池の底、その景

@otaku

池の底、その景

 朝目が覚めると外では雨が降っていた。それも、酷い豪雨である。

 だから僕は散歩に出てみようとぼんやり思った。歩いて数分のところにため池があり、その水嵩がこの雨でどのぐらいになっているのかが気になったのだ。僕はまだこのまちに越してきたばかりだった。この地域では住宅街のあちこちにそれなりの規模と存在感でため池が点在していた。

 身支度を整え部屋を出ると、傘を差していても雨は歩いているだけでシャツやズボンへとその粒を無遠慮に打ちつけてきた。その中を二百メートル程進み、四辻で今度は右に折れて、更に進むこと百メートルで公園に行き当たる。公園の総面積はそこそこの大きさであるがその半分をため池が占めているためそこには大した遊具は置かれていない。僕は広場を突っ切って最短距離でため池まで向かう。ため池の周りに張り巡らされている臍ほどの高さの手すりには、表面をびっしりと水滴が覆っている。でも僕は構わず体を預けた。

 雨はいつまで経っても衰える気配を見せなかった。世界がずっとこうであればいいのにと休日の僕は思う。けれど、平日の僕はそれを聞いてうんざりするのだろう。僕は明日の仕事のことを思い少しだけ憂鬱になる。休日は社会から隔離されているように感じるけれど、平日は平日で社会の歯車にでもなったかのような気分に陥る。水を与えられず乾涸びていくのと、歯車として刻一刻と摩耗していくのと、どちらの気分がマシかを論じるのは難しい。その結果、休日の僕は平日を少しだけ憂鬱に思うし、平日の僕もまた休日を同様に思うのだ。

 自己が内部で二つに分裂して争いを始める。それは外から見れば単なる独り相撲にしか過ぎず、全く無益な行為だ。でも時間は流れ落ちる雨粒よりも無慈悲に僕の横を通り抜けてゆき、気がつけば僕は断崖に立たされていることだろう。眼下に広がるのは、検閲に用いられる墨汁の如くのっぺりとした暗闇である。だから僕は、時間の流れを堰き止められたらと、世界がずっとこうであればいいのにと願う。でもこんな毎日が仮に永遠に続いてゆくとしたら、それこそ地獄に他ならないのではないかとも思う。

 地獄は僕の中にある。何にせよため池は傍に佇むそんなちっぽけな存在をよそに降り注ぐ雨をただその身に吸収していく。雨はザーザーと休みなく降っている。その音は地上の全ての営みが立てる音を一様に掻き消してしまう。

 だから僕はその時背後から迫り来る足音に全く気がつくことが出来なかったのだと思う。ある時、背中に強い衝撃が走った。脳がぐわんと揺れる。数秒、ヒューズが飛んだかのように意識をなくし、気がつくと僕は宙で一回転し、時が止まったかのようにはっきりと鈍色の天を見上げている。

 でもそれは無論、刹那の光景である。次の瞬間には僕はため池に転落している。濁流が全身を包んで僕は強く目を閉じた。ゴボゴボと間抜けな音を立てながら、蓮の葉のように巨大な波紋を伴い僕の身体は池の底の方へと沈んでゆく。

 しかしながら、そのため池は底無しであったのだ。

 濁流が身体を運んだ果てには地面ではなく別の天が広がっていた。

 別の天だと咄嗟に分かったのは、打って変わってそこはカラッと晴れていたからだ。公園の遊具で遊ぶ幼児を見守っていた父兄のうちの一人がため池で溺れる僕を発見した。着ていたシャツを縄の代わりにして僕にそれを捕むよう指示し、何とか僕は岸に上がることが出来た。地面に手をつきぜえぜえと肩で息をする僕に救急車を呼びましょうかと彼は声をかけてくれたが、僕はそのご厚意を固辞して、ゾンビの足取りで、腐った体液の如き水滴を滴らせながら公園を去る。そのままアパートまでの道を生前の記憶を頼りに辿る。

 ここは、空が晴れていることを除いて、全く僕の元いた世界と作りが同じであった。だから僕の住むアパートも記憶の通りに建っていて、僕は普段部屋の鍵をかける習慣がないから201号室のドアノブをひねるとそれもすんなり開いた。

 玄関でドブ臭い衣服を全て脱ぐと、僕はそのままユニットバスへと直行した。蛇口を捻るとシャワーがスコールの如く僕の裸に降り注いだ。湯気が朝霧のようにユニットバスに立ち昇る。数分それを浴び続け、今度は水の方の蛇口も捻って温度を調節する。池に落ちたことによって全身を膜のように覆っていた気怠さが次第に過去のものへとなっていく。

 しかしながら、不意に玄関のドアがガチャリと開く音がすると、その瞬間、僕は事態のまずさを悟った。この世界が元の世界と全く同じ作りをしていたとしても、僕自身はこの世界の人間ではない。

 つまり、当たり前に僕の部屋だと思っていたここの住人は別にいるのだということに、その段になって漸く思い至ったのである。

 咄嗟に二つの蛇口を反対方向に捻る。蛇口はキュッと甲高い音を立てて閉まり、すると部屋には静寂がピンと張り詰める。その張り詰めた線の上を綱渡りするかのように、忍び足でこちらへと迫り来る音がする。ミシミシと床板が軋む音が微かに聞こえ、それが止むと、ユニットバスの引き戸の磨りガラスの向こうに人影がある。

 でも引き戸がゆっくりと開けられた時、その隙間から除く人物は、僕にとっても予想外であった。

 この部屋の家主は僕よりも五、六歳は若そうな女の子であったのだ。

 彼女は自分の部屋でシャワーを浴びる見知らぬ男の裸を見た瞬間、ヒッと小さく悲鳴を上げて、そして腰を抜かしてしまった。

「いや、違うんだ。決して怪しい者ではなくて……」

 言いながら、全く説得力がないことは分かっていたから、僕の声は下手くそなリコーダーの音色の如く上ずることになる。

「わた、わたしの、い、家で、な、何してるんですか、か?」

 彼女は彼女で、ぶるぶるとまるで外で激しい氷雪に打たれてきたかのように震えが止まらないため、ワンセンテンスを言い切るまでに多分普段の倍は時間を要してしまっている。

 その時僕たちは、とてもじゃないが言葉によって意思疎通の出来る状態にはなかった。

「……信じてもらえないかもしれないけど、君が帰ってくるまで、僕の家だと勘違いしていたんだ」

 そう言った後、僕は全く悲しくなんてなかったのに、焦りからか、ぼろぼろと両の瞳から涙を流し始めていた。別に彼女の同情を引こうだなんて毛頭考えていなかった。第一僕は俳優でもなんでもないからそんな器用な芸当などできない。

 それでも、あからさまに困り果ててはいたけれど、僕の涙を見て、彼女の身体の震えはぴたりと治まっていた。やがて滑らかに立ち上がり、部屋の方へ消えるとバスタオルを持って此方へと戻ってきた。

「服とかは貸せませんが、これ、使って下さい。その、……前も隠して欲しいですし」

 とりあえず玄関に脱ぎ散らかしていた衣服を洗濯してもらうことになり、待つ間、ズカズカと部屋に上がり込むのも忍びなかったから僕は浴槽に体育座りをした。すると彼女も部屋のベッドでくつろいだりはせず、ユニットバスの外の廊下で僕と同様に体育座りをした。僕に気を遣っているとかではなく、単に自分の監視できない位置に居座られることが不気味だからであろう。

 ただ、結果として僕たちはそこで、お互いの素性について話す流れになった。

 彼女は近くの大学の経済学部に通う四回生であった。現在就職活動を行なっており、今日は日曜日だけれど選考の一環のペーパーテストを受けるべく十一時頃から家を空けていた。

「ちゃんと鍵を閉めて出かけたと思うのですが」

 そう彼女は主張した。確かに女の子が部屋の鍵を閉めずに外出するのは不用心過ぎる気もした。でも鍵は最初から開いていたのだと僕は言った。多分、僕がこの世界に来たことで秩序が微妙に狂ってしまったのだろうと付け加えると、うーんと彼女は唸ったが特に反論はなかった。

 僕が別の世界から来て、別の世界のこのアパートのこの部屋に住んでいることを彼女は当然すんなりとは受け入れなかった。そこで僕はぐっしょりと濡れた財布から免許証を引っ張り出し彼女に手渡した。その住所のところに記載されている文字列を見て、彼女は「これ本物ですか?」と呟いた。僕は頷き、もう一枚保険証も手渡すことにした。それでも疑念が完全に晴れることはなかったけれど、二枚を返すとき、

「とりあえずはあなたの言うことを信じてみます。人を疑うのは苦手なので」

と言って彼女は力無く笑った。

 それからも僕たちは、僕の普段の仕事のことや彼女の就活の状況などを皮切りに、色々なことについて話をした。出会い方が考え得る限り最悪であったにも関わらず、意外に話は弾んだと思う。それはきっと、僕も彼女も社会を生きていくことに些か疲れており、かつその疲れを癒してくれるような話し相手が普段の生活に存在しなかったからである。

 洗濯が終わり、ベランダに干した衣服が乾く頃には外はすっかり夕暮れの様相を呈していた。

 そうして僕たちは連れ立って事件現場である公園へと向かった。時刻は十八時半で広場には誰もいなくなっていた。辺りには涼やかな風が吹いている。

 誰もいない夕暮れ時の公園は少し裏寂しかった。

 ため池の近くまで来ると隣の彼女は手すりの方まで勢いよく駆け出して、そして池の中をじっと覗き込んだ。ノロノロと歩いていた僕が漸く彼女の元まで辿り着くと、彼女は振り返り、

「確かに池の底は濁っていてよく見えないですね」

と興奮気味に言ったよう聞こえた。でもそれは辺りが静かだから甚だしく響いただけかもしれない。ちょうど僕の身体が作った影に隠れる格好で、彼女の顔もまた池の底のように薄暗かったから、本当に興奮しているのか、表情の機微までは読み取れなかった。

「丁度いま君が立っている辺りから僕は突き飛ばされて、池に転落したんだ」

「突き飛ばされる瞬間までずっと、池の方を見ていたんですか?」

「うん」

「でも、池の方を見ていたのだとしても、足音が聞こえてきたりしなかったんですか?」

「向こうの世界では今日、雨が降っていたんだ」僕は言う。「それも、まるでバケツをひっくり返したかのようなひどい雨が。勿論僕が来た時、公園には誰もいなかったし、それどころかアパートから公園までの道中も誰ともすれ違わなかった。だから、こんな日に外を出歩くのは僕だけなんだろうって勘違いしていたんだ」

「じゃあ、なんでそんな日に公園に来ようって思ったんですか?」

 彼女は至極当然な疑問をぶつけた。僕は正直に、池の水位が雨でどのくらい上昇するのか気になったからと答えるが、やはり彼女は納得してくれない。僕は苦笑いを浮かべるが、彼女は意に介さず池の方へと身体を向ける。

 いまこのほっそりとした背中を押して彼女を池に沈めたらどうなるだろうかとふと思う。僕はこの世界で彼女に成り代わってしまうのだろうか。いや、彼女と僕は全くの別人である。では、この世界における僕は一体どこで、何をしているのだろう。僕を僕たらしめるものとは一体?

 でも彼女は池を眺めるのに程なく飽きて、するとまたすぐに此方の方へ身体を向け直した。そうして言う。

「本当は、押されて池に転落したのではなくて、自分から池に飛び込んだんじゃないんですか? 雨の日を狙ったのは、雨ならば誰もこの公園を訪れず、また池で溺れてもがき苦しむ音も雨にかき消されるからで」

 僕は否定しようとするが、言葉を詰まらせてしまう。

 少なくともあの時僕が憂鬱を抱えていたのは確かであった。

 僕が何も言わないのを見て、彼女は更に言葉を続ける。彼女の言葉を聞きながら、僕はまるで傘もささず雨に打たれているかのような奇妙な錯覚に囚われる。こんなに世界は晴れていると言うのに、僕は冷や汗で身体をじっとりと濡らしている。

「もう一度この池に落ちれば今度は元の世界に帰れるかもしれないと仰ってましたけど、もし帰れなかった場合どうしますか? ……つまり、池で溺れてもがき苦しむあなたを、わたしは助けるべきですか?」

 十秒ほどの静寂の後で、僕は分からないと小さく呟く。アパートを出てからまだそれほど経っていないはずだが、空は使い古された肝臓のような禍々しい色へと推移している。

 すると、ザッザッと足音があたりに響き渡る。それは後方ではなく無論前方からである。立ち尽くす僕に近づき、だらりと弛緩している右手を自身の両の手で包むようにして握って、そして彼女は言った。その声音は打って変わって優しかった。だから僕は、表情に出ない程度に吃驚する。

「多分、疲れているんですよ。肌寒くなってきましたしアパートに戻りましょう」

 アパートへ戻ると僕たちは落ちてしまわないよう狭いシングルベッドの上で互いに知恵の輪のように抱き合って束の間の眠りについた。

 でも、暗闇の中、次に目が覚めると僕は独りであった。僕は寝巻きを身に纏っており、窓の外ではザーザー雨が降っている。何より、頭が割れるように痛かった。つまり僕は、今日一日ずっと、つまらない夢を見ていたらしい。見ていた夢は、起きてしまった瞬間から急速に色褪せていった。

 電気をつけて、時計を見ると時刻は深夜一時であった。僕は何となくそうしたくなって古い友人に電話をかけることにする。出ることはないだろうと半ば、たかを括っていたけれど、五コール目の途中で呼出音は、まるで理不尽な運命のようにプツリと途切れる。

--久しぶり。こんな時間にどうしたの?

「いや、ちょっと久しぶりに声が聞きたくなって。いま何してた?」

--もう眠るところだよ。そちらは?

「僕は今起きたところなんだ。信じられないかもしれないけど、今日一日ずっと眠りこけていて」

--勿体ないと言いたいところだけど、まあ今日は一日雨だったしね。

「そっちも雨降ってたんだ」

--天気予報が今朝方言っていたけど、今日は全国的に雨だったらしいよ。

「そっか」

--うん

「君は何してたの?」

--ずっと家で小説を書いてたよ。

「まだ小説書いてたんだ」

--まだって、私は芽が出るまでやり続けるから。

「いいね。何だか昔が懐かしくなったよ」

--ねえ?

「何?」

--なんで突然電話なんかしてきたの?

「え?」

--もしかして今から死ぬんだとか言わないよね?

「もし仮にそう言った場合何かしてくれるの?」

 暫しの沈黙の後で友人は言った。

--悪いけど、引き止めたりは出来ないよ。

「うん」

--もう随分会ってなかったから、あなたが今、どこでどんな状況にいるのかなんて全然分からないし。

「まあね」

--ただ、私は小説家だから、あなたみたいな人に向けた作品もいくつかあって、だからどうせ、死ぬつもりなら最後に実験台になってよ。

 それから友人が電話の向こうで始めた朗読は、外の雨音がノイズのように混じるからまるで、異世界から僕の住む世界へ宛てた通信をたまたま傍受しているかのように鼓膜に響いたけど、中々悪くはないと思った。

 友人の話は結局暁の頃まで続いた。外ではもう、雨は上がっていた。

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