父の遺言
苦虫うさる
第1話 奇妙な話
1.
「世の中には知らないほうがいいこともある」
死んだ父は、よくそう言っていた。
私がその話をすると母は言った。
「世の中には、
よほど私が不服そうに見えたのか、母は笑いながら付け加えた。
「父さんの言いたいこともわかるわよ。何もかも残ったほうがいいとは限らないもの。『墓場まで持っていく』って言うでしょ」
母の言葉に納得したわけではなかったが、かと言って反論するほどでもなかったため、私は「そうかな」と答えて話を終わらせた。
※※※
次にそのことを思い出したのは、父の遺品を整理している時だ。戸棚の奥から、父が旅行先で見聞きしたことを書き記したノートを見つけたのだ。
「父さん、旅行のノートなんてつけていたのね」
母も知らなかったらしく、パラパラとノートをめくりながら驚きを込めてそう言った。
父は旅行に行くことが好きだった。結婚し、私たち兄弟が生まれてからもよく一人で出かけた。
どこか家庭に馴染まないところがある人で、父が家にいると落ち着かない気がした。
父が私たち兄弟に辛く当たったことは一度もない。何ひとつ不自由なく育ててくれた。にも関わらず、父に対して親密な気持ちを持てないことを、私は申し訳なく感じていた。
父が死んだあと、生前言っていたことや書き残したことが気になったのは、そういう理由もあるのだと思う。
ノートは、日記と言うほど大げさなものではない。簡単なメモのようなものだ。
旅先で写真を撮る人がいるように、見聞きしたことが言葉によって形を与えられ、標本のようにノートに張りつけられていた。
「3月14日
「6月30日 赤倉、大岳を通り、
十冊ほどあるノートをパラパラとめくっていくと、日付は父が倒れる直前を起点にして、規則正しく刻まれた時を逆行するように過去へと戻っていく。
2020年、2015年、2012年、2008年、2005年、2001年……。
三十分もかからず一番最後のノートにたどり着いた。
そのノートは、開く前からどこか他のノートと雰囲気が違った。
そして開いた瞬間に、自分の直感が正しいとわかった。
ページが黒く塗りつぶされていたのだ。
いや、塗りつぶされているのではない。
行間も空けず、ページいっぱいにびっしりと文字が書かれていた。
表紙を見て、ノートの日付を確認する。
198X年といえば、父がまだ大学生だったころだ。
8月12日の夜。
山の中にある無人の小屋に、父は一人でいた。その時の話である。
私は椅子に座り直し、ノートに書かれた文章を読み始めた。
2.
小屋の中は外よりも暗かった。
窓の外を見ると、空に黒い雲がかかっていて月も星も見えず、濃密な暗さが立ち込めている。
助かった。
日が落ちて暗くなり、雨が降りそうな空模様になった時にはどうしようかと思った。
腕時計を見ると、午後7時を過ぎている。
予定なら、とっくに下山している時刻だ。
私はザックを下ろし、寝袋を床に敷き、その上に座って携行食を食べ始める。
改めで見回してみると、かなり広い小屋だ。
長い間、使われずに放置されていた建物のようで、床には砂と埃が積もっている。
明かりがないため、小屋の奥のほうがまったく見通しがきかない。黒々とした闇が見えるばかりだ。小屋全体が一体どれほどの広さなのか、奥に何があるのかよく見えなかった。
小屋の中は異様に静かだった。存外しっかりした作りなのか、風の音さえ聞こえない。
袋を破ったり食事をかじる音がやたら大きく感じられ、私は急いで食事を済ませた。
明日に備えて寝ようか。
そう思った時。
何かが体の内側の感覚をさらりと撫でた。
小屋の奥のほうの薄闇が少し蠢いたような気がした。
私は、ジッと目を凝らして闇を見つめる。
「どなたか、いるのですか?」
小屋の中は、しばらくシンと静まり返ったままだった。
「ここを管理をしているかたですか」
私がもう一度声をかけると、闇のさらに奥のほうで何かが身じろぎする気配がした。
「いいや、違う」と短い言葉が返ってくる。
私と同い年か、せいぜい五、六歳程度しか離れていなさそうな若い声だ。
そうして、不意に闇の中から男が姿を現した。
かなり大柄な男だった。平均的な身長である私よりも、身長も横幅もひと回り大きい。シャツとズボンの上下に薄手のベストをつけ、登山用の帽子をかぶっている。
愛嬌のある顔立ちをした男で、そばまで来ると人なつっこそうに笑った。
「やあ、何か食べるものはあるかな。今日中に下山する予定だったから、食べ物を切らしちまってね。昼から何も食べていないんだ」
私は残っていた携行食を「どうぞ」と差し出すと、男は礼を言って受け取り、がつがつと食べ始めた。
「君も時間を読み違えたの?」
男は食べながらそう聞いてきた。
私は言った。
「今朝、家を出るとき天気がぐずついていたから出ようかやめようか悩んで時間を取られましてね。結局、来たわけですが。あと下りに意外と手間取って」
「俺もだよ」と、男は気さくな口調で答える。
「いつもならせいぜい五時間で下りられるんだけど……とんでもなかったな。良かったよ、人がいて。普段、ほとんど人に会わない山だからさ」
男はそう言って、屈託なく笑った。
予定通り下山できず、同じ場所に停滞することになった。
その連帯感と夜の山の中という特殊な環境が、私たちの間に日常ではすぐには形成できないような親密な空気を生み出していた。
食事をしているあいだ、男と私は他愛のない話をする。ほとんどが今まで登った山のことだった。
しばらく話をしたあと、男はふと小屋の中を見回した。
「君は一人でここに来たの?」
「はい、まあ……」
私は頷いた。
見ればわかるだろうに。なぜそんなことを聞くのか。
そう思い、訝しげに男の顔を眺める。
だが男は、なおも辺りを気にしている。
「どうしたんですか?」
男は暗い小屋の中をぐるりと見回しながら言った。
「誰かに見られているような気がしたから」
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