第30話 延長線上(3)
久々に着た一張羅を、8月の全速力ダッシュが汗でビショビショにする。
釣り堀に着くなり、釣り堀小屋のおじさんが心配そうにわたしに声をかけた。
「サメ子ちゃん、岬ばあさんがね…」
「うん、知ってる、だから、今から会いにいくの。岬ばあの釣り竿、出してください。」
おじさんの声をわたしのガラガラの声が遮る。
身体中から出た熱気と汗がホカホカの中華まんのようにシャツの中にこもる。
釣り竿のケースについているタグを見ると岬ばあの名前や誕生日、血液型の下に高知県安芸郡芸西村西分という住所が2重線で消されて今の住所が書いてあった。
「これね。高知県安芸郡芸西村西分。高知空港からだと…車で20分くらい。この村に火葬場は1つ。」
マップを確認してお京が教えてくれる。
「ひとっ飛びする甲斐はありそうだね。」
ジェットが頷いたその時、小さく「にゃぁ」と
か細い声が聞こえた。
声の方に目をやると、何か小さな生き物が三角コーンの影にうずくまっているのが見える。
岬ばあがエサをやって可愛がっていた小猫。
ギンだ。
ぐったりとうずくまり、地面に吐瀉物を吐いたあとがある。
心なしか以前より小さくなった気がする。
「大変!!」
叫ぶと同時にあすみちゃんがギンの方に駆け寄る。
「嘔吐してるわ。消化できないものとか刺激物を食べちゃったのかも。」
岬ばあによく懐いていた小猫のギン。
わたしには触ることも許してくれなかったあの生意気な小猫が、目の前で死にかけている。
屠畜場で見た、死に際の牛の目と同じだ。
虚ろで弱々しくて、やる気のない悲しそうな目。
なんで、こんなときに。
ねぇ、岬ばあ。
もう、誰かが死んじゃうのは嫌だよ。
「3人は、高知に急いで。この猫ちゃんは私が何とかするから。」
あすみちゃんがギンをゆっくりと抱き上げる。
9年ぶりの再会の今日のために着てきたであろう、きれいな白いブラウスが、ギンの血反吐で汚れてしまう。
「あすみちゃん?」
うろたえるわたしに、子猫を抱きかかえた彼女は、にっこりと笑った。
「私、今ね、動物病院の薬剤師をしているの。
多分この猫ちゃん、腸疾患だわ。お腹のあたりが少しふくらんでる。たぶん、生のお魚でも食べて寄生虫とかに当たっちゃったのよ。早く近くの動物病院に連れてってあげなくちゃ。」
昔から変わらないふんわりとした声。
中学1年生の習字の授業で出会った小さな声は
なんだか大人になっていた。
「私ね、みんなでタイムカプセルになってる間、ときちゃんみたいに誰かを助けてあげられるお仕事をしたいな。って思ったの。
あれから9年間、いっっぱい勉強して、今
毎日たくさんの動物に薬を処方して、元気にしてあげられる仕事をしてるの。」
誇らしげに、ギンの小さな手を包む。
「ジェットくん、お京。ときちゃんをよろしく。」
彼女の強い目がわたし達を見つめる。
耳に付けた補聴器がイヤリングのように青く光る。
お京は、強く頷き返す。
ジェットは無言で親指を立てる。
わたしも、オロオロするのはやめた。
あすみちゃんの右手の上から、小さな小猫の手を優しく握る。
「あすみちゃん、ギンをよろしく。」
わたし達はギンを彼女に任せて空港へと走り出す。
そうだ。まだ間に合うんだ。
わたしは岬ばあにちゃんとお別れしなくちゃ。
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