第五話 姫君と私の何気ない日常の一幕(3)

 懇切丁寧こんせつていねいに説明したおかげで、姫君には、私が未婚であり、未だ独り身であることをきちんと理解していただけたようだ。

 そして間合い良く、風呂の用意も整ったので湯殿ゆどのへ向かう。

 風呂一つをとっても、やはり私たちとは、在り方から何もかも違う。


 姫君がこの世に来て間もない頃、彼女に

「風呂に入りたい」

 とお願いされ、私が

「では、陰陽師によい日取りを卜占ぼくせんしてもらいましょうね」

 と、何気なく言葉を返した時の、姫君のあの表情は今でも忘れられない。

 まさに驚愕きょうがく唖然あぜん愕然がくぜんといった表情の姫君に、私自身も言葉を失くし、彼女がまだ言葉一つも口にしていない中で、かろうじて私の口から飛び出したのは謝罪の言葉がだった。

 この時からだったかもしれない。

 私のこれまでつちかった生き方や在り方と、姫君の常識や文化が大きく違うと知り、すり合わせていこうっと思ったのは。


――もう今後、願わくばもう二度と、姫君にあんな表情はさせるまい。


 そう固く誓った私は、それ以降は、必ず事前に姫君に聞いて、食や風呂、姫君の健康につながることに関しては、可能な限り姫君の世界のやり方、使い方、暮らし方に合わせることにした。

 風呂もこの世のやり方ではなく、きちんと風呂に湯を張って、中に浸かれるようにした。

 慣れ親しんだやり方の方が、姫君もすこやかに過ごせるだろうし、御身おんみや御心の負担もいくらばかりかは減らせるだろう。

 もちろん、安全性も考慮して、こちら仕様にはさせていただくため、姫君には多少の我慢やいくつかの決まり事もお願いする。

 そのため、姫君には窮屈だったり、物事の一つ一つに困惑されることも多いと思う。

 けれど有り難いことに今のところ、彼女から、あの時のような愕然とした表情は、見受けられない。


「風呂の支度が整いました。湯殿に参りましょう」


「はーい」


 明るい声で返事とともに姫君は、私の差し出した手を握って、微笑みながら立ち上がった。



 湯殿に着くと、いつものように姫君の介助かいじょをする。

 介助といっても、どうあっても私はおのこで姫君は女性、男が一緒では姫君は落ち着かれないだろう。

 おびくまでのお手伝いや、替えの着物を用意したり、何かあった時に駆けつけられるよう、戸の前で立っていることくらいしかできない。

 こういう時、女房であったなら、姫君の介助を全てできるのだろうが、男の私ではそういうわけにもいかない。

 私自身が姫君のことを思うと、面映おもはゆく、心がざわざわと乱れてしまうのは、まだ青二才あおにさいの証拠なのかもしれないが、なにより姫君の御心の安寧が第一だ。

 もし、風呂で何事か問題が生じた時に、姫君に軽蔑や侮蔑の目を向けられたら、と思うと、考えるだけで命を落としそうになる。

 しかし、風呂やかわやといった場所が、人が一番無防備なる危うい場所ゆえに、本来ならば同行するべきなのだろうが、姫君の御心をはずかしめること、姫君の尊厳を傷つけることは決してあってはならない。

 この先、何か対策を考えなくては……と思案しながら、戸の前に立っていると、小さな悲鳴が聞こえた。

 湯殿から姫君の悲鳴が。

 私の顔と心が、さっと青に染まりゆくのを感じながら、戸に手をかけ、すぐにでも戸を開ける状態で、強く大きな声で姫君に声をかける。


「姫君!大丈夫ですか!?何か……何かありましたか?姫君!」


「えぇ……っと、大丈夫……なんだけどっ!わっ!」


「姫君!?声だけ聞くに、大丈夫ではなさそうなんですがっ!?」


「虫……虫がっ!飛ぶ系の虫がっ!」


「虫!?……虫が?……わかりました。姫君、今から私が少し戸を開けて衣を投げ入れます。姫君はそれにくるまって、こちらまで来てください。できますか?」


「はいっ!」


 姫君の返事を聞いた私はすぐに戸を少し開け、中を見ることなく、替えの着物を投げ入れた。

 ほんの少しの衣擦きぬずれの音がしてから、戸が開かれ、姫君が飛び出してくる。

 そんな姫君を背に、私は湯殿の方を見据える。

 そこには、大豆より一回りほど大きい黒い虫が一匹、耳障みみざわりな音とともに動いていた。

 ありえない。


不埒ふらち羽虫はむしもいたものですね……あるじに、容赦ようしゃはせぬと伝えなさい」


 私はそう一言呟いて、その虫を躊躇いなく斬り伏せた。

 羽虫は、ぼとりと落ちて、そして白い紙になって、床に滴る湯に濡れ、その紙すらも溶けるように消えた。

 私の背の隙間から事の一部始終を見ていた姫君が、その羽虫がまがい物だったことを知り、声を上げて驚いていた。

 ありえるわけがないのだ。

 この湯殿には、虫一匹も入れぬよう、私が万全に整えたのだから。

 垣間見かいまみをされぬように、外に大きく面しているわけでもない。

 これは、しゅの類だろう。

 私は呪や悪鬼妖あっきあやかしの話にさといわけではないが、あの羽虫からは何やら不愉快な異質さを感じた。

 そして羽虫が紙に変わる光景をの当たりにすれば、いくらなんでも呪であるとわかる。

 明日にでも陰陽師に来てもらおう、と思ったところで姫君が声をあげる。


「すごい。今、ものすごく平安時代っぽい!って思いました!」


「えっと、あの、姫君?このような光景をお見せしてしまって……恐ろしくはなかったですか?」


「虫は怖かったです。けど、雅時さんが来てくれて、そこからはまるで映画とかアニメを見てるみたいでした!」


「えいが?あにめ?……言葉の意味はわかりかねますが、今、貴女が怯えていないのであれば、よかったです」


「今は全然!怖くないです!」


「ふふ、姫君……貴女はお強い方ですね」


 私がそう言って微笑んだ時、ともに微笑んでいた姫君がつるりと足を床に散らばった湯にとられ、体勢を崩した。

 慌てて私が姫君の体を抱きとめ、支える。


「姫君!大丈夫ですか?」


「すみません……雅時さんの着物、ちょっと濡れちゃいました」


「そんなこと、お気になさらず。姫君、謝らないでください。大丈夫、ゆっくりで良いですから、体勢を整えてください」


 私に重心を預けたまま、姫君がゆっくりと地に足をつけて、体勢を整える。


「うん!大丈夫そう。腰も抜けてないし、ちゃんと自分で立ってます」


「もう大丈夫ですか?では、離れますね?」


 きちんと姫君の体勢が整えられたことを確認して、ゆっくりと離れようとした時、私の背中の着物が姫君にがしりと掴まれた。

 これでは姫君から離れられない。


「姫君?」


「……雅時さん。私、さっき虫が怖すぎて慌ててたんで、うまく着物が着れなくて。仕方なく手当たり次第の着物を掴んで巻きつけたんです。巻きつけてただけだったから、今足を滑らせた時に」


 私が何か言葉を返す前に、彼女から現状が伝えられた。


「全部とれた」


「…………なるほど」


 私は彼女から伝えられた難儀なんぎな現状をきちんと把握する前に、視線を上にそらして、自然とその一言が口からこぼれ出ていた。

 その後、どうするか、の迷いはあまりなかった。

 このままでは姫君が寒さで風邪など召されるかもしれない。

 すぐに私は、姫君にこれからのことを伝える。


「まず私が目を瞑ります。姫君は私から上衣をいでください。くれぐれも足元には気をつけてくださいね?先ほど姫君は私の着物が濡れてしまったとおっしゃっていましたが、然程さほどではありませんので、その上衣を羽織っていただけますか?」


「え……でも、雅時さんの高そうな着物が……さっきまで着てた私の着物でも……」


「すみません。姫君がお召になっていたお着物は、先ほど女房が洗うため、帯以外全て持っていってしまいました。せっかくみそぎをなさったのに、今、私が着ている着物しかなくて、大変申し訳ありません。私も焦ってしまっていたため、替えの着物を全部投げ入れてしまいましたから」


 姫君が首を横に振っているのだろう、私の胸元の着物が揺れる。

 私は静かに目を瞑り、姫君に声をかけて、先をうながす。


「ただ、下に衣を着ているとはいえ、お見苦しい姿をお見せして申し訳ありません。風邪を召されてはいけませんので、迅速に致しましょう。私は目を瞑りましたよ」


 目を瞑り、視界を失った状態でも、姫君がおずおずと私から離れていくことが、感覚でわかる。

 そしてゆっくりと私の襟元を掴み、姫君が上衣を私から脱がせていく。

 私も、姫君が脱がしやすいように身をよじり、私の上衣は容易に、私から離れた。

 ほんの少しの間、衣擦れの音がしてから、彼女の愛らしい声が耳をくすぐる。 


「もう大丈夫です」


「では目を開きますね」


 私が姫君に声をかけながら、目を開く。

 そこには私の上衣を羽織り、その上から女房が残していった帯を縛って、着物を留めている姫君が面映そうに立っていた。

 私もどこか落ち着かない心地をひた隠し、姫君に平静を装って、静かに言った。


「寒くはないですか?」


「……大丈夫。あたたかいです……熱いくらい」


「……私も少しばかり体が熱いので、それは湯殿のせいかもしれませんね。すぐに替えの着物をご用意致します。少々お待ちを」


「はい」


 私は姫君を湯殿に残し、足早に部屋に戻ると、姫君の替えの着物を用意した。

 取り急ぎ、湯殿に戻ると、姫君にはだいぶ丈が長く大きい私の着物を身にまとった彼女が、心許こころもとなさそうに立っていた。

 私の姿を目に留めると、姫君はぱっと明るい表情に変わり、彼女に向かって差し出した私の手から、替えの着物を受け取る。


「ありがとうございます、雅時さん。すぐに着替えちゃいますね!」


「風邪を召されてはいけませんので、そうしてください。濡れた着物はそこに置いといてくだされば、のちに女房が持っていきますので」


 私はそう言いながら戸の外に出た。

 暫し戸の前で待っていると、姫君がいつものように微笑みながら湯殿から出てきた。


「お待たせしましたぁ。今日はいろいろご迷惑おかけして、すみませんでした」


「迷惑なんてことはありませんよ。私は迷っても惑ってもおりませんのでね。ただ、姫君は災難でしたね」


 いつものように姫君が姫君の着物を纏っているだけなのに、何故か心の内に落胆の色が混じる。

 ほんのもう少しだけ、姫君に私の着物を纏っていてほしかった、とでもいうのか?

 いや、そんな不埒な想いを私が抱くことはありえないだろう。

 それならば何故?何に対して私はこんな感情を抱いているのか……。

 私は私自身のことなのに、その心の内に混じる落胆の意味がわからなかった。

 考えてもわからないのなら、その疑問にも、不可解な想いにも蓋をしておくことにする。

 今は目の前の愛おしい姫君のことだけを考えよう。

 姫君が安心そうな顔している。

 それが何よりも喜ばしい。


「姫君、部屋に戻ったら、いつものように冷やし飴をご用意致しますね」


「わーい!ありがとうございます!私、冷やし飴なんてこの世界に来るまで飲んだことなかったんですけど。生姜が効いててスパイシーだけど、優しい甘さですっごく美味しいです!」


「す……は……いし?何か石の名ですか?」


 姫君の口から飛び出したこの世にない言葉を、私はただ復唱しようとしたが、それもうまくできなかった。

 姫君は、私が理解できていない言葉の存在に気がついて、その言葉について話し始めた。


「あ!えっと、スパイシーっていうのは、味が……辛い?というか、刺激的?なんて説明したらいいだろう……と、とにかく美味しい!ってことなんですけど」


「そうなんですね。姫君のお口に合ったのであればよかったです」


 時折ときおり飛び出す姫君の世界の言葉は、どれもとても興味深く、その後も姫君は私にも分かる言葉を選びながら、懸命に説明をしてくれた。

 いつのまにか、私の心の内に巣食っていた不可解な感情も、風にさらわれた砂のように私の元から消え去り、穏やかな心で姫君と屈託なく晴れやかな話に花を咲かすことができた。



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