第5話:ほんの少しの空想と(中編):文人

 暖かな陽気の中、僕は洗濯物を干し、最低限の掃除を終えて家を出た。外の空気はまだ春の優しい気配をまとってはいるが、その中に容赦ない夏の兆しが垣間見えた気がして僕はわずかに目を細めた。風はまだ穏やかに肌を撫でているが、この感じだとすぐに暑くなりそうだ。

 僕はワンポイントの白いTシャツの上にダボッとしたチェック柄のシャツを羽織っていた。まだ長袖は外せないこの季節、チェックのシャツは僕の誕生日に千恵美が贈ってくれたものだった。サイズが少し大きいのではと思ったが、これは千恵美いわく、オーバーサイズというものらしい。着てみたら存外悪くなかったもので、ことあるごとに着用している。似たようなデザインのものを追加で何着か買って着回しをしているほどには気に入っている。そもそも千恵美が贈ってくれたものであるというだけでも、僕にとっては特別だった。そういうものは、ほかにもいくつか保存してある。これはさすがに、妹煩悩が過ぎると言われたら否定はできないのだけれど。

 とにかく、僕は今日図書館に行く予定だった。左手首の腕時計を確認する。9:00を少し回ったところだ。図書館が開くのは10:00だから、ちょうどいいかもしれない。僕が住んでいるところは駅からそう離れていないから、バスに乗ってすぐに目的地へと向かうことができる。たぶん10:00を少し過ぎたころには到着しているだろうと思う。特に予定がない土曜日なんかは、暇なときに読む用の本を探しに行く。そして日曜日は一日中それを読んでいる。それが僕の休日の過ごし方なのだ。

 駅前のバス停から図書館前に止まるバスに乗る。ここまでは歩いて20分。バスでも来れるけれど、最近は運動不足を気にして、荷物が多くない限りは極力歩くようにしている。バスは比較的空いていて、いくつかの座席が空いていた。僕は入口近くの二人席を選び、窓側に座る。座りなれた硬めの座席、トートバッグは膝上に抱えて窓の外の風景を眺める。いつも出勤でこのバスに乗るときは何か本を読んでいるのだけれど、たいてい土曜日にはもう読み終わってしまっているので手持無沙汰になる。だから毎回この時間には、次に読む本を考えることにしている。

 司書の仕事には新しく棚に並べる本の選択、発注や目録の作成などが含まれているし、案内や貸出業務などをやっていると、どういった本が収められているかを知らず知らずに覚えてしまう。流行りのものや賞を受賞したものなんかは書店でチェックして何冊かは実際に買って読んでいるのでそういったものはあまり借りない。むしろ図書館では、少し前に流行っていたけど読みそこねてそのままの本や、書店では並んでいない専門書、古めの文学作品なんかを借りることが多いし、その方が有意義だとも思う。

 いくつかのバス停を通り過ぎる間、車内では人が増えたり減ったりを繰り返しながらもおおむね一定の人数で安定していた。がたがたと直に振動が伝わるような揺れ方はいつも通りではありながら、今日は一層穏やかな空気が漂っているようにすら感じるほどに、車内は平穏そのものだった。

 図書館にたどり着いたのはおおむね予想通りの時間だった。予定通りと言ってもいいかもしれない。それとなく武骨で飾り気のない四角い建物が目の前にある。まだぎりぎり開館しない時間ではあるが、もうすでに人がまばらに待っていた。いつもなら少し早めの時間だとしても準備が整えば開けてしまうのだけど。もしかしたら準備が難航しているのかもと思い、確認してみることにした。幸い、職員証は貴重品と一緒にまとめて持ち歩いているので問題ない。僕は裏口から職員室に行き、今日の担当の職員を確認することにした。

 ひとまず、僕が勤めている図書館には毎日10人程度の職員で業務をこなしている。資格を持った司書は僕を含めて全体で6人いて、一日の担当は2~3人、それ以外はバイトやパートの職員も入れて構成されている。僕も大学生のときにこの図書館でバイトしていた。大学在学中に司書資格の取得条件を満たし、卒業して司書資格を得てからは、常勤職員として働いている。つまり、この図書館とはかなり長い付き合いなのだ。

 そういえば、と思ってスマホを取り出す。もし誰かが休んで人手が足りないなら連絡が来ているかもしれないと思ったからだ。連絡用のアプリを起動する。僕はあまりスマホを見る習慣がない。だから何か連絡が来ていたとしても反応するのが遅くなってしまう。

 案の定、今日の担当司書である赤坂さんからヘルプ依頼の連絡が来ていた。まだ誰も返信を返していないので、成り行き上仕方ないかとメッセージを記入する。「午後は用事があるので、お昼まででよければ入ります。」そして送信ボタンを押す。続いて「よかった、それなら残り半日は私が入りますよ。13:00からでもいいですか。」と非番職員の上野さんから連絡が入る。「大丈夫です。よろしくお願いします。」これは赤坂さんからの返信だ。時間を確認すると、もう10:00の開館時間を少し過ぎていた。

 急いでトートバッグをロッカーに入れ、中から「司書:倉内」と書かれた名札を取り出し胸元に着ける。職員証を端末にかざしてタイムカードを切った後、首から下げてTシャツの胸ポケットへと入れる。ロッカーのカギを締めたことを確認して。スタッフルームを出て館内に入る。赤坂さんは1階のメインカウンターにいるはずだ。急いで行って業務を確認しないと。

 メインカウンターまでの廊下を早歩きで歩きながら周囲を見回す。すでに開館は済んでいるらしく利用者の方々が館内に入り始めていた。僕は利用者の方とすれ違うたびに「こんにちは」とあいさつをする。休日の利用者は子供から大人まで様々だ。当然ご年配の方もいる。そうやって何人かとあいさつを交わしたあとでメインカウンターにたどり着き、そこで何かの書類を確認している赤坂さんに声をかける。

「おはようございます、遅くなってすいません。業務の確認をしてもいいですか。」

「おはようございます、あら倉内くんね、来てくれて助かったわ。今日は新しい書籍の搬入があるのに一人休んじゃって困っていたの。まだ搬入業者は来ていないけど、その前に返却済みの本を棚に戻してきてくれないかしら。他の職員もいるけど早めに終わらせておきたいの。返却ポストの本の確認と返却も済んでいます。それも前日の返却分と合わせて、一緒に積んでありますからね。その間に業者が来ると思うから、中身の確認はメインカウンターでやっておきます。分類と目録への追加作業は終わっているけれど、最終確認とラベル張りもしないといけないから大変ね。お昼になったら上がって。午後から来る上野さんへの引継ぎと、それまでのつなぎは私の方で回しておきますからね。」

「分かりました。お昼は大丈夫そうですか。」

「大丈夫よ、上野さんが来たら彼女に一人で回してもらってその間に取るから。返却や貸出に必要なスタッフの人数は足りているし、しばらくはイベントの企画もないでしょう?新しい本紹介のコーナーの設営に関しては前もって考えてポップも作っておいてくれたからあとは設営するだけでいいのよ。問題ないわ。」

「OKです。意外と何とかなりそうですね?」

「そうね。それにあなたも上野さんも仕事が早いから。それじゃあ、よろしくね。何かあったら無線で呼びます。」

 そう言って赤坂さんはカウンターの仕事に戻っていった。彼女は僕より一回りほど年上で、大学バイトの頃からの付き合いだ。おせっかい焼きな人柄も相まって、かなり良くしてもらった記憶がある。早口でまくし立てるような話し方をする人ではあるが、物腰は柔らかくて対応もよく、利用者か職員かにかかわらず評判がいい。

 僕は赤坂さんの仕事を邪魔しないように早急にその場を立ち去ることにした。僕も自分の仕事に取り掛からないといけない。他の職員は各階のカウンターですでに業務を始めているか、僕と同じように各フロアで本棚の整理をしているはずだ。僕は返却済みの本が積んであるカートを押しながら、本を棚に収めていく。いつもやっているから慣れた作業で、あっという間にカートが空になった。カートをメインカウンターの裏に戻しに行くと、ちょうど本の場所を尋ねに来た利用者の方がいたので、僕が案内を買って出る。探している本について聞いてみると、郷土資料を探しているみたいだった。郷土資料の棚は2階にある。僕はメインカウンターに行き先を伝え、利用者を連れて2階に向かった。

 目的の棚に案内を終えにこやかに別れた後で、僕はふぅとため息をついた。今日は僕が自分で読む本を探しに来たのになぁという複雑な気持ちが、時間差で僕に襲い掛かってきたみたいだ。間違った棚に戻されている本を直しながら、さりげなく目は次に読む本を探してしまう。やはり前々から気になっていたあのSF小説にしようかなぁ。あの作者の本はまだ一度も読んだことないし、あらすじはよくある時間遡行ものだったけど、戻れる時間に縛りがあるのが面白そうなんだよなぁ。そんなことを考えながら棚の間を歩き回っていると、先ほど案内を終えた郷土資料の棚の間に久しぶりかもしれない人の姿を見かけて、僕は思わずそちらへ向かって歩き出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る