風神の遣い

三文蛍光

第1話

 外は晴天。真昼間だというのにとある館の中は一寸先見えない薄暗闇と肌を刺すような冷気で満たされていた。


「で、此処に居るのか?」


 誰も住んでいない館の中で響くのは一つの声。大した声量ではないというのに、その一声で彼の周囲にあった澱んだ空気が消し飛ぶ。

 空間の支配者、風鬼、現代最強の術者など、彼は数多くの異名を持つ。

 二十代前半くらいの青年だ。薄手のジャケットにジーンズとラフな格好をしている。こう見えても彼————は仕事でこの館を訪れていた。


「はい、住民の目撃情報では此処で間違いないかと」


 青年の隣を歩くのは銀縁眼鏡をかけた三つ編みの女性。黒のスーツ姿はキャリアウーマンを彷彿とさせる。事実、彼にとっては頼れる仕事仲間だ。陽光に映える編み込まれた金の尻尾が彼女の動きに合わせて形のいい臀部と共に小刻みに揺れる。

 手元にはタブレットがあり、そこに記されている情報に目を落としていた。形の整った唇が今ある情報を簡潔に紡いだ。


「誰もいないただの館を心霊スポットだと騒ぎ立て、動画サイトにて投稿した炎上系の動画投稿者がこの館を訪れたのを最後に消息を絶っています。動画の内容の過激さから一部ファンから熱い支持を受けており、それなりのチャンネル登録者数も獲得していたそうです。今回の件はその一部ファンからの依頼です」

「……やる気が出ない理由にも程があるな」

「そう仰らないでください、空海クウカイ様」


 投げやりな空海に女性はなんとも言えない顔になる。穏健派な彼女とて同様の感想を抱いたからだ。

 一部の人間が和を乱したことで、術者である者達が邪霊を討伐するべく駆り出される。被害者も、依頼した者達も、その現実を知らずに生きている。

 空海のような術者は表舞台には決して上がらないからだ。邪霊の存在を掴んでいるマスコミですら公表することは許されていない。何度か過激派なジャーナリストが情報を売りつけようとしたが、忽然と消息を絶った。術者側には粛清部隊も存在している点を考えれば、何が起きたかなど語るまでもないだろう。

 欠片ほどにあったやる気すらも嘆息と共に追い出した空海は帰りたい気持ちを押し殺し、先へ進む。従者パートナーである踏絵ふみえは空海の傍につき、辺りを警戒する。

 そんな彼らの前に立ちはだかるのは分厚い壁————否、可視化出来るほどに濃密な瘴気だった。

 空海を含めた一流の霊術者なら一目見てわかる。

 触れた時点で一巻の終わりだと。


「この密度……触れたら死ぬぞ」


 空海の並外れた視力が瘴気の正体を暴く。どう見ても壁としか思えないそれは、彼の目には無数の粒子に尖った口がついているように見えている。

 喩えるなら自我を宿した凶暴なウイルス。体内に入り込めば、容易く内側から精神諸共人体を破壊し尽くすだろう。

 手招きするように蠢く瘴気を眺めながら、冷淡に当たり前の事実を口にした。


「一度でも接触すれば、食われる。耀術ようじゅつで全快しようとしても、その回復速度を上回る食事で終わるぜ」

「でしょうね……ですが、私には貴方様がいます」

「……そりゃどーも」


 厚い信頼を向けてくる踏絵にこそばゆい気持ちを抱き、そっぽを向くがそれも束の間。空海は何の躊躇いもなく瘴気の壁へと身を投じる。

 格好の餌が自らの縄張りに飛び込んできたと嬉々として迫る無尽蔵の瘴気。

 だが、届かない。彼らと瘴気との間に薄い空気の層が生まれており、決して空海達には触れないように遮断しているのだ。

 空間の支配者という異名は伊達ではない。接触イコール即死の式が成立する瘴気の中を微塵も恐れずに彼らは突き進んでいく。

 すでにこの瘴気の元凶は捕捉済み。あとは狩るのみだ。


「そういやこの後暇か?」

「昨晩も付き合ったはずですよ。今夜は予定がありますし、肝臓にも悪いのでお控えください」

「そうかよ」


 呑気に会話を交わしているが、今も彼らの周囲では触れた時点で死を齎す瘴気が取り巻いている。瘴気を発生させている主も彼らを近づけまいと出力を上げているのか、その影響が床や壁などの生体ではないものにまで与えられていた。

 しかし、やはり通用しない。術者として、空海の方が邪霊の力量を遥かに上回っている証左だろう。


「瘴気の発生源は……此処だな」


 空海が足を止めたのは廊下のど真ん中。ずっと視界が瘴気で有耶無耶になっており、どの程度の距離を歩いたのか進捗状況が更新できなかったにも関わらず、彼は確信していた。その確信に絶対的な信頼をもち、踏絵も力強く頷く。


「そうですね。では、この瘴気が外へ飛び出さないように結界を張ります……あとのことは任せてもよろしいですか?」

「その辺でスマホを弄ってていいぜ。すぐに終わる」


 不敵な笑みを向けられた踏絵が迅速に印を結ぶ。何百、何千と繰り返してきた動きなのだろう。一切の淀みも不自然さもなく、あまりにも様になっていた。


「ご武運を」


 踏絵の全身から仄かな光が漏れ出し、徐々に館全体へと広がっていく。次第にその姿は朧げとなっていき、完全に消える寸前で空海を鼓舞。

 そして、踏絵だけが存在感を欠片ほども残さずに消滅した。数えきれないほど見てきた光景だったので、空海は眉すら動かさずに臨戦態勢へと入る。

 瞬間、空気が足元から渦を巻き、その全身を包み込んでいく。顕現したのは小規模の嵐にも匹敵する強風。先程の清浄な風とは違い、荒々しく吹き荒れる。その勢いは呆気なく周囲にあった壁や床を引き剥がし、内部の全貌を無理矢理暴き立てた。


「成程。館そのものが邪霊……この館に取り憑いてたわけか」


 空海が見たのは館全体を覆い尽くすほどの巨大な口。そこから測れる息は瘴気と同様の性質を持っており、今も性懲りなく空海を喰らおうとしている。

 自らの脅威となるものを一切寄せつけず、彼は刀印を結んだ。


「この俺に喧嘩を売ったのが運の尽きだぜ————消えろ」


 邪霊以上に邪悪な笑みを湛え、振り上げた時の十分の一にも満たない速さで手刀を振り下ろされる。

 空海の全身で渦巻いていた超圧縮された風圧は一気に解き放たれ、自身以外の全てを粉微塵に粉砕し尽くした。瞬きが終わるよりも早く終わった戦闘後、空海は虚空の中で口を開く。


「終わったぜ」

「やり過ぎでは?」


 彼以外の影もなかった空間にひょっこりと踏絵が顔を出した。彼女は今、結界によって空間を分断しており、現実世界結界の外側から文字通り全てを見ていたのだ。

 邪霊どころか館そのものを消滅させる力技には呆れたが、何はともあれこれで依頼は達成である。


「依頼人から金だけ受け取って帰ろうぜ。さっさとシャワー浴びて寝たい」

「本部には私が報告しておきますから、空海様は依頼人の下へ向かってください」

「任せたー」


 締まりのない顔とやる気のない声で応えた空海は結界が崩壊し、現実世界へと戻ってくる。あくまで館が崩壊したのは分断された空間先にあるものだけなので、現実世界の館には一切戦闘の痕跡はない。

 踏絵のささやかな気遣いを有り難く受け取り、空海は踵を返す。その彼の後ろ姿を見えなくなるまで見つめ、踏絵は初めてまともに深呼吸が出来た。


「……普段のあの方は軽薄で胡散臭いだけだというのに、術者としての彼は本当に恐ろしいですね。流石は現代最強ですよ、本当に」


 その畏怖の込められた言葉は誰に届くことなく、空気へと溶けるようにして消えていった。

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