序章 平和な世界

 最後に聞こえたのは、耳にさるような車のブレーキ音。直後に走った全身の痛み。目に映った空がかすみ、すべての感覚が消え意識をなくした。と思ったけれど、ほどなくして無になった視界が光を取りもどした。明るい部屋。てんがい付きのベッド。身じろぎをすると体がやわらかいとんしずむが、広々としたそれはとても病院のものとは思えない。

(ここは……?)

 手をついて上半身を起こすと、自分のうでが目に入った。日焼けしていない白い腕と細い指。両手を見下ろした時とろりとかたから流れてきたのは、はちみつみたいなきんぱつだ。

(これ……私?)

 意識がぼんやりしているが、確か自分はくろかみで、もう少し日に焼けたはだをしていたはず。

(私……私は……)

 じようさきだ。確か、友人と会った後の帰り道で、車にかれたはずだ。

(でも、私生きて……それに、どこも痛くないし。もしかして、夢……?)

 車に轢かれたことが夢だったのか、今が夢なのか。それとも、どちらも現実か。

(まさか……死んで生まれ変わった、とか? それにしてはもう大人の体みたいだけど)

 とはいえ夢と理解するには、やけにはっきりとした視界だ。やはり生まれ変わったのだろうかと考えて、じわじわと胸が熱くなってきた。

(もしかして私、まだ生きられるの……? 人生をやり直せるの? もしそうなら、今度こそ平和でおだやかな人生を──)

 そう思って顔をあげた時、広い室内にある二人の姿が目に飛び込んできた。

 一人はきように青ざめゆかにへたり込み、かべぎわまで追いめられたよろい姿の男。

 そしてもう一人は、けんを持ち男の前に立つ黒衣の、ぎんぱつの男。男が持つ剣先からは、やけにリアルな映画のように、真っ赤なせんけつが流れ落ちていた。

「──っ!」

 おどろきすぎて声すら出なかった。異様なことに、男たちには大小の差はあれど、耳の上からツノが生えている。パニックになりかけるが、だれかの動く気配に視線を動かした。もう一人鎧姿の男がいたようで、ベッドの下から美咲に手をばしてくる。肩にを負っているらしく勢いはないが、美咲の顔にれようとしているのか。それが顔ではなく首をつかもうとしているのだと気づいた時、男と美咲の間にナイフが飛んできた。

 ──ビイイイィィィィィン

(ひ……ひいいいいい!)

 鼻先を過ぎ、真横の壁に刺さったナイフを見てふるえが走る。ナイフには血がついており、美咲に触れようとした男は傷ついた自分の手をにぎりうずくまっている。

 おそるおそるナイフが飛んできた方向を見れば、剣を手にした男がこちらを向き、ナイフを投げたと思われる手をこちらへ伸ばしていた。

 どうやら美咲がかんした新しい人生の平和は、目覚めて三秒で終わりを告げたようだった。

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