第3話 呼吸

 澄夏すみかは練習中もよく喋る。それはきついトレーニングメニューへの愚痴だったり、仲間を気遣う声掛けだったり、己の調子の良し悪しを吐露するものだったりさまざまだが、総じて声が明るく大きい。これでチームの士気が上がる側面もあるが、度が過ぎて叱られることもしばしば。

「元気有り余ってるね。もう一本行ってくる?」

「あっ、すみません!」

「もう遅い。次の一本、男子について行ってきな」

「んええ」

 200メートルプラス200メートルのインターバル、走力ごとにタイム設定を決めて10本。澄夏は女子のAチーム、同級生と引き離されて先輩に囲まれれば少しは黙るかと思いきや、荒い息をつきながらも元気に喋りまくっていたのだ。

(この子、強い)

 城町女子の短距離チームを束ね、県のトップ選手でもある石田鹿子いしだかのこは努めて呼吸を整えながら後輩を観察した。全力疾走一歩手前のスピードで走って、間を歩いてつないで、それなりにきつい練習のはずなのに、澄夏は決して下を向かない。腰に手を当てて、ぐっと胸を張って、丁寧に息をして自分を支えている。

 こういう子は、伸びる。

「あ、先輩も前かがみにならないほうがいいですよ。肺が圧迫されて、かえって苦しいから」

 ああ、負けていられない。

「私ももう一本行く」

「え、やった!」

 一緒に走れて嬉しいと言わんばかり、重たく引きずっていたスパイクの音がジャリッと一拍飛んだ。

 鹿子の内心でめらりと炎が上がる。

 男子はプラス5本、鹿子と澄夏が合流したCチームには中距離の選手も混じっている。慧汰けいたはBチームで、ちょうど澄夏たちのうしろにつく形になった。この並び、上位チームに下位チームを追い上げさせること、下位チームが引き離され続けることでモチベーションが下がるのを避ける意図もある。全員それがわかっているから、鬼だ悪魔だと口々に言い合いつつも、いざ走り出すと自身の、そして互いの動きに集中する。

 陸上競技は個人の能力を競うものだが、これを引き上げるのはチームの力だ。自分の能力の一段上の流れに乗ることができれば、自ずと動きも洗練されていく。量をこなしていくうちに、ひとつ上の動きが身についていく。

「俺に追いつかれんなよ」

「やだあ、ほんとに来ないでよ」

「うるさいよ」

 歩き区間のあいだ、うしろから発破をかける慧汰に軽く言い返す澄夏。鹿子が窘め、他のチームメイトは半ば呆れている。

「マジで元気だなあの子……」

「そうっすね」

 一足先に男子Cチームがスタート位置についた。姿勢を低くした澄夏がスッと気をおさめる。鹿子とふたり、ぴりりとした空気が漂う。

 慧汰の口元に、思わず笑みがのぼった。

「いきます、よーい、ハイ!」

 男子にまじって、鹿子の滑らかな蹴り出しと澄夏の伸びやかな踏み込み、ふたりとも明らかに互いを意識しており、その勢いは前を行く男子を食いそうだ。

 慧汰たちもスタート位置についた。

「いきます、よーい、ハイ!」

 息は上がって頭は重く、尻のあたりはビシビシとひびが入らんばかり。だが、慧汰は一段ギアを上げ、気持ちよくトップスピードに乗せた。先輩も誰も差し置いて、Bチームのトップに立つ。当然、設定ペースを無視しているので、後ろから戸惑いの声が聞こえる。

(こうなったら追いついたろ)

 いくら走力差があるとは言え、追いつくには難しい距離。ただ、追われているときに背中に感じる気配。あの恐怖にも似た感覚。肌で、呼吸で感じるはずだ。

 まだ距離はある。前を行く澄夏がわずかに顎を引くのが見える。肩越しの視線。

 気付いた。

 澄夏の足の回転数が上がる。そのすぐ前の鹿子も察知してふたりのリズムが揃った。慧汰がじりじりと追い上げる。互いの荒い呼吸が聞こえる。

 200メートル。

 ゴールラインを越えたものから手足をばらばらと緩め、なんとか息を整えながら歩き出した。男子CチームとBチームは、気づけばほぼ縦一列になっていた。

 誰かが慧汰の脇腹を小突いた。

「お前な」

「すいません」

 さらさらの髪が風でオールバックになっている。慧汰と実力の拮抗した、二年生の田所である。

「言う前から謝るくらいならやるんじゃねえよ」

 そう言うわりに、先輩も楽しそうだ。

「これ毎回やられちゃ持たないよ」

「ペース守ったらいいだろ」

「でもさあ、これはついていくだろ」

 結局みんな負けず嫌いなのだ。前方を行く澄夏も、見れば鹿子に頭をはたかれている。

「あんたたちの遊びに巻き込まないでよね」

「あはは、でも今の一本楽しかったですね!」

 ね! と振り返る澄夏に、Bチームの男たちが震え上がった。

「あれはすげえな」

「バケモンだわ」

「でしょう」

「なんでお前はドヤ顔なんだよ」

 残りあと4本。なぜか上機嫌の慧汰とバケモン女子の強さに当てられて、その日の練習はいつになく熾烈なものになった。

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