kiss

怪々夢

kiss

 旦那様はわたすを拾ってくれますた。家族から疎まれ捨てられる寸前だったわたすを、嫁に貰ってくれると言うのです。立派な祝言をあげて頂き、初夜を迎えますた。

「どうした絹代、そんなベットの端っこに腰掛けてないで、もっとこちらに来なさい」

 恥ずかしい話ですが、わたすは生まれて初めてベットと言う物に触れますた。光も入らぬ小屋に閉じ込められ、硬い床板から身を守るものは麦わらしかなかったのですから。

「だども、こんな高価な物をわたすが汚してしまったら申し訳ないのっす」

「私たちは今日から夫婦になったのだぞ、このベッドは絹代のものでもあるのだ。それに絹代は綺麗だ。遠慮するのはやめて、こちらに来なさい」

 わたしゃおずおずと旦那様の下に近づいて行きます。百姓の娘とお医者様では身分が違いすぎます。それにわたすは十八だと言うのに男の方との付き合い方を知りません。

 わたすにできること。それはご奉仕です。

「わたす、旦那様の嫁っ子になったからには一生懸命働きますので、なんでもお申し付け下せぇ」

「一生懸命働く必要などない。この家にいてくれるだけでいいのだ」

「だども、夫婦生活って、何をしていいか分かりません、何か1つだけでも構いませんのでご命令頂けませんか?」

「では、絹代、私にキスをしなさい」

「キスって言うと、接吻のことですか?」

「そうだ、構わないな?」

 旦那様はわたすが返事をする間も与えず、唇に吸い付いてきました。突然のことと、口を塞がれた苦しさで、思わず「んんっ」と声が漏れてしまいます。

 そしてその声は旦那様の体温と体液が注ぎ込まれることで、わたすの女の部分が喜びを感じ、熱い吐息に変わりますた。一分ほどのキスが永遠に感じました。

 初めてのキスに電流が走り、手足がピンと伸びてしまいましたが、身を任せると心地よく、いつまでもこうしていたいなどと贅沢な願いを抱きました。

 願いは叶わず、旦那様は身を引き、布団を被られました。わたすも布団に入り、旦那様の背中にくっつきました。羽毛布団は温かったですが、それ以上に耳が熱いのです。

「旦那様、ありがとうございますた」

「うむ」

 旦那様は満足されたでしょうか?なにしろ初めての経験で、それに旦那様は三十五歳の立派な紳士です。わたすの様な小娘が相手で大丈夫なのでしょうか?

 旦那様が立てられる寝息を聞いていると、不思議と心が落ち着いてきます。明日も接吻をして頂けたら、もっと上手に唇を絡ませよう。頑張るしかありません。

「キスの時、舌の位置はどこにするのがいいのだろう?旦那様に聞いてみよう」

 旦那様は仙台にある大学病院にお勤めされています。今日も外套にシルクハットを被って病院に向かわれますた。旦那様の腕は一流で患者様が順番待ちをされているんだそうです。

 世の中は高度成長期で街はどんどん発展しているそうですが、わたす達が育った村はそんな事とは無縁で、田んぼと山が広がるばかり。子供は働き手と考えられます。

 勉学に打ち込むには不向きな環境で旦那様は独学で勉強し、学費を稼ぎながら大学に通ったそうです。そんな旦那様を心から尊敬しております。わたしゃ本当に幸せ者です。


 この夜も旦那様はわたすに接吻を求められますた。その翌日も、その翌日も。ですが、それ以上のことは求められませんでした。これは普通のことなのでしょうか?

 村では、わたすの事を抱こうとする男はいませんでした。よっぽど酷い顔なんだなぁ。

「旦那様、よろしいでしょうか?」

「どうした絹?」

「旦那様がわたすに接吻以上の事を求めないのは、わたすが醜女だからでしょうか?」

「そんな事はない。絹代は綺麗だよ」

「だども、わたすは旦那様に抱かれたいのです。それは贅沢な悩みでしょうか?」

 わたすの手は温もりを求めて虚空を彷徨っていました。旦那様はその手を両の手で包み込んでくれました。

「すまない絹代、お前がそんな風に思ってしまったのは私の責任だ。私の罪悪感と、お前に捨てられるんじゃないかと思う恐怖心のせいなのだ」

「わたすが旦那様を捨てる?そんなことあるわけねぇですだ」

 想像も出来ない話ですた。仮にわたす以外の女なら、そんな不届者もいるかもしれません。だどもわたすに限っては、あり得ない話ですた。

「絹代、1つ聞くが、私の職業を知っているか?」

「はい、旦那様の職場は目のお医者さんです」

「そうだ、私は眼科医だ。ではなぜ絹代の目の手術をしようとしないのか、不思議に思わないか?」

「そんなこと考えたこともなかったのす。私の目がよっぽど悪いんだなぁ」

「お前の目の手術はそれ程難しいものではない。一般的な医術の心得があれば、なんなく施術可能な筈だ」

 旦那様は搾り出すようにして仰いますた。旦那様の不安が、震える手を通して伝わってきます。

「絹代、お前は美しい。醜男なのは私だ。絹の目が見えたなら、私とお前は到底釣り合わず、こうして夫婦となる事はなかった筈だ。う。なので絹の目が治って私の顔を見られるのが怖いのだ」

 わたしゃ何と愚かなのでしょう。一緒に暮らせるだけで幸せなのに、もっと愛されたいなどとわがままを言って旦那様を困らせてしまいますた。

「わたすは目が見えません。だから代わりに心の顔が見えるようになったのす」

「心の顔?」

「はい、心にも顔があります。旦那様の心の顔はとても優しげでハンサムです。だども、旦那様が気にすると言うのならわたすは目が目えないままでいいのす」

 旦那様が「はっ」と息を吸うのが分かりますた。そしていつもの意思の強い声を取り戻して「明日手術をしよう。そのつもりでいるように」と仰りますた。

 

 翌日、旦那様のお勤めの大学病院に向かいました。看護婦さん達はわたすみたいな田舎者にも優しく接してくれて、怪物扱いしないのです。立派な病院は人も違います。

 手術はあっという間の出来事で、気付いた時にはもう終わっていますた。麻酔と言うのは本当に大したものです。さすが、旦那様のなさることは魔法の様ですた。

 包帯を取れるまでには1週間程かかるそうです。旦那様は忙しい合間を縫って私の世話をしてくれます。わたすは生まれから目が見えないので全部一人でできるのですが。

 そして包帯を取る日が来ました。

「今日で1週間経ったな、包帯を見てみよう」

「旦那様、白雪姫って知っていますか?」

「うむ」

「わたすはずっと目が見えずに生きてきますた。だからずっと眠っていたみたいなもんです。包帯を取る前に目覚めのキスをして頂けませんか?わたす、閉ざされた小屋の中で王子様をずっと待ってたんです」

「バカなことを言ってないで、私が良いと言うまで目は閉じている様に」

 包帯が少しずつ外されていく度に黒で塗り潰されたわたすの世界に光が差し込みます。包帯という繭で守られたサナギが蝶へと生まれ変わっていく様なのです。

 わたすの瞼が顕になると、旦那様の唇がそっと触れました。わたすに対する思いやりの心、二人の未来に対する不安、様々な旦那様の思いが伝ってきました。

「もう良いだろう。ゆっくりと目を開けてごらん」

 わたしゃ旦那様に促され瞼を開けますた。

 夢にまで見た旦那様のお顔がそこにある。わたしゃ思わず叫んでいますた。

「ああ、やっぱり思った通り、旦那様はハンサムです」



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