彼女と私の秘話 〜古代エジプト令嬢はカタブツ神官を誘惑する〜
みかみ
第1話 秘話の始まり
「わたしを連れて、逃げて下さいませんか!?」
何か御用ですか、などと訊くべきではなかったのかもしれない。知り会ってから顔を合わせるのは三度目の彼女に、まさかこんな事を言われるとは思っていなかった。
いつものように奥庭にやってきた野良イヌや野良ネコたちに残飯をやっていると、壁の向こうに身を潜めている彼女の姿を発見したのだ。だから、うっかり名を呼んで、ここに来た理由を訊ねてしまった。
エジプトのメンフィス王宮で書記を務めている男の一人娘、レクミラ。歳はおそらく、二十歳になるかならないかだろう。そんな彼女が一体なぜ、ここプタハ大神殿の神官である私なぞに、自分を連れて逃げろ、などと頼むのか。
しかも顔面を真っ赤にして。
「逃げる……とは、一体どこへ?」
「ええ、イエンウィア。あなたと一緒ならどこへでも! このメンフィスから出て他の町で暮らしてもいいですし。いっそのこと、エジプトを出国しても構いません! 神々やファラオの加護が届かない場所でも、貴方さえいれば、私はきっと耐えられます!」
申し訳ないが、私はもう既に音をあげそうだ。
私は逃げる目的すら伝えられていない。なのに、早くもレクミラは、逃げた後の私との暮らしを想定している。
私を見つめる彼女の瞳は期待と興奮でうっすらと濡れており、胸の前で硬く結ばれた手は、緊張のせいか少し震えているようだ。
この珍事を切り抜ける為に、私はどうしたらよいのだろう。
「あっ、ごめんなさい。いきなりで驚かれましたよね。今から弁明いたします」
駄目だこれ以上喋らせてはならない。
私の自己防衛本能なのか、神のお告げなのかは定かではないが、頭の中に警告が響く。
「いえ、ここは一般人立ち入り禁止区域ですので一刻も早くお引き取りを――」
「先日あなたは供物を盗もうとした子供に、『祈祷前だから駄目だ』と教え、『お腹が空いているなら祈祷後の供物をやるから今度からは自分を呼べ』と手を差し伸べられましたよね。
それから、ただ正義感だけで子供を庇おうとしていた無知な私にも『供物泥棒は切断刑に値するから見て見ぬふりはしてはいけない』と丁寧に説いて下さいました。
そんなあなたに、私はすっかり心を奪われてしまったのです。
これは、是が非でもあなたを落として結婚まで漕ぎつけなければと思いました。けれど残念な事に、私の父は良いお家にわたしを嫁がせたいらしく、お見合い相手を探している真っ最中なのです。
だからいっそ、あなたと一緒に逃げたいという衝動に駆られてしまい……。
いくら時間が無いとは言え、少し事を焦り過ぎでしたね。やはりここは、逃げるのではなく貴方と一緒に父を説き伏せるつもりでいきませんと」
信じられない。弁明どころか追い打ちをかけてきた。
「申し訳ありません。貴方のお気持ちには応えられません」
きっぱり断ると、彼女の眉尻がみるみる下がる。
「もうご結婚されているの?」
「いいえ」
私は独り身だ。結婚を急いでいるわけでもない。
「恋人がいらっしゃるとか?」
「違います」
募集中ですらない。
「では……私がお好みではないのかしら」
レクミラの容姿は、エジプト人の多くを占めている赤褐色肌に黒髪黒目、という濃色よりも、全体的にやや薄めの印象を受ける。柔らかく波打つ茶色の髪。艶やかなオリーブ色の肌。緑がかった大きな瞳。客観的にみても彼女は美しい。しかしそれを伝えると、彼女の期待を煽ってしまう事になりかねない。だから私は、こう言うことにした。
「それ以前に、告白前に自分を連れて逃げろと言ってくる相手を貴方ならどう思いますか」
「情熱的?」
おかしい。
彼女は真面目に答えたはずだ。私をからかっている風でもない。
なのに、まともな会話ができる気がしない。
レクミラは――
そうだ。彼女はズレた思考癖の持ち主に違いない。彼女に一般的な反応を求めてはいけないのだ。
ならば、会話や説得で理解を得ようとするよりも、行動で示したほうが賢明だろう。
「とにかく、貴方の希望には応えかねます。それでは」
つまりは、さっさと去るに限る。
念の為失礼が無いよう、一礼は忘れず。動物達が食事を終えた皿を手早く片付けた私は、神殿内部へと引っ込もうとした。
「えっ。ちょ、ちょっとまって」
背後から、レクミラが呼びとめる。しかしここで立ち止まってはいけない。私は歩調を速めた。と、その時。レクミラが絞り出すような声で求める。
「ごっ、ご飯――くださいっ!」
思わず振り返ってしまった。
「ごはん?」
「そうですご飯です! 私、お腹がぺこぺこで倒れそうなんです! だから食べ物を持ってきてくださいな!」
そうきたか。
これを断れば、私は飢えに苦しむ人を見捨てた事になる。
困った事に、レクミラは天然ボケでありながら、知恵が回るようだった。
★
「本当は満腹なんでしょう? 食べられないなら返して下さい」
「返したらわたしとお喋りしてくださる?」
「いいえ。仕事に戻ります」
「じゃあ返さない。――ねえ、イエンウィアの好きな食べ物は?」
「お喋りより、食べる為に口を動かして下さい」
その日、彼女は私の昼休みの残り全てを費やして、デーツ(ナツメヤシの実)五粒を苦しそうに完食した。
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