。

(これが……、達人同士の立会なのか)

 凛久は思った。

 自分が知っている木刀の試合などではない。

 本物の殺し合いだ。

 そう感じた時、自分の呼吸が乱れていることに気付いた。額から汗が流れ落ちるのを感じたとき、自分が対峙している訳でもないのに恐怖を感じていることを知った。


 怖い


 そう思った時だった。

 志遠の切先が僅かに下る。

 隙が生じた。

 その瞬間、昴が地を蹴り、凄まじい速さで突進した。

 一瞬で距離を詰めると、左薙の一閃を放つ。

 狙うは首。

 頸骨と頸骨の隙間。

 正面からでも相手の首を刎ねる。

 椿華流を極めし者の剣技。

 だが、志遠はその一撃に対して冷静に反応した。

 正眼に構えていた刀を右へと傾ける。

 身体と足捌きによって、昴の刀は志遠の持つ刀の鎬を滑るように流される。その動きはまるで風に揺れる柳の枝のようにしなやかで、無駄のない洗練されたものだった。

 刀は真っ向から打ち合わせてはならない。

 ひとたび打ち合えば、どのような出来であっても欠け、折れる為だ。

 二人の刀が接触した瞬間、金属同士がこすれ合う鋭い音が響き渡り、その摩擦によって小さな火花が散った。

 火花は暗闇の中で一瞬だけ輝き、すぐに消えていったが、その一瞬の閃光は二人の間の緊張感を一層際立たせた。

 昴の鋭い斬撃は、志遠の巧みな剣捌きによって、その動きは軌道を外れて無力化された。

 志遠は、そのまま流れるように踏み込み左へとはしる斬撃を放つ。

 昴は、それに対し身を引く。


 避けた


 避けたが、完全に避けきることは出来ず、道着の左胸の一部が裂け刃は肉を撫でていた。

 傷の幅は二寸(約6cm)程あり、血が滲む程度の浅い切り傷ができていた。

 小さい。

 昴は自身の剣が、大の人間の首を刎ねようとしていたことに対し、志遠の斬撃の浅さを見て嘲笑った。

 昴の剣を豪胆とすれば、志遠の剣は脆弱だった。相手の攻撃を受け流し、最小限の力で仕留める技に長けた剣であった。

 周囲に鋼の焼けた臭いが香った。

 昴は唇に笑みを浮かべる。

 志遠の剣理が分かった。

 それが分かったところで、自分には、どうということはない。

 昴は、再び攻勢に転じようと体勢を立て直そうとした。切先を持ち上げ、今度こそ相手を屠らんとした時である。

 ゾクリとした感覚が昴の背中を駆け抜けた。

 それはまるで冷たい手で撫でられたような悪寒であり、全身の毛穴が粟立つような感覚を覚えた。

 昴は自分の意志とは関係なく、その場に片膝を付いた。

 何が起きたのか分からなかった。

 ただ、全身が凍り付くような寒気に襲われたのだ。

 同時に左胸に痛みを感じ、そこに触れるとぬるりとした感触があった。手を見ると 真っ赤な鮮血が付いているのが見えた。

 かすり傷にしては血の色が色鮮やかに思えた。

 大量の酸素を含んだ血の色。

(これは一体なんだ?)

 そう思った瞬間にはもう遅かった。

 意識が朦朧とし始め、全身から力が抜けていくのが分かった。

 視界がかすみ、頭が重くなる感覚を覚える。手足に力が入らず、体が地面に倒れ伏すのを止めることが出来ない。

「バカな。かすり傷のハズだ……」

 絞り出すような声で言い、志遠が答えた。

「いいえ。それは、かすり傷ではありません。僕は三寸(約9cm)だけ斬り込んでいました」

 その言葉に昴は驚愕し、視線を自分の胸に落とす。

 志遠は続けた。

「人を殺すのに切断は不要です。切先三寸(約9cm)入れば頸動脈を絶ち、手首の筋を斬り、胸に入れば心臓を裂く……。剣術は試斬ではありません。切断することだけにこだわれば剣の本質を見失います」

 志遠の剣技は、首を刎ねることを奥義とする昴の剣を否定していた。

 朦朧とする意識の中、昴は必死に顔を上げると、そこにはこちらを見下ろす志遠の姿があった。

 志遠は昴と目が合うと、哀しげに目を伏せた。

 それを見た瞬間、昴はすべてを悟った。

 自分は負けたのだと。

 薄れゆく視界の中で、最後に見たものは月明かりに照らされながら微笑む、妖艶な美しさを持った青年の姿であった。

 そして、彼の意識はそこで途切れたのだった。

 永遠に。

 志遠は刀を振って残心をきめる。静かに息を吐くと、刀を拭って鞘に収めた。

 その行為に凛久は兄が事切れたことを悟っていた。

「兄さん……」

 凛久は兄を自らの手で斬る目的で、ここにやって来たハズだった。

 しかし、兄の命が奪われた場面を迎えると、凛久の心は大きく揺れていた。

 覚悟していたハズなのに、いざ目の前で家族の命が失われると動揺せずにはいられなかった。

 とめどなく涙が溢れてくる。

 悔しかった。

 悲しかった。

 辛かった。

 そんな感情が溢れ出してくると、もう止めることは出来なかった。

 大粒の涙が頬を伝い、地に落ちていった。

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