第4話 REGRET <威吹鬼>

「まったくこんな日にあそこら辺りに行くってことを考えるだけで気が滅入っちまう」

 って声に出して言いたくなるほど、本当に気が滅入っちまう。とはいえ、行かないわけにもいかん。そう思い、八柱やばしらは賞金の入った茶封筒を持って事務所を出た。

 暑い日だ。

 歩いているだけで、一秒ごとに身体の水分を持っていかれる。霧でもかかっていそうなほど湿度は高いのに、のどはすぐにからからになる。しかし八柱のギルドは貧乏この上ないので社用の電気自動車デンモビなど持ってはいないし、たったの五台しかない自動自転車オーチャリも出払っていて、つまりはこんな暑い日だろうが賞金稼ぎに金を渡しに行くには歩くしかない、という話だ。

 八柱が「あそこら辺り」と呼ぶのは、神霧しんむのほぼ中心地・神都しんとの東の外れにある名もない下町のことだ。市場と長屋と一杯飲み屋と工場しかないゴミゴミした小さい町。八柱は、どうもこういった汚い町が好きになれない。

 環状電鉄をぬめらぎ駅で降りると、駅舎の出口がすぐに市場の入り口になっている。四つあるどの出口から出ても、目の前は市場だ。ぬめらぎ駅では、市場を通らないとどこにも行けない。



 透明のポリカーボネイト製防御シールドで覆われた改札を出た途端に焼いた肉、得体の知れない様々な料理、程度の低い合成アルコール、そしてあらゆる生き物の脂の臭いが鼻をつく。

 こういう雑多な臭いがもう好きになれない。八柱は眉をしかめながら商店街を歩いた。アスファルトの道は脂でぬるりと滑る。

 通路が狭い。天井が高い。蛍光灯が暗い。魚屋の店先では、手足の付いた魚が腐臭を放っている。肉屋の入り口には見たこともない六本足の獣が毛をむしられて吊るされている。がりがりに痩せた裸足の少年が道端で座り込み、阿片パイプを吸っている。八柱に向けられた目はどろりと黄色く濁っている。八柱はあわてて目を逸らした。蒸し暑さもピークだ。臭さと暑さで胸がむかむかしてくる。

 三百メートルも歩けば、やっとアーケードが途切れる。むせ返りそうな臭いから開放されてほっとしたものの、ねっとりと湿度を含んだ風はすぐに次の臭い、今度は機械油の臭いを運んでくる。

 いつものことである。八柱の気持ちは底の方でげんなりした。太陽は相変わらず凶暴な熱波を容赦なくぶつけてくる。八柱は汗を拭き拭き、重い足取りでさらに東に歩いた。

 実に幸運なことに、八柱の目当ての人物は工場の外にいた。トラックの荷台から、クズ鉄が満載されたドラム缶をひょいひょいと降ろしていた。

「景気のほどは?」

 二十メートルほど離れた所から、八柱は威吹鬼いぶきに声をかけた。威吹鬼は八柱を無視して黙々と作業を続けている。八柱はゆっくりと二十メートル歩き、威吹鬼が作業しているトラックのすぐそばに立った。

「いい答えは考えられただろ? 景気のほどは? 威吹鬼」

 威吹鬼はトラックの荷台に飛び乗り、最後のドラム缶を抱え、そのままの姿勢で軽やかに荷台から飛び降りた。

「五十メートルほど先から」ドラム缶を工場の壁面にきれいに並べると、作業用の革手袋を外しながら威吹鬼はこちらを振り返らずに言った。

「五十メートルほど先から考えてたさ。知ってるか、八柱さん。あんたの足音は独特だ。五十メートルほど先からあんたの足音は聞こえていた。あんたの大好きな質問『景気のほど』について、あんたが五十メートルほど先を歩いていた時から考えてたさ」

 八柱はくっくっと笑いながら訊ねた。

「なるほど。それならなおさらだ。いい答えは考えられただろ」

 威吹鬼は振り向いた。

 その目は、いつも通りしっかりと閉じられている。

「景気は最悪だ。答えとしては最高かい?」

 八柱は唇を歪めて笑った。「最悪だ」

 威吹鬼は少しだけ微笑んだ。

「威吹鬼。こないだの河童のね」

「かっぱ?」

「便宜上、そう呼んでんだ。その、河童のね――」言いかけて八柱は店の奥を覗き込んだ。「ここで話しててもいいのかい?」

 威吹鬼は頷く。「かまわねえよ。副業が禁止されているわけでもないし」

「しかし……」

 賞金稼ぎとあっちゃあね、という言葉を八柱は飲み込んだ。

「従業員はみんな、うすうす気付いちゃいるよ。あまり触れられねえけどな」

「そうか」

「で、河童がどうしたって?」

 八柱は目的を思い出し、鞄から茶封筒を引っ張り出した。

「河童のね、認可金額が出たんだ」

 八柱は威吹鬼の目の前で茶封筒を振って見せた。威吹鬼は八柱の手から茶封筒を、少し丁重な仕草で受け取った。

「いくらだ」

「自分の目であらためてくれ」

 言ってすぐに、「私が数えようか?」と付け加えた。

「必要ない。知ってるだろ」

 威吹鬼は茶封筒から札束を引っ張り出し、親指の腹の部分でぱらりと一瞬で数えた。まるで熟練した手品師がカードを操るように。そして眉をしかめた。

「おい。四十万か?」

「見えていないのによくわかるね」

「はぐらかすなよ。四十はねえだろ」

 八柱は肩をすくめた。「それが各ギルドで出した平均額だ」

「あいつは人を何人も喰ってる」

「喰われた人間は五人中、四人があんたのようなハンターだ」

「民間人なら賞金が高くなるってか? ハンターだっておんなじ人間だぜ」

 威嚇するように威吹鬼が言った。

 威吹鬼は賞金の額でごねることは滅多にないが、ごくたまにこういった類のことを言う。八柱はあえて大いに困った顔をした。目を閉じているが、威吹鬼にはこうした人の表情の変化が雰囲気でわかるのだ。威吹鬼はため息をついた。

「まあ、しょうがねえか。あんたに言っても」

 八柱はもう一度肩をすくめた。「すまないね。私はただのコーディネーターなんだ」

「そうだな」

 威吹鬼は自嘲的に笑った。そして、ややあって視線を八柱に向けた。いや、目は閉じているのだが、顔を上に上げ、確かに視線を八柱の目に据えた。

「――喰われた人間が、五人だって?」

 八柱はやや間を開けて言った。

「そうだ」

「四人って聞いてた」

「調べて、後でわかったんだよ。奴は、河童の野郎はハンター以外にも一人喰っていた。ハンターの方で調べてたからすぐにわからなかった」

 何か大きな制御弁を開けたらしく、熱された鉄釜から大量に蒸気がもれる音が聞こえた。工場の中では従業員達の大きなしゃがれ声が飛び交っている。

「仕事に戻らないと」

 威吹鬼が工場を覗き込んだ。今度は八柱がため息をついた。

「まったく、こんな汚い工場で働く必要なんてないだろう? あんたくらいの腕と稼ぎがあるならさ。何年かみっちりハンターやって金貯めて、ちっちゃくても家建てりゃあさ。仕事なんぞ他になんぼでもあるだろうに。なんでこんなとこで働くことにこだわっているんだい?」

 威吹鬼は沈黙した。

「まあ、あんたみたいな凄腕に隠居されたら、私らとしちゃあ困るがね」

 威吹鬼は少しだけ何かを考え、「ハンターはあくまで副業だ」と呟いた。

「工場はバイトだろ」

「それを言うならハンターだって派遣の仕事だ。定職じゃねえ」

「それでもこちらとしてはぜひ依頼したいんだ。威吹鬼、あんたの腕を見込んで」八柱はやや真面目な声で、さっきと同じことを噛んで含めるようにもう一度言った。「――河童は、ハンター以外にも一人、喰っていた。赤ん坊を、だ」

「赤ん坊だって?」

 工場からは、がーんがーんという鉄を打つ音がとてつもない音量で響く。酸化した鉄とオイルの臭いが強烈に漂う。

 頭の割れそうなその大音量と臭いと相変わらずの暑さで、八柱の意識は朦朧としてきた。

 まったく、だからここへ来るのは嫌だったんだ。今にも反吐がこみ上げてきそうだ。

 八柱は渋い顔をした。


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