優しい景品

星多みん

社会では通じない事

 遊具でおままごとをしている女児。野球部のユニホームを着た青年の筋トレ。時々笑顔を見せて話している犬を連れた学生が二人。それらを流し見すると、決まって最後にはボロボロになった革靴を凝視する。それは一年前に会社を首になってから始まった一つの習慣だった。


 最初は実家での親の目に耐えられなくなって、ここで時間を潰していただけだったと思う。今日みたいな暑い日に、涼しい部屋に対しての名残惜しさを感じながらアイスコーヒーを口にしていた私は、社会への不満を八月六日まで誰かに言うわけでもなく、内に秘めていた。


「帰ろう」


 そう自分に言い聞かせながら、ベンチから立ち上る。背後には真っ赤な夕日があり、私はそれを時計代わりとして、フラフラと公園から駅近くの商店街に行くと、こけないように地面を見ながら左右の足を交互に前に出す。


 耳には工事の音。主婦たちの会話。電車の轟音。いつもと同じなのだが、今日はなんだかそれが嫌で、私はとにかく外の社会でありふれた雑音を聞きたくなくて、遠くに行くために無心で裏路地を歩いていた。


 暫く小走りしていると、先の方から暖かい光が足元を照らし立ち止まる。もう商店街の喧騒は無く、微かに見える夕暮れ過ぎた悲しい空が、此処まで来るまでの時間の流れを表していた。


『これからどうしようか』


 私は今まで歩いた方向を見たが、少し先に見える暖かい光の正体を見てからでもいいかと思いながら繫華街に足を踏み入れる。


 不思議と酔っ払いの怒号は耳障りには思わなかった。だが、少し浮いているような感じがして、必要以上に視線を送らないようにしていると、繫華街の人が少なそうな場所にある一つの看板が目に付いた。


『bar~お客様の悩み。お聞きします~』


 それだけが書かれた看板は、往来している酔っ払いの気を引くようなものではなく、日中のマダムたちが好きそうなカフェの外観は似合わないと感じた。そんなbarに私は惹かれて中に入る。


「チリチリン」


 と、頭上から鈴の音がする。酒が嫌いでこういう場は初めてだが、店内は温もりある洋室で、静けさは外観での印象通りで安堵感を覚える。客は奥に座っている男性一人と、初老のバーテンダーがカウンター中央でコップを磨いているだけだった。私は最初に案内があると思ったのだが、それは無いようで適当な先客とそう遠くない席に腰を下ろした。


「何か飲みやすくて酔えるものをください」


 近づいて来たバーテンダーにそう言うと、何も言わずに鼻歌を歌いながらカクテルを作り始める。その間に私は店内を軽く観察していたら、作り終えたのか目の前に一杯のカクテルが置かれると、私はそれを半分ほど飲み込む。



「ここって時計無いんですか?」


 カクテルを飲み終えた頃にはスマホの充電残量が少なくなっており、時刻を確認できない事に不便と感じた私はそう聞いてみた。


「はい、ここでは時計を置いていません。ここに来る人は何かに疲れている人が来るので、故に、時間を気にせずに過ごせる空間にしたくて。まぁ、自分が時間に縛られたくないと言うのもあるのですが」


 バーテンダーは穏やかな表情で、長い白色のお洒落な髭から言葉を発する。私はその様子を見て元職場の後輩が同じような事を言っていたのを思い出した……

 が、同時に嫌な記憶も思い出しそうだと思い、まだ残っているカクテルをチビチビと飲んだ。



 少しの間を置いて、嫌な記憶が消えないままグラスの液体が無くなりかけた時の事だった。ふと、外に置いてある看板を思い出す。


「そう言えばこのbarはお客様の相談を聞いているんですよね」


「ええ。それ目的で来て酔いにくい物を飲む方もいますが……」


 バーテンダーは私の問いにそう答えると、奥に居る男性を横目で見たような気がしたが、それ以上に酒でも流せないモヤモヤを取り除きたいと思っていた。


「そうですか、そしたら一つだけ相談いいですか?」


 私はそう言うと、バーテンダーは「期待しないでくださいね」と前置きをしてジュークボックスからジャズを流し始めた。


「一応、周りの方に聞こえないように流しました。ですが貴女の相談は一言一句漏らさずに聴くので安心してください」


 私はそのバーテンダーの変わらない微笑みを見て、残ったお酒を飲み干すと昔の事を思い出していた。

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