憧憬②

 友人との待ち合わせ場所に向かうため、人通りの少ない裏道を歩いて文化通りを目指していた。月一で通っているネイルサロンの方向だから迷いはしない自信がある。闊歩している時に背後から声をかけられたのだ。




「あの、すみません」




 警戒しながら振り返ると可愛らしい女の子がこっちを見ている。二十歳前後だろうか、周辺には人がおらず私に向かって声をかけたのは明らかであった。洗顔フォームを配っているんですけど、と言い出す心配はないであろう素朴な雰囲気がある。




「どうしましたか?」


「あの、稲毛海岸までは、どう行けばいいですか?」

 



 

 稲毛・・・だと・・?



 千葉県だっただろうか。地理は一番の苦手科目であったし、埼玉県民の私のテリトリーからは完全に外れた場所だ。そう伝えようと思った瞬間、察したのか向かい合う彼女が泣き笑いの表情を浮かべた。




「さっき山梨から出て来たばかりで、こっちに知り合いがいなくて」

 




 なんてこった!


 そんなことを聞いたら断れるわけがないじゃないか。ふと時計を見ると四時半過ぎ、相手陣との待ち合わせは六時半。ミサトと落ち合うのに集合時間は設けられていないので切羽詰まってはいない。彼女は4限まで講義があると聞いていたので連絡を待ちながら渋谷をプラプラ歩く予定でいた。




「妹の結婚式なんです」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」




 笑顔はあどけないが、ご結婚されるような妹さんがいるということは見かけよりも結構年齢が上なのかもしれない。



「何線に乗るとかはわかりますか?」

「半蔵門線?て言ってた気がします。すみません、東京に行くなら渋谷にも来てみたかったんです」

「わかりますよ」




 謝ることはない。私だって上京する前やしたての頃には来てみたかった。かといって結婚式という一大イベントの直前に来ようとは、見かけによらず大胆な行動に出る人だ。せめて前日に来よう?


 それでも気持ちはよくわかる。稲毛海岸もひっくるめて“東京”と呼んでしまうことには特に共感しかなかった。






「他のご家族は先に?」

「ええ、恐らく」





 別に就活に備えて徳を積もうという下心があったわけではない。田舎者だった頃の私を見ているようで心配になったのだ。彼女がダサいとかそういうことを言いたいわけではなく、むしろファッション誌から飛び出して来たような洒落た服装をしていた。そうではなく、今はどうだか知らないが当時の渋谷なんか少し歩けばキャッチセールスだとか怪しいスカウトだとかがわんさかいた。


 こんな風に簡単に人に道を聞いてしまうところも可愛らしい容姿も―――恐らく私よりも年上だったのだろうとは思うが、彼女からは純粋さが滲み出ていた。なんというか隙がありすぎる。




「私もあんまり詳しくないんで、一緒に探しましょう」

「良いんですか?」




 ぶっちゃけ、そんなに良くもなかったが腹は括ってある。飲み会に遅れるくらい何だ。わざわざ美容院に行った上に遅れて来るなんて、そんなにまでして主役になりたいのかと思われたとしても、このまま心配しているよりずっといい。行き方も知らないけれど送り届けてしまう方が気が楽なくらいだ。




「結婚式は何時からですか?」

「七時です」




 まだ五時前だから間違えさえしなけえば間に合うのではないか。どのくらい時間がかかるのかなんて検討もつかないが同じ関東だ、二時間も三時間もかかる距離ではないだろう。

 ちょうどよく電話が鳴った。待ち合わせをしている友人からだった。


 その瞬間、頭の中で閃光が走り抜けるのが見えた気がした。彼女が千葉県から通っていることを思い出してハッとしたのを憶えている。いや、正直にいえば今思い出したのだが。




「ちょっと聞いてみますね、友人が千葉県の人なんです」

「え、あ!すみません」

「玲どこにいる?あたしもう着いちゃったー」



 友人の声は間延びしている。山奥に閉じ込められて難しい話を聞かされながら夕方を迎える閉塞感と、そこからの解放感といったらない。



「私ももう渋谷にいる!ねえ美聡、稲毛海岸てどうやって行くの?」

「え、―――――何処からの話してる?」

「うんと、・・渋谷?」

「うほ!マジか!結構時間かかるよ?つうか待て、これから行く気?」

「私じゃない」




 かいつまんで話すとミサトはすぐに「道を聞かれたけれど私自身いなかっぺだから、どうしたらいいかわからない」旨を理解してくれた。彼女は名前の通り美しく聡明だった。




「わかりやすいのだったら東京駅まで行って京葉線だな。山手線で行った方が良いと思う、間違えようがないから」

「わかった!」




 さすがミサト、今いる位置からならば湘南新宿ラインという手段もあるが、タイミングが悪ければ待ち時間が山手線の比ではない。間違えて乗ってしまって東京駅を通らない場合もあるかもしれない。地下鉄は乗り継ぎで迷う可能性が高い。急がば回れである。これは超方向音痴なりに就活を重ねる中で学んだことだった。




「京葉線まで東京駅ん中めっちゃ歩くけど、不安にならないで向かうように伝えて」

「わかった!後でスタバおごる!」




 電話を切った後、私は歩きながらミサトから指示されたことを彼女に話した。不安ではあったが、心配していたよりも早く改札に辿り着くことができた。思えば自他ともに認める超方向音痴の私が道案内だなんて大それた真似をしたものだ。今考えるとヒヤヒヤする。




「なんか地下を歩くらしいんですけど、結構な距離を」

「わかりました」

「諦めずに進めということでした」

「頑張ります」




 リュックから取り出したノートを一枚やぶって自分の電話番号を書き込んで渡した。学校の帰りで助かった。電話番号も、ちょうど就活中で何度も書いているから調べなくても手が憶えている。ついでに【京葉線】と書き足した。無いとは思うが京王線を探して彷徨さまようのを懸念した。




「これ私の番号だから、不安になったら連絡してください」「私も詳しくないけど調べるし、友達に聞いたりはできるから」




 紙切れを受け取った彼女が驚いたような顔をしていたのだけ思い出せる。それから深々と頭を下げたのだった。艶々の黒髪が躍って甘い匂いが漂って消えた、というのは思い出補正だ。




「ありがとうございます」




 いいから走って!!


 彼女のふんわりとした足取りを見てそんな風に思った気がするがよくわからない。もうずっと忘れていた話だ。改札に消えてゆく後ろ姿を見送ると私も踵を返して走り出した。何の自慢にもならなくて残念だが昔から足は無駄に速い。走りながら電話をかけた。




「ごめんミサト、どこにいる?」




 ミサトはすぐに電話に出てくれて、有名なカフェの名前を言った。その近くで待機しているらしい。私が困ったら出動できるように店には入らず待っていてくれたのだと解釈した。




「ここの支払いは任せろ!」

「黙れ、このいなかっぺ!」




 調子乗んじゃねえ!と言い張る彼女を力技で捻じ伏せて私は会計を済ませた。




「ちゃんと電車に乗れたかな?」

「だといいな」




 乗れていますようにと二人で手を合わせる。連絡が無いところを見ると無事に向かうことができているのではないか。そう思うのに何度もスマホの画面を確認した。




「玲なら時間があれば送って行っていたんだろうね」

「道を知りもしないくせにね」




 アイスの何ラテだか忘れたが、ストローで掻き回すとグラスの中で氷がカランと音を立てた。



 飲み会の前半は楽しかったけれど、盛大な外れだった。まあ「お付き合いを」となる前に酒癖の悪さが判ってお互い良かったというところだろう。ミサトの自棄ヤケ酒に付き合って、潰れかけた彼女を連れて一人暮らしの自宅に帰った。途中からタクシーに乗った。



「ねえミサト、あの男はやめておこ?」

「うん、ありがとう」



「あの男は私の人生に必要ない」


 そう言って、私の部屋に着くとミサトは彼の連絡先と、これまで連絡した履歴を削除した。辞めたバイト先の店長だったらしい。一回り年上ということだったが年齢の割に驚くほど若く見え、爽やかで愛想も良かった。が、途中からとにかく酒癖が悪かった。一緒に来ていたご友人をバカにして笑いを取るようなところが気になったことと、他の席のお客さんにまで絡みだしたところでお金を置いて抜け出して来た。友人の方から謝られたが、彼一人に押し付けてしまったようでかえって申し訳ないことをした気分ではある。

 翌朝、ミサトは店長の酒癖の悪さも形跡を削除したことも憶えていないようだったが悔やむような言動は見られなかった。それは本能で冷めたということなのか、どうだったのだろう。憶えていないのか聞かなかったのかもう思い出せない。一緒に学校へ行って、食堂にモーニングがあることに二人で驚いた。


 ついでに話しておくと就職活動も上手くいったとは言えない。やはり第一志望の会社から採用の連絡はなく、なんとなく受けてなんとなく内定をくれた映像関連の企業に入社した。漫画やアニメや映画なんかも扱うことがあり、話の合う仲間ができて楽しく過ごした。

 楽しかったから、この時間は長くは続かないのだろうなという予感はなんとなくしていた。いつだってそうだ。案の定あっけなく倒産したのは私の身の丈に合っていたということなんだろう。楽しかったな。今でも思い出してしまう優しい時間だった。


 

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