『表に出てきて大丈夫なのか。学校にはあいつがいるってのによ』

『わかってるよ』


 氷柱つららのなかにいるに問われ、脳内で応じる。否が応でも、暗く鋭く、とり囲む者全てを射抜くような男の顔が思い浮かぶ。その男の血が自らの奥深くで常に流れているのだと思うと、途端に体がふるえた。


 氷柱を産んで亡くなったという母親のことは、顔すら知らなかった。その顔も名も知らぬ母とあきら、そしてあの男。三人のあいだで一体なにがあったのか。それはさすがの彼も知らなかった。


『お父様の前にも、いい加減出てきてやったらどうなんだよ。会いたがってたぞ。氷柱君に』


 そこはノーコメントを選択した。


『お父様のこととなると急にシカトかよ』

 正直、触れられたくない。


 未だ氷柱のなかで色濃く残っている幼き日の誘拐の記憶。

 輝に抱えられて連れ去られた廃墟に転がる、頭から血を流したまま散らばっていた男の数々。

 中学でのいじめの被害を、勇気を出して告白した時の、舌打ちをせんばかりの、輝の苛立った表情とため息。


 自分が弱い人間なのは自覚している。

 きっと輝が望んでいたのは、言われたら言い返す、やられたらやり返す強さを持つ、彼のような人間だ。

 そう思い、自らのなかへ引きこもっている反面、彼に自分の人生全てを、任せきりにしたくはないという、そんな気持ちもあった。



「おはようございますうえかわ先生。相変わらず怖い顔して。そんな人殺しみたいな目で周り見てたら、それだけでパワハラとかで訴えられちゃいますよ。道歩いてたら、警察に職質かけられたりしないんすか?」


 陽気な声とは対象的に、反射的にドキリとした。まさか朝の登校初っ端から、その名前を聞かなければいけなくなるとは。


 上川たく。氷柱がこの高校へ入学と同時に赴任してきた男性教師だ。

 年の頃は、四十代か五十代か、年齢不詳。真っ黒のナイロン生地の上下とその下にこれまた黒いハイネックに身を包み、身長は、百八十ある氷柱でも見上げなければならないほど高い。おそらくは百九十以上。首は太めで、ある程度サイズに余裕のある衣服でぱっと見はわからないが、筋肉の密度も高そうだ。

 この高校に赴任してまだ数ヶ月だというのに、全教職員はもちろん、全校生徒の学年、名前から所属している部活、家の場所、電話番号まで、個人情報すら把握しているという非現実的な噂もある。くわえてスポーツ全般に万能で、特定の部活の顧問は受け持っていないものの、それぞれの運動系の部活顧問が急用でこられなくなった時は、その代わりとして様々な運動部の顧問を淡々と引き受け、そのどれもを完璧にこなしている、らしい。

 ヤクザめいた風貌の上川を遠巻きに恐れている生徒がほとんどだが、なかには、影のある美形寄りとうけとって密かに憧れている女子生徒も少なくないと聞く。受け持ち教科は保健体育。


 一方の、そんな上川と校内の隅で朝から対峙しているのは、校内でも有名な生徒だった。

 父親が現役のヤクザだという噂。

 二年の男子生徒、おいかわの発言は、的を射ていた。


 その男は。



 上川は無言だった。

 銀縁の眼鏡ごしに追川をうかがう目は、特別眉間にしわをよせているわけではないのに、教師には到底みえない威圧感、というか殺意めいた空気をはなっている。


 上川の放つ空気にたじろいだ。そのこと自体が気に食わなかったのか、追川が上川にむかい、凄む。

 瞬間。追川がポケットに手を入れ、再び出された手元が鋭く光った。


 ナイフだ。


 氷柱は体を動かすどころか声も出せず。ただ彼の、『凄んで効かないとわかったら即実力行使かよ〜』という、他人事かつ呑気な台詞が脳内で聞こえただけだった。


 上川が容易く避けて……とおもいきや、ナイフはいとも簡単に、上川の脇腹に突き立てられた。

 ふたりの足元に、血が数滴垂れ、落下していく。数メートル離れた氷柱からでも見えるほど鮮明に、生々しく濃い赤色。

 悲鳴を上げそうになる。


 おもわず逃げようとした。だがそこで彼が、逃げんな、と素早く鋭く言ってきたため、回れ右しようとした氷柱の足が止まった。


『なんで?』

『このあとの上川の動向が気になるだろ』


 上川の表情は、特に変わらなかった。

 むしろ刺した側の追川の方が、恐怖に顔を歪ませている。

 そんな追川の顔が、更に歪みを増した。

 上川が刺さっている脇腹に手をやり、べっとりと自らの血がついた手でゆっくりと、撫でるように追川の頬に触れた。


 呆然とする追川の耳元に、なにかを囁いた。

 追川がその場にへたり込む。


 上川が脇腹からナイフを抜きつつ、二枚のハンカチらしき物をどこからともなく取り出す。一枚目で血のついたナイフを包み、衣服の中へと隠す。二枚目で脇腹を押さえた。幸い、全身真っ黒な服装であったため、一見すると血の赤も目立たず、上川も無表情なため、ナイフで刺された直後にはとても見えなかった。


 こちらに向かってきた上川と目が合う。

 こちらからかける言葉もなければ、上川もまた何も言うことなく、平然と氷柱の横を通り過ぎていった。



 あれから数日経っても数週間経っても、警察騒ぎどころか、追川に退学などの処分がくだることはなかった。


 上川もまた、ナイフで脇腹を刺されたはずなのに、入院した、あるいは上川先生が怪我をした、という話題すらなく。

 その衝撃的な出来事を、当事者の上川や追川、目撃者の氷柱を除いた、校内の誰一人、知らないようだった。


『どうせ防刃ベストとか血糊でも仕込んでたんだろ』

 と、ナイフで刺されても平然と歩いていた上川に疑問を持っていた氷柱に対し、彼はそんなことを事もなげに言った。


 それからおもむろに、

『なんであいつは高校教師なんてやってるんだろうな』


 彼が氷柱に尋ねてきた。


『どう見ても、教師ってツラでもタマでもねえだろ』

 確かにそうだけど。


『息子を守るためだったりしてな』

『は?』

『あの男にも父親としての感情が』

 そんなこと。


 殺し屋だなんて一見かっこよさげな肩書きがあっても、所詮は、テルと裏で呼ばれている、ただの人殺しだ。そんな人間に、父性まがいの感情なんて。

 あるわけがない。

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