フライヘルのノート
赤目のサン
第1話『Ist das groß Imperium heilig?』
静寂なる書斎にて、タイプライターの乾いた音だけがリズミカルに鳴り響く。
筆者はこの〈大エルリッヒ帝国〉の英雄たる男であった。祖国を襲った大戦争の悪夢、
この本の筆者は、後に〈大エルリッヒ帝国〉陸軍参謀総長次官となる、「Ludwig Freiherr von Veldenstein(ルートヴィク・フォン・フェルデンシュタイン男爵)」であった。
自らが惨憺たる大戦争を生き延びるに至った経緯を描いた、一種の自伝である。
…しかし
彼をそうさせたものが何たるか、今となっては誰も知るよしの無い事だが…。
『
著、ルートヴィク・フォン=フェルデンシュタイン男爵。
大戦争に参加した全ての大エルリッヒ帝国軍将兵等に捧ぐ…。
秋陽が包む〈南エルリッヒ地方〉の朝方。頬を伝う涼風に一時の心地よさを覚えながら、先程購入したばかりの新聞を広げる。
隣国〈メリキエン=ゴールスカ二重帝国〉の駐在公使による失言が事細かに記されており、下部に小さく書かれていたラジオ放送の番組表や商店の広告と言った
裏面に至っても、移民の引き起こした犯罪行為
…停留所で路面機関車を待つ傍ら、朝刊に目を通す一人の学生。彼の名は"ミヒャエル"と言う。今日の彼は何処か上機嫌で…何故なら今日は、彼の記念すべき18回の誕生日であるからだ。
その時、聴き慣れた音が耳に入った。
クリーム色の車両が煙を吹き上げながら、急勾配を登って来るのが見える。
路面機関車が到着すると、ポケットから3枚の10クプファーマルク硬貨(日本円にして約30円)を取り出し、足早に
…
…その日の午後。ミヒャエルは彼の友人達と共に、学校の講堂に居た。
彼の目線の先、鼻眼鏡を掛けた大男が映る。
大男の名は"ベルツ"。彼は〈南エルリッヒ王領軍〉の人事局長次官であり、戦意高揚と"士官候補生募集"の
「〈王国〉は今、若い士官を求めている。
将来有望で頭が柔軟な諸君
…私の様な
学生等の口元に笑みが現れた。ミヒャエルも"その学生"の一人である。
ベルツは、この講堂内に漂う"堅苦しい雰囲気"を払拭しようと試みたのだ。
「特に、近頃の世界情勢を顧みれば、
大エルリッヒ帝国に存在する高等教育機関は82校。私が知る限りでは世界一だ。ギムナジウムはその三乗に及び、エルリッヒ人は世界で最も優れた教育を享受出来るのだ。
お隣の野蛮人を見
未だに彼等が"
…此処でベルツは声のトーンを下げ「…そして何より恐るべき事は、旧都オストブルクに暮らす同胞達の存在である。」と、
「
ベルツは弁論台を幾度も叩き、「だからこそ王国は!若い指揮官を求むるのだ!」と吠えた。
「私は問わねばならない!君たちに問わねばならぬのだ!
之から国家の中枢を担うであろうギムナジウムの学生諸君にだ!
東方の蛮族"は主張している!
かつて
大エルリッヒ帝国は、無神論をナショナル・アイデンティティとして定めていた。
曰く、「〈解明されるべき科学的空白〉を、宗教は埋めてしまう。
無神論者たる大エルリッヒ帝国に対し、メリキエン=ゴールスカ二重帝国は多神教の〈魔法教会〉を国教として定めている。
…即ち、両国の対立は必然たるものであった。
「私は問わねばならない!
之より国家の中枢を担うであろう!ギムナジウムの若者達に問わねばならない!」
ベルツは両手を振り上げ、次の様に言った。
「私は諸君らに問う!
"Ist das groß Imperium heilig?!(大帝國は果たして神聖なるものか?!)"」
閉塞的空間の中、雄弁を振るう大男に触発された生徒等は口々に「嘘っぱちだ!」と叫んだ。
「我々は暴虐無知なメリキエン=ゴールスカ政府を征伐する必要がある!
だからこそ!王国は天才的指揮官を求めるのである!
将来有望で若い!王国の天才指揮官!
弁士が一歩下がると
それは正に、彼の演説が思春期の学生達に浸透した瞬間であった。
…
実の所、ミヒャエルに士官学校へ入ろう等と言う気は無かった。
彼は帝都にある文系大学を志望しており、何れは修史官となる事を夢見ていた。
700年に及ぶエルリッヒ史の大まかな流れは頭に入っているし、後は詳細を大学で学ぶのみである。
特に300年代中期のオカルティックな感じが好きだ。随分と非科学的な事が相次いだが―――「…ひぇっ!?」
突然、ミヒャエルは誰かに頭を抑え付けられた。
覚えず目を瞑ってしまったが、このイタズラの主を確かめようと振り返ると、そこには先程の"ベルツ"と言う軍人が自分の頭の上に手を伸ばしていて、その直ぐ後ろで学校長が少し驚いた様な顔をしてベルツを見ている。
ベルツが困惑するミヒャエルの肩を叩き、「まるで英雄じゃないか、君!"
"
どうも彼は縫合跡を決闘(決闘で負った傷は男らしさの象徴とされ、学校長の右頬にも一筋の傷が入っている。)で負った傷と勘違いしているらしく、彼は訂正しようとしたが、間髪入れずに学校長が、「えぇ。彼は去年の秋に上級生と決闘を挑みまして、相手は剣術クラブのエースだったのですが、接戦の末に引き分けまで持ち込みましたよ。」と先手を打って、ミヒャエルを追い込んでしまった。
「勇気があるじゃないか君!士官候補生としての素質は十分にある!
「指揮官になれば将来安泰です、親御様も喜ばれますよ。」
王領、そしてこの〈
…そして、ミヒャエルがやっとの事で発した言葉は、「…考えさせて下さい…。」であった。
フライヘルのノート 赤目のサン @AkamenoSan
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