少女と男の一ヶ月
深層
#1
あるところに、
その日もいつもと同じ日常が流れると、彼女は思っていたはず。昨日と同じく、友達と話して、遊んで、勉強して、家に帰ったらお母さんのご飯を食べて、そして夢を見る。何気ない一日が今日も来ると疑うことはなかったはずだ。
悲しいかな現実というものは何が起きるか分からないものなのだ。
中年のおじさんが、突然私の手を握ってくるかも。なんて小学生が考えるわけなかった。
考えもしないことが起きてしまうのが現実。そして、その現実に耐えられなくなった人が、またそういうことをしていく。そうやって社会は歪んでいく。
でも、そういうことをしても捕まらない人が一定数いる。状況は一向に良くならない。
一人の「現実に耐えられなくなった人」が、自分の欲のままに動いた結果、一人の少女が拐われるという結果を生んでしまった。誘拐というやつだ。その男がなぜ耐えられなくなったのかは、また今度。
咲ちゃんは必死に抵抗していた。しかし小学生が大の大人に抗えるほどの力を持ち合わせている訳もなく、ビックリするくらい簡単に誘拐は成功してしまった。男もそれが分かってたから、「女子小学生」なんて狙ったのか。
防犯ブザーというものがある。こういった事件を防止するのに有効だといわれる防犯用品。少女はそれを鞄に付けていた。朝の静かな時間だったため、起動していれば住宅街にとても響いたことだろう。
その立場に立った人にしか分からないことだと思うが、いざそういう場面に直面すると、人間というのは面白いくらいに冷静さを欠くものだ。
咲ちゃんは拐う手に抗うことしか考えていなくて、すぐ手元にある可能性になんて注意を向けずに、ずっと男に敵意を向けていた。
「やめて 、いやっ。いやぁ……たすけ。あ あぁ」
女の子らしく高く可愛い声で、必死に。
もし防犯教室で「こういう時どうする?」と、小学生たちに聞いたとする。ほとんどの子が「防犯ブザーを鳴らして、大きな声を出しながら近くの家に逃げる」と言うと思う。口で言うのは簡単だ。じゃあできるのかって話で、実際咲ちゃんは拐われてしまったわけで。
近くに目撃者でもいれば良かったのだが、いなかったみたいだ。
咲ちゃんはそのまま、借り物の車で男の家まで拐われた。助手席に乗せられて、男には姿勢を低くするように言われた。
移動中は涙を流して、ずっとえずいていた。男にはうっとおしく感じたのかもしれない。男は車を止め、咲ちゃんの首を軽く触りながら言った。
「家に着くまで泣くか、これからずっと泣けなくなるか、どっちがいい?」
その一言だけで、咲ちゃんは黙った。静かにツーと涙だけを流して、ゆっくりうつむいた。透き通った涙に反射する肌色を見て、男はキレイだなと思った。
「だよね。まだ泣きたいよね。咲ちゃんが泣けなくなっちゃったら俺が困るよ」
男が暮らしていたのは、両親から継いだ小さな一軒家。一人にしては大きかったため、誰かと暮らしてみたいと思っていたのかもしれない。
家までは一時間ほどかかった。男の家に着く頃には、助手席のシートと咲ちゃんの服はびしょ濡れになっていたが、男がそれに関して怒ったりすることはなかった。
無事に少女を連れて帰ることに成功した男は、咲ちゃんの手を引っ張ってそのまま玄関をくぐった。
到着したのに車から降りようとしなかったから、少々乱暴なやりかたになってしまったことを、男は咲ちゃんに謝った。咲ちゃんは何も言ってくれなかったから、その時許してくれたのかは分からない。
服が涙でびしょびしょのままでは嫌だろうと思い、男はある提案をした。
「じゃ、お風呂入ろっか。濡れた服、着替えたいでしょ。脱いで?」
「 」
「なんか言ってよ。あ、大丈夫だよ。替えの服なら買っといたからさ」
「 」
「なんか、言ってよ。ねえ、言ってってば。……なんで?」
咲ちゃんは泣いてしまった。赤ん坊みたいに泣いていた。成長期の子供の扱い方というのは、みんな言う通り難しい。言葉の選び方はもちろん、相手が何を考えているのか分からないのが痛い。男は咲ちゃんのために必死に考えた。
「もしかして、一人じゃお風呂心配?」
「 」
「じゃ、一緒に入ろっか。ほら服脱いで」
「や……あっ 」
男は咲ちゃんの服を脱がそうと手を掛けたが、その手は小さな手に弾かれてしまった。その時一番焦っていたのは、手を弾いた本人だったのではないだろうか。
反抗したことを怒って、殴られるとでも思ったのか、小さな小さな声で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返していた。可愛い咲ちゃんの身体に傷をつける人間なんているはずないのに。
「怒ってないよ。ほら、服脱いで。じゃないと、お風呂入れないよ?」
「……いい」
「ん?」
「咲、お風呂……入んなくていい」
やっと「会話」をしてくれて、男はとっても嬉しく思った。その内容はともかくだ。帰ってきた返事に対してどう対処すべきか数秒の時間を要したが、咲ちゃんはそれすらまた、怒っていると捉えたようだった。
「ごめんなさい……やっぱ咲、お風呂入る……だから」
「ん、じゃ入ろっか」
だから、の後に何が続こうとしていたのか。男が遮ってしまったので、それを知る術はもうない。咲ちゃんはぎこちない笑顔で、涙の後が残った笑顔で、男と目を合わせた。
笑ってる咲ちゃんを見て男は、なんで一回嘘ついたんだろう、と思った。やっぱり子供って難しいな、とも。
咲ちゃんは手が震えて服が上手く脱げていなかったので、男は手伝ってやることにした。
「咲ちゃん、可愛いね。大人になるのが楽しみだね」
「 うぅ」
いつも見ていた元気で明るくて何でもやっちゃいそうな咲ちゃんとは違って、今の咲ちゃんは何もできない。してくれない。返事も、着替えも、歩くことさえも。
まだ勘違いしているみたいだったので、キチンと言葉で伝えてあげた。
「大丈夫。ここでは痛いことなんてしないよ。咲ちゃんの嫌がることも。初めてのことはあるかもしれないけど、どっちみちみんなやることなんだ。だから、心配しなくていい」
そういって、何も纏っていない咲ちゃんの身体を、男は抱きしめた。力いっぱい抱きしめると怪我をさせてしまうので、撫でるように、優しく腕で包んであげた。咲ちゃんがどういう表情をしていたのか見えなかったけれど、きっと安心したはず。
男はもう返事に期待なんてしていなかったので、咲ちゃんが何も言ってくれなくても、なんとも思わなかった。
一緒にお風呂に入って、男は咲ちゃんの身体を洗ってあげた。女の子の身体なんて洗ったことがなかった男は、とりあえず自分が思うように全身を擦ってあげた。胸やお尻も、優しく。優しく。
途中咲ちゃんは、恥ずかしかったのか、くすぐったかったのか、変な声を出すことがあった。優しく触ったので痛いことはなかったはずなのだが。男は「ごめんね」と一度謝って、また続けた。
身体を洗い終えた咲ちゃんはとても疲れているみたいだった。先に湯船に入れて、男は自分の身体は自分で洗うことにした。どうせなら咲ちゃんに洗ってもらおうと思ったが、男はそこまで厳しくはなかった。
風呂から上がって、新しい服に着替えて、ドライヤーをかけた。その後あらかじめ片付けて用意しておいた「咲ちゃんの部屋」を紹介した。布団と棚、机と椅子。最低限必要なものは置いておいたつもりだ。
一緒にお風呂に入ったからか、ちゃんと言うことを聞いてくれるようになった。返事はまだたどたどしいが、大きな進歩だ。裸の付き合いは関係性を強めるというのは本当だった。
その日はその後、お昼にコンビニで買っておいた弁当を一緒に食べて、夜までたくさんお話をした。とっても楽しい時間だった。
この日、男は咲ちゃんに一つプレゼントをした。弁当を買う時に一緒に買った、日記帳。アニメの柄がついた可愛いやつ。
「これにさ、ここでのことを毎日書いておくといいよ。ずっと、忘れないために」
「 ……はい」
「あ、中身は見ないから安心してね。俺もそこまで非常識じゃないって。人の日記勝手に覗き見るなんてしないよ絶対」
「 …はい」
「もし心配だったら、部屋に金庫あるからさ、好きな番号設定していいよ。やり方後で教えるから。咲ちゃんは心配性だなぁ」
「 」
初日にあったことはこれくらい。夜になったら咲ちゃんすぐ寝てくれたし、いい子だ。部屋にある鍵は掛けて寝てしまったから、まだ信頼されてないなと、少し悲しく思った。
もちろん鍵が掛かってなくても、寝ている間に何かしたりなんてしないけれど。
こうして、男と咲ちゃんの生活が始まった。
この生活がずっと続けばいいけど、続かないのは分かってた。
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