名前という毒が僕を殺す時

@rakuten-Eichmann

ラインの名前にこだわるやつは全員つまらないやつ

昔から自分の名前に違和感があった。

 名は体を表すとは言ったものの、どうしてもスズキアツキという入れ物に、僕のエッセンスを感じ取ることができなかったのだ。

 7と8を足して15になることへの違和感と同じような、得体の知れない暗闇が、ずっと胸の中から僕をのぞいていた。

 思えば、幼少期の頃から、友人にはあだ名で呼んでもらうよう頼んでいた。あんさん、きんたま、その他もろもろ…本名で呼ばれるよりはマシだと、僕は優越感と共に、侮蔑を受け入れていた。

 アイデアが出てこないので、もう少しウイスキーを啜ろう。


 ジャンクヒーローといえばみんな何を想像するだろうか。煙を吐きながら空を飛ぶおじさんか、暗いニュースを見ながら自分の正義感を曝け出す青年か。ぼんやりとだが想像できるだろうか。

 ジャンクヒーローとは、僕が眠る前によくする妄想だ。形や名前すら不定形なヒーローが困っている人々や、逆に悪人を助けていく話だ。オチはないが、世界は少しだけよくなって、僕は満足げに眠りにつく。

 一個人の創造物にすら、解釈が分かれるのなら、名前に意味なんてないのではないか?うーん、おそらく、いや八割の確率で意味なんてないのだろう。

 だけど、名前に意味がないのなら、僕はなんで人の名前を呼ぶときに心臓が暴れだすのだろう。自分の名前に自信が持てないのだろう。名前が表す本質(ここでいう本質とは現実の名前や形といった制約から解放された概念そのものとしておこう)から離れたものに嫌悪感を抱くのはなぜだろう。

 アルコールでネジが緩んだ頭は簡単にその答えを弾き出した。つまりこういうことである。スイカをご馳走してくれると言っておばあちゃんの家に向かったら胡瓜だった。それの拡大解釈だ。決しておばあちゃんは無敵だとか、年の功だとかで煙に撒こうったってことじゃあない。名前と本質は決して交わらない、そして僕はどうしようもないくらいの酒浸りだということだ。


 本音と建前なんて全部くだらねえ、そう思っても現実は醜くて美しい、だから僕は煙に塗れて今日を生きるんだ。たとえ嘘で燻った明日だとしても。雨の中にガソリンが漂っていて、その匂いを嗅ぐとなんだか安心できた。僕は幽霊になっても明日を生きてみたい。朝日が刻んだ夜の隙間に、ほろほろと崩れた昨日を見た。なあKちゃん、元気にしてるのかな。会いたいよ。この世の全ての悲しみが、君たちを避けて通りますように。枕元の炊飯器がチェレンコフ光を放ち、夢が僕を飲み込んだ。


 ああ、またやってしまった。どうも酒を飲むと正気を保つのが難しい。意識を失い、気づいたらこの文章が打ち込まれていた。どうやら無意識で打った文章らしい。メチャクチャなわけだ。フロイトが見たら大喜びしそうだ。

 

 話を戻すが、名前と本質は交わることはない。いや、そもそも名前という概念が悪いのだ。名前とはもはや記号のようなものになり果てた。溢れ出る本質そのものを縛り付ける概念のような気がしてならないのだ。

例えば宇宙人がやってきて、自己紹介をしたとしよう。

『初めまして。僕の名前はkdhgashrvです。』決して人伝では喋られない発音で自己紹介をした。それに対して人間は無理やり彼の名前を言葉に直してしまうだろう。彼の名前はkdhgashrvだというのに。だから僕は他人の名前を呼ぶときにいつだって身構えてしまうのだ。本当は相手が違う名前で呼ばれたがっているかもしれない。もしくは名前で呼ばれることを極端に嫌い、肩を叩かれ、なあとかおいとか、名前ではない音の集まりとして呼ばれることを待っているのかもしれない。そう思うとあまりに不安で悲しくて、耐えられず僕は酒を飲んでしまうのだ。

思えば僕も人見知りで臆病なくせに、酷く遠くに来てしまったものだ。街から山、山から海、海から下町。どこだってしっくりくる場所ではなかった。きっと人間として決定的な何かが欠けていて、人間以外として生きるための要素が過剰に余った結果なのだろう。若者とは言えなくなってしまった今でも、いわゆるはみ出しものに共感を覚える。今では周りに変な奴ばかりだ。


子供の頃から何かしらに執着して生きてきた。潰れかけのハンバーガー屋のまずいアボカドバーガーや、友達というよりかは同類と呼ぶべきダメ人間、今では酒に依存して生きている。依存と言えば大概の大人は嫌な顔をすると思うが、僕は満面の笑みで受け入れていきたいと思う。なぜなら依存とはこれがなきゃダメという考えではなく、これがあれば大丈夫という考えだからである。

 私のような脆い人間は、人に名前を聞かれるだけで嬉しいのだ。なぜなら人に名前を呼ばれることで客観的な自己を確立できるからだ。主観で自己を捉えるとどうしても自我が邪魔をする。しゃしゃり出てくる。その結果として酒に逃げ、狂人のような文章になってしまうのだ。だから僕にとって名前とは、呪いであると同時にギフトでもあるのだ。 

 おめでとうございます。元気な男の子です。名前は何にしよう。実はもう決めてあるの。あはは、気が早いな。なんていう名前にしたんだ?あのね、この子の名前は…


 語彙力は思考を制限するという話を聞いたことがあるだろうか。湧き出る感情を言い表す言葉がなければ、それは何も感じていないのと同じであるといった考え方だ。

 僕はそれを全力で否定したい。何度も繰り返しになるが、本質は名前とは別の場所にあるからだ。本質が現実に顕現する際、必要となる要素の一部が名前というだけだ。

だから僕は最近では一般的となったキラキラネームも圧倒的に肯定する。何しろ名前は本質が被る仮面の一つでしかない。ただその仮面を引き剥がすには、それはあまりに顔に馴染みすぎている。一枚一枚引き剥がすたびにとてつもない苦痛が襲ってくる。痛くて痛くてたまらないのだ。本質を曝け出す頃には体中血まみれだ。だから僕たちにはくだらない名前が必要なのだ。

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