明治月影綺談録

月浦影ノ介

第壱話 椿が落ちる日




 小生しょうせいが箱根を旅したのは、明治三十七年(一九〇四)、秋のことであった。

 世はその二月に、我が国が宣戦布告した日露戦争の最中さなかであったが、少なくとも小生の周りは平穏そのものである。汽車の客室を共にする人々の顔も至ってのんびりしたもので、新聞が連日書き立てる戦地の様子も、沸騰する国内世論も、こう云ってはなんだが、どこか遠い非現実的な世界のように思えてならない。

 

 箱根の温泉地には、持病の療養も兼ねて数日の滞在予定であったが、その二日目にして、とある夫婦と知り合う機会を得た。

 散策中、小生が小径こみち四阿あずまやに寄って休んでいるところへ、その夫婦がやって来て「ご一緒してもよろしいですか」と、声を掛けられたのが切っ掛けである。

 両人とも歳の頃は、六十少し手前というところか。聞くと関東某県のさる商家の主人とその奥方で、立ち居振る舞いや言葉遣いなどから、単に裕福なだけではない品の良さが伺える。最近、店を跡継ぎの若夫婦に任せて隠居したので、夫婦水入らず、しばらく逗留とうりゅうする予定だという。


 そのうち職業を問われ、帝都でつまらぬ物書きをしていますと答えると、どんな話を書いているのかとまた問われた。まぁ市井の人々の生活に題材を得て、人生の哀感や生きる意味などをゴニョゴニョと言葉を濁すうちに、それと怪談なども書きますとつい口を滑らせる。

 「まぁ、怪談でございますか」と、興味があるのか奥方が身を乗り出した。


 「ええ、まぁ・・・・出版社に頼まれるなどしてやむを得ず、ですが」

 「それは、ご自分で一からお話をお作りになられるのですか?」

 「いえ、たいていは他人から聞いた話です。それを元にして、より怖い話に仕立てます」

 「では、元は実際にあったお話なのですね?」

 「・・・・まぁ、そうですね」

 「世にはそんなに奇怪なお話や、不思議なお話があるものでしょうか?」

 「たいていは当人の勘違いか思い込み、あるいは科学的に説明の付くものがほとんどです。しかしなかには極一部、本当に奇怪な、不思議と言わざるを得ない話もあります」

 それを聞いて何やら思案する様子の奥方に、なんだか手品の種をうっかりバラしてしまったような心持ちになった。


 「そのような奇怪な・・・・不思議としか云いようのないお話は、実はわたくしにも覚えがございます。よろしければ聞いていただけませんでしょうか」


 奥方が何事か決意したような表情で居住まいを正すのを見て、小生は、あゝまたやってしまったと密かにため息を付いた。

 実は小生には、奇妙な悪縁というか巡り合せがある。それは行く先々で知り合った人々が、どうした成り行きでか自身の体験した怖い話や奇怪な話、不思議な話を語り出すというものだ。

 別に望みもしないのに、おばけ話が向こうからやって来るのである。


 小生はこれでも一応は物書きである。が、志すのは純粋なる文学であって、幽霊や妖怪の話ではない。しかし無名の哀しさゆえ、日々の糊口をしのがなければならず、そうして聞かされた話を題材に怪談を拵えるのだが、これがどうしたことか本筋の文学よりよほど評判が良い。畢竟ひっきょう、また次も書いてくれと頼まれる羽目になる。


 ―――小生は生まれながらの臆病者である。怪談など嫌いだ。


 だからそんなものは聞きたくないし、書きたくもない。真に怖い話を聞かされたときなど、夜は眠れずかわやに行くことも出来なくなる有り様だ。

 しかしそんな小生の都合など無視して、怪談は向こうから一方的に押し掛けて来る。これは前世でよほどの悪業でも積んだ報いか、もはや何かの因縁と思うより他に仕方あるまい。


 「これ、急にそんなことを云ってはご迷惑ですよ」

 小生の顔色を読み取ったのか、主人が奥方をやんわりとたしなめた。

 「でも、あなた」と、奥方が控えめに反論する。

 「あなたもご存知でしょう? 私はあのお話だけは、どうしても誰かに伝えておきたいのです。それが物書きの先生なら尚のこと、ここでお知り合いになれたのも何かのご縁というものでしょう」

 「お前の気持ちは分からなくもないが、こちらの先生にも都合というものがあるだろう。押し付けるのは良くないよ」

 主人に諭され、奥方が「・・・・はい、申し訳ございません」と項垂うなだれる。小生はなんだか奥方が少し気の毒になった。

 「・・・・まぁ奥さまがおっしゃられるように、これも何かのご縁でしょうから、私でよろしければお聞き致しましょう」と、つい助け舟を出してしまった。 

 「本当でございますか」

 奥方が顔を輝かせる。

 「出版社の意向もありますので、必ずしも世に出せるとお約束は出来ませんが、とりあえずお話を聞くだけなら」

 奥方が我が意を得たとばかり、主人の方に顔を向ける。主人は黙ってこちらに会釈をした。

 我ながら自分のお人好し加減に呆れたが、それでも「どうしても誰かに伝えておきたい話」とは如何なるものか、物書きとしてまるで興味が惹かれないでもない。

 いずれにせよ小生もまた居住まいを正し、奥方の話を傾聴する姿勢を取った。

 「では、お聞かせ願いましょう。いったいどのようなお話なのですか?」



 

 そうして奥方が語りだしたのは、時代が江戸幕府から明治に移り変わる寸前の、関東のとある小藩を舞台にした、一人の上級武士の死と、その後に起きた奇怪な事件の顛末である。


 なお関係者の親族がまだ存命中であるため、登場する人物の名前はすべて伏せるか仮名にし、場所も特定できぬよう曖昧にしてある旨をご了承いただきたい。

 また話の雰囲気を損なわぬよう、なるべく聞かせ賜った奥方の口調そのままに書いたつもりだが、至らぬところがあれば、それはすべて筆者である小生の責任に帰するものであることを、ここに明記しておく。



  ◇       ◇       ◇


 



 椿つばきの花が落ちるは人の首が落ちるに似て、縁起が悪いと申します。

 旦那さまの首が落とされたその日、庭の椿も花を落としました。遅い雪の降った日で、冤罪でございましたが、お家のため、黙って腹を召されたのです。


 ―――事の次第を最初からお話いたしましょう。それは今から四十一年前の文久三年(一八六三)、春のことでございました。

 当時、私はよわい十七で、とある武家のお屋敷に下女として仕えておりました。お名前は控えますが、代々藩の家老職を務める由緒あるお家柄で、旦那さまもまた重役に就いておいででした。そのため広いお屋敷には、ご家来衆の他に幾人もの下男下女がおりまして、私はその中でも新参者でございましたから、慣れぬ武家奉公に戸惑いながらも、忙しい日々を送っていたのでございます。


 旦那さまには、奥さまと三人のお子さまがいらっしゃいました。

 奥さまはたいへんお美しく聡明で、万事細かい気配りもよく行き届いており、武家の妻としてどこに出しても恥ずかしくないお方でした。心根もお優しく、私ども奉公人にも色々と労りの言葉を掛けてくださいまして、ときおり珍しい菓子などを分けてくださったのを、今でも懐かしく思い出します。

 三人のお子さまは皆男の子で、それぞれ利発でございましたが、特に元服したばかりの一番上の若さまは学問がよくお出来になり、跡継ぎとしての将来を期待されておりました。

 下男下女ら朋輩ほうはいたちも皆善人で、これは良い奉公先に恵まれたと、両親に文を書いて送ったほどでございます。

 そんなこんなで、一年ほどは何の波風もなく、無事に勤めておりました。


 旦那さまが藩より切腹を申し付けられたのは、そんな折のことでございます。まさに寝耳に水、青天の霹靂へきれきというもので、ご家族やご家来衆だけでなく、私ども奉公人も大いに驚き、嘆き悲しんだものです。

 理由は藩の公金を横領したとがによるものという話で、にわかには信じられませんでした。何故なら旦那さまは実に公明正大な立派な方で、決して裏で私腹を肥やすような真似をなさるとは思えません。

 のちに地獄耳の下男の一人から聞いたのですが、実は旦那さまの切腹は仕組まれたはかりごとであり、これには同じく藩の重役を勤める永田さまという人物が関わっているというのです。

 私はあくまで下女の身分に過ぎませんので、藩の内情やまつりごとなど知るはずもありません。しかしその下男は、ご家来衆の幾人かと賭博(当時は寺社や無人の屋敷などで頻繁に行われておりました)などを通じて気心が知れており、そうした話もよく耳に仕入れて来るのでした。

 その下男の話によると、旦那さまはこの永田さまが裏で行っていた不正を調べておいでだったそうなのです。それは永田さまだけでなく、他に幾人もの重役が関わっているらしく、それを詳らかに暴いて正そうとする旦那さまは、彼らにとってまさに不倶戴天の敵だったのでしょう。それで冤罪を仕組まれ、不幸にも腹を切るよう、お殿さまにより申し渡されたのでございます。


 今にして思えば、重役どもに良いようにして騙されるお殿さまも、あまりに不甲斐ない。どちらが真の敵か、見る目があれば分かりそうなものを。 

 ・・・・いえいえ、口惜しさに埒もないことを申しました。きっとそれだけ、永田さまらの謀は巧妙だったのでしょう。 

 無論、旦那さまは無実を訴えました。しかし旦那さまに味方する者は一人もおりません。誰もが永田さまとその一派を怖れていたのです。

 孤立無援のなか、永田さまは旦那さまの耳元でこう囁いたといいます。


 ―――このまま罪を認めなければ罪人として斬首に処し、家もお取り潰しになるが、罪を認めれば武士として切腹をゆるされた上で、家のお取り潰しも免れ得よう。


 先にも申しました通り、お屋敷には元服したばかりの若さまを始め、三人の男の子がおりましたが、お家お取り潰しとなれば、その子らの行く末は如何なる苦難の道になりましょうや。

 事ここに至って、旦那さまは己が敵の術中に嵌って逃れ得ぬのを知り、お子たちの行く末を案じて、煩悶はんもんのうちに自らの死を受け入れざるを得なかったのでございます。


 旦那さまの切腹は、お屋敷の庭で行われました。旧暦は弥生月初めのよく晴れた日で、前日の夜から朝に掛けて降った遅い雪の名残りが、庭にうっすらと積もっておりました。生け垣に咲いた椿の紅い花が雪を被って、それが美しいのと同時にひどく物悲しく見えたのを、今でも鮮明に憶えております。

 旦那さまは朝早くに起き、白いお着物・・・・死装束を召されておいででした。奥さまやお子さまたちには、既に今生の別れを済ませられたのでしょう。床の間に静かにお座りになり、私ども奉公人に対しても「世話になった」と挨拶をしてくださいました。

 人は死にのぞんでこれほど穏やかに微笑むことが出来るものかと、胸の奥が熱くなり、涙が溢れて仕方がありませんでした。

 奥さまは武家の妻として、どこまでも気丈に振る舞っておいででした。お子さまたちもそれぞれ涙をぐっと堪えられ、その健気なご様子に、ご家来衆も奉公人も皆一様に泣いておりました。

 

 庭には敷物と屏風が用意され、藩の役人が数名、立会人として訪れました。

 下のお子さま二人はまだ幼かったため、屋敷の奥にいることを許されましたが、奥さまと一番上の若さまは、旦那さまの切腹に立ち会ったということです。ご自分の夫、あるいは父親が目の前で腹を切り、首を落とされるのを黙って見届けるのは、どれほどお辛かったことか。それを考えると、胸が潰れるような思いが致します。


 私ども奉公人は、奥の部屋に押し込まれ、事の次第が済むまで出て来るのを禁じられました。

 ひどく静かでした。誰一人とて喋る者もなく、咳払いさえはばかられるように思われました。いつもはギャアギャアとうるさい裏山の鴉どもも、その日はどうしたことか羽ばたきの音すら立てません。

 永遠に続くかと思われた静けさのなか、遠くで何かがドサッと落ちる音が聞こえたのは、あるいは気の所為せいだったのでしょうか。

 しばらくして、私どもは部屋から出ることを許されました。

 庭はすでに綺麗に掃き清められ、僅かな血の痕跡すらありません。白くうっすらと積もった雪の上に、散り落ちた椿の紅い花がまるで血のように鮮やかで、それがふと落とされた旦那さまの首を連想させ、私は思わず目を伏せたのでございます。



 旦那さまが亡くなった後、ご家来衆や私ども奉公人は皆、暇を出されました。

 お家お取り潰しは免れたものの、何のお咎めもなしに済まされるはずもなく、結局はろくも屋敷も召し上げられ、奥さまは三人のお子さまを連れて実家を頼ることになりました。ただ家の名ばかりが残っただけで、実質はお取り潰しと変わらなかったのでございます。先代から仕えているという年老いた下男が一人、奥さまとお子さまたちに付いて行くことを許されましたが、他の者はみんな散り散りの有り様です。

 後ろ髪を引かれる思いでお屋敷を後にし、私はとりあえず実家に帰ることになりました。実家といっても同じ藩内のことですから、そう遠くではありません。私の実家は小さな商いをしておりまして、花嫁修業も兼ねて、下女として武家奉公に出されていたのでございます。

 その後はしばらく家の手伝いをしておりましたが、やがて親戚の紹介で今の夫と見合いをし、その年の秋に縁付くことになりました。

 婚家もまた歩いて行ける距離で、私は嫁いだ後に一度だけ、何かの用向きついでにお屋敷の前を通ったことがございます。お屋敷はいまだ無人の様子で、門は固く閉ざされ、荒廃したような静かな侘しさだけが、辺りをひっそりと包み込んでおりました。



 時は流れ、旦那さまの死から半年が経とうという頃のことでございます。ある奇妙な噂が、人々の間に流れました。

 それはこのような出来事が始まりでした。

 日ももうすぐ暮れ落ちようという黄昏時、野村さまという藩の重役のお一人が、供を連れて歩いていると、通りの向こうから近付いて来る者がある。

 笠を目深に被った、着流しの浪人者らしい男で、いかにも怪しげな様子。その者は野村さまの正面にピタリと足を止めると、笠の端を指で摘んで持ち上げ、その下からぬっと顔を覗かせて、こう訊ねました。


 「・・・・お手前は永田殿にござるか?」


 その左手は刀の鯉口に掛かっていたといいます。

 「いいや、人違いだ。拙者は永田殿ではない」

 そう野村さまが答えますと、その怪しげな浪人者は無言のまま背中を向け、また黄昏の闇の中に立ち去って行ったのでした。

 いったい何者か。その不穏な様子からして、永田さまのお命を狙っていたと思われる。そう考えたとき、野村さまはハタと気付きました。


 ―――あれは、死んだ◯◯殿ではなかったか、と。


 その◯◯殿とは、かつて私が下女として仕えていたお屋敷の、まさにその主人である旦那さまのことなのです。

 無論、そのようなことがあるはずがございません。なぜなら旦那さまは、同じく藩の重役である永田さまの謀によって、非業の最期を遂げられたに相違ないからです。

 黄昏の闇に紛れて見間違えたか。しかし笠の下から覗き込む顔、落ち着き払った低い声は、間違いなく◯◯殿であったと、野村さまは仰ったそうです。

 

 果たして、そのような奇怪なことがあり得ますでしょうか。

 しかし、事件はこれだけに留まりませんでした。怪しげな着流しの浪人者は、その後も藩の重役の方々の前に現れては「お手前は永田殿でござるか」と訊ね、相手が「人違いだ」と答えると、そのまま黙って去って行くということを繰り返したのです。

 その怪しげな浪人者に誰何すいかされた方々は皆、一様に口を揃えてこう仰ったそうです。


 「あれは間違いなく、死んだはずの◯◯殿であった」と。


 怪しげな浪人者は、決まって日が暮れ落ちようとする黄昏時、辺りに人の気配がないのを見計らったように現れるのでした。それに遭遇した重役のなかには、家来にこっそり後を付けさせた方もいたそうですが、しかし途中で必ず影も形もなく消えてしまうのだそうです。

 旦那さまが永田さまの謀によって死に追いやられたことは、その頃には下々でも公然の秘密となっておりましたから、これはいよいよその亡霊が現れ、復讐のために永田さまのお命を狙っているに違いないと、巷間もっぱらの噂になったのでございます。


 その話は当然、永田さまの耳にも入ったらしく、永田さまの警護の者が急に増えたといいます。屈強な家来の者が四人か五人、常に永田さまの周囲を固め、その様子はいかにも物々しく、迂闊に近付こうものなら例え猫の子だろうと容赦なく斬られるに違いない。

 しかしそれは、何も旦那さまの亡霊だけを警戒してのことではなかったのでしょう。

 文久といえば御一新前の、世の中が何かと騒がしい時代で、田舎の小さな藩でしたが、やはり攘夷だ開国だと、ご家中でも常日頃から議論が交わされていたそうでございます。

 特に下級の藩士たちの間では重役に対する不満が大きく、その中でも過激な一派が、永田さまのお命を狙っているのではないかとの噂で、幽霊に狙われているというよりは、よほど現実的な話に思われました。

 

 しかし策謀家といわれる方ほど、存外と気の小さいものなのでしょうか。

 その頃から、永田さまのご様子が、次第に変わって来られたといいます。

 ぼんやりと虚ろな眼差しで、ご公務にも身の入らぬ素振り。やがて一人でぶつぶつと繰り言を云ったかと思うと、突如として怒ったり笑ったり、誰もいないところに向かって口角泡を飛ばす勢いで口論をしたりと、だんだん奇行が目立つようになったそうなのでございます。

 何者かにお命を狙われているという事実が、よほど神経に堪えたのやも知れません。しかもそれが、自ら謀によって死に追いやった相手の亡霊かも知れぬという。周囲の者が出仕を休むよう勧めたそうですが、それには耳を貸さず、意地になったように登城を続けたそうなのです。

 しかしそれが良くなかったのでしょう。ついにお心が壊れたのか、あるときお城へ向かう途中、誰もいない場所に向かって「おのれ◯◯、そこにおったか!」と叫んで刀を抜き放ったのでした。

 ◯◯とは、まさにご自分が死に追いやった旦那さまのお名前にございます。

 永田さまはそこに、旦那さまの亡霊・・・・あるいは幻覚を見たのでありましょうか。刀を散々に振り回し、それを止めようとしたご家来の一人が大怪我をしたと聞きます。

 この一件で永田さまは謹慎を申し渡され、それから間もなく隠居届けが出されたそうです。

 木々の緑がすっかり枯れ落ちて、もうじき冬が訪れようとする、晩秋の頃のことでございました。


 


 それから永田さまは、ずっと屋敷に引き籠もっておいでだったようです。その頃のご様子は分かりません。聞いた話では痴呆が入ったように宙の一点を見つめ、ときおり屋敷のなかを目的もなくふらふらと彷徨うとか。あくまで人の噂にございますが。

 やがて冬が過ぎ、再び弥生の月が訪れました。ある日のこと、ふいに永田さまが、ご自分のお屋敷から忽然と姿を消したのです。いつの間に抜け出したのか、誰もその様子を見た者はおりません。


 その夜、遅い春の雪が降りました。


 ご家来衆が方々を捜し回って、ようやく見付かったのは翌日の朝のこと。城下町の外れ、人気のない往来の隅に、永田さまは首と胴体を切り離された無惨な姿で、横たわっておいでだったと聞き及びます。

 たまたまそこを通り掛かった者の話によりますと、永田さまは椿の生け垣の前に倒れていたのだとか。

 前日の夜に降った春の雪の名残りが、辺り一面を白く覆っていたといいます。永田さまの生首から流れ出した血と、散り落ちた椿の紅い花が、その雪の上を一際鮮やかに彩っている。

 そんな光景がまざまざと目に浮かび、あゝこれはまさに旦那さまが首を落とされたあの日と、そっくり鏡写しではないかと、その因縁の深さに心底震えるような思いが致しました。


 それにしても、いったい何者が永田さまのお命を奪ったのでございましょう。

 まさか本当に旦那さまの亡霊? それとも藩の政策に不満を持つ過激派の下級藩士?


 ・・・・これはあとで知った話ですが、実は旦那さまには三歳違いの弟君おとうとぎみがいらしたそうなのです。

 剣の腕は立つが放蕩者で、博打に手を出して大きな借金を作ったために、先代さまの怒りを買って勘当され、それ以来とんと行方知れずになったそうな。

 あるいはこの弟君が兄上の非業の最期を知り、はかりごとに掛けた永田さまを仇として斬ったのやも知れませぬ。とすると、藩の重役の方々に「永田殿か?」と、誰何すいかして回った謎の浪人者は、この弟君だったのでしょうか。 

 ちなみにこの弟君は、双子かと見紛うほど旦那さまにお顔立ちがよく似ていらしたそうで、それなら誰何された方々が、死んだはずの旦那さまと勘違いされるのも無理はございません。

 しかしこの弟君は放逐後、遠い他藩の地で、若くして客死したという話も聞きますから、本当のところは分かりませぬ。

 いずれにせよ、永田さまを殺めた下手人は捕らえられることはなく、その正体もとうとう分からず仕舞いでした。



 その後のことを、少しお話いたしましょう。


 それから間もなく御一新が成り、世は明治と改められました。私どもの藩は佐幕派でしたが、新政府軍に対してほとんど抵抗することなく、大人しく恭順いたしました。

 これも後で知った話なのですが、旦那さまの忘れ形見である三人の男の子のうち、一番上の若さまが実は密かに脱藩し、新政府軍に加わっていたということでした。

 鳥羽伏見などの戊辰戦争を戦い、新政府軍の一員として、我が藩に入城する際もそのお姿があったそうでございます。

 永田さまと共謀し、旦那さまを切腹に追い込んだ他の重役たちもまた、朝敵としてことごとく首を撥ねられました。

 それを聞いたときの胸のすく思いたるや、お分かりいただけますでしょうか。これで本当に仇討ちが成ったのです。

 あの日の悲しみ、恨みがいっぺんに晴れたようで、数年の時を経て、きっと旦那さまが道連れになさったのだと、不謹慎ではありますが、そんな思いをすら抱かずにはいられませんでした。

 

 若さまはその後、出世して新政府の要職に就かれたと聞いております。二番目のお子さまは実業家に、三番目のお子さまは教師になられたそうで、それぞれが新しい時代にご自身の生きる道を見い出すことが出来て、本当に良かったと心より安堵いたしました。

 奥さまはしばらくご実家におられましたが、やがて帝都に住むご長男さまの元にお移りになられました。残念ながら先立ってお亡くなりになられましたが、たくさんの孫に囲まれ、幸せにお暮らしになられたと伺っております。きっと今ごろはあちらの世で、旦那さまと再会なされたことでしょう。


 幕末には色々と血腥ちなまぐさい話が多く、非業の最期を遂げられた方々の無念や、遺された者たちの悲哀も多く伝え聞きます。旦那さまのご最期も、実に理不尽極まりない非道なものでした。

 しかしあれから時が経ち、お子さまたちが御一新の世で健やかに過ごされているご様子に、きっと旦那さまと奥さまも草葉の陰で喜んでおられることでしょう。今となっては、それがせめてもの救いにございます。



 こちらの我が儘で、つい長々と昔話などお話してしまいましたが、退屈ではございませんでしたでしょうか。


 ・・・・それなら良うございます。まぁ、お耳汚しでございました。



                  (了)


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