第十話:アタシたちゃ、おんなじ失恋仲間でしょーが! ヨウとアタシで遊びに行くんだよ!

 ややあって、嗚咽も上げずに泣き続けていたヒマワリの涙も落ち着いた。


 話さなければならないことがある。きっとヒマワリもそう感じているはずだ。


「……これからどうする?」

「どうって?」


 ずびっ、と鼻をすすりながら、ヒマワリが問い返す。


 そんなふうに返されると妙な心持ちだ。そもそもがこれはこいつが言い始めたことじゃないか。


「お前はどうしたい?」

「どうしたいんだろね」


 ベッドに背中をもたれて、脚を伸ばしたヒマワリが、うーん、と両腕を天井に向かって伸ばす。

 その後で、そのまま頭をベッドに預けた。


 俺からヒマワリの表情はうかがい知れない。

 ただ、喉から顎にかけての真っ白なラインが、悲しげな曲線を描いていた。


 俺は……。

 俺はどうしたいのだろうか。


 最初はショックだった。そう思う。


 いきなりユリカさんが、初恋の女性ひとが、男を連れてきて、「婚約しました」なんて言われて。なにがなんだかわからなかった。


 しかし、鈴川と自分の歴然たる差を見せつけられた。残酷なまでに。


 心が折れたのだろうか。俺がユリカさんを想う気持ちはその程度だったのだろうか。

 奪い取ってやろうと、何が何でも自分のものにしようと、そう思っても良いのではないだろうか。


 いや、きっとわかっているのだ。


 わかっていたのだ。


 もし、今、俺がなんらかの手段で鈴川とユリカさんの仲を引き裂こうとしたとしよう。正確には、引き裂くように画策したとしよう。


 そしてそれが上手くいったとしよう。


 そんなユリカさんを俺は好きだと言えるだろうか? いや、そうじゃない。


 俺が心の底から好きになったユリカさんだからこそ、きっと。


 ――そうはならない。


 ユリカさんは一度決めた婚約を決して反故にはしない。したとしても、それは大きな外的要因があった場合だけだ。


 ユリカさん自らが心変わりを果たし、鈴川との婚約を破るなど、俺の知るユリカさんからは程遠いのだ。

 それこそ、例えば、鈴川が二股をかけていただとか、とんでもないクズだったとか、そういったことがあれば話は別だろうが。


 しかし、仮にそうだったとしても、だ。


 ユリカさんは柔らかく微笑んで鈴川を許してしまうのだろう。

 俺にとってのユリカさんはそんな女性だ。


 俺だって、何度もユリカさんに許してもらった。


 勿論こっぴどく叱られたことも何度かある。数え切れない。

 でも、最後には柔らかく微笑んで、「大丈夫よ」と言ってくれた。


 そんなユリカさんが、その笑顔が、どうしようもなく好きだった。


 そんなユリカさんだからこそ、好きになった。


 思い出す。中学の頃だったか。


 俺はクラスメートと些細なことで喧嘩になった。


 元々友人は少ない方だった。今でこそ最低限のそれが必要不可欠であると理解してはいるが、当時の俺は人とのつながりというものに価値を感じていなかった。

 今よりもずっと。


 他人と交友を持つわけでもなく、ひたすらに自分を高める日々。勉強に、身体づくりに。


 すべては、立派な男になってユリカさんを迎えに行くためだ。


 そんな俺を鬱陶しく思った連中が、くだらない嫌がらせを繰り返すようになった。


 後から聞くと、そいつらのリーダー格の好きな女子が、俺のことを好きだったとか、そういう話だったらしいが。


 嫌がらせは徐々にエスカレートしていき、最初は相手にするだけ無駄だと考えていた俺もとうとう我慢の限界に達した。


 そこからはありがちな流れだ。殴り合いの喧嘩。

 中途半端に俺が身体を鍛えていたことから、複数人対俺の喧嘩は痛み分けとなった。


 奴らもそれなりの怪我をし、俺もそれなりに怪我をした。

 学校からは両者痛み分け、ということで、それぞれの両親が呼ばれ、互いに謝罪し合った。


 父さんと母さんは、特に何も言わなかった。強いてあげるなら、父さんが俺の頭に、こつんと軽くげんこつを降らせたくらいだった。


 俺は自分が間違っているとは思っていなかったし、父さんと母さんは糾弾しても俺を曲がらないことを理解していたのだろう。


 しかし、何日か後、血相を変えて飛んできたのはユリカさんだった。お隣のママ友ネットワークで、おばさんあたりから話を聞いたのだろう。


 ユリカさんはとうとうと、「人とのつながりの大切さ」や「他者に危害を与えることの不道徳性」を俺に説いた。

 勿論俺だって反論した。そのずっと前からもうユリカさんのことが好きだったはずだが、好きな人相手でも譲れないことはある。


 ――なぜ間違っていない俺が反省せねばならない?


 しかし、ユリカさんは困ったように笑いながら言うのだ。


「別に、嫌いな人と仲良くしろなんてお姉ちゃんも言わない。でも、いつかヨウ君が一人じゃどうにもならなくなったとき、助けてくれる人が誰もいなくなっちゃうよ」


 ならば俺は、一人でなんでもできるようになる、と反論しようとしたものだ。


「それに、ヨウ君なら、もっとうまいやり方を思いついたでしょ? だってヨウ君なんだから」


 そして、ユリカさんは更に続けた。


「どれだけヨウ君が正しくても、暴力は駄目。人間はコミュニケーションを取って、争いを避けることができる動物なの。ヨウ君だって、叩かれたら痛いでしょ?」

「うん」

「ヨウ君は、頭が良いから、相手も同じように痛いってことわかるよね? 暴力に頼らず、話し合いで問題を解決できるから、人間は人間たりうるのよ」


 めっ、と可愛くしかない、本人にとっては精一杯の怒った顔をしながら、俺を見る。


 俺は「私もついて行ってあげるから、もう一度ちゃんと謝りに行こう」というユリカさんの言葉に渋々頷いた。


 連中一人ひとりの家に訪ねに行き、謝罪をすることにした。


 とは言え、ぶっきらぼうに「悪かった」と言葉少なに謝る俺だ。相手も当然気に食わないだろう。


 しかし、俺よりも熱心に頭を下げたのは、何故かユリカさんだった。

 そして、謝ると同時に、やんわりと「暴力は良くない」ということを説き、諌めていった。


 関係のないユリカさんが何度も頭を下げる姿を見て、俺はどんどんと申し訳なくなった。

 ぶっきらぼうな態度を引っ込め、形だけでもちゃんと謝るようにした。


 全員に謝罪を終え、その帰り道。俺はユリカさんに「ごめんなさい」と言った。


 彼女はやはり柔らかい笑顔で「大丈夫よ」と言うのだ。


 ひどく印象的なエピソードがこれだ。


 似たような話はいくらでもある。つまるところ、ユリカさんはそんな女性なのだ。


 ひるがえって、ヒマワリの状況を考えよう。

 ヒマワリも俺と同じなのではないだろうか。


 俺達が小細工を弄した程度で、ユリカさんを放ってヒマワリになびくような人間をヒマワリ自身が好きにはならない。


 そうであってほしくはないはずだ。ヒマワリだって。


 ヒマワリは最初に言った。鈴川は遊び人である、と。遊び人だった・・・・・・、だったか? 細かいところは覚えていない。


 ともあれ、あれはきっと本心ではない。


 鈴川がどこからどう見ても、誠実だから、真面目な人間だから、立派な大人で責任というものを一身に背負っているから、きっとヒマワリもヤツを好きになった。


 それはユリカさんも一緒だ。


「……駄目で元々、だったんだろ?」


 俺はヒマワリに向かって言う。


「『だめだったーっ!』って、すっきりしたかよ?」


 ヒマワリがゆっくりと顔をこちらに向けた。

 俺を見て、にへら、と笑う。


「した」

「そうかよ」

「うそ。してない」

「どっちだよ」


 一秒も経過していないのに真反対のことを言ってのけるヒマワリに思わず笑う。


「うん。駄目だね~。どんなに頑張っても、どんなに何をしてもさ、やっぱり鈴川さんのこと好きなんだよ」

「そりゃ、俺も一緒だ」

「あはは、そーだね」


 ヒマワリが乾いた笑い声を上げてから数秒、沈黙が続く。


 それから、ヒマワリが俺に向かって手のひらを上にして人差し指を向け、くいくいっと曲げ伸ばしする。まるでこっちにこいとでも言わんばかりに。


 ため息を吐いて、俺は立ち上がる。


 ヒマワリが、俺を指していた指で、自分の隣を指差す。隣に座れってことなのだろうか。特に何も考えずに従う。


 こうやって、近い距離で座るなんて、いつぶりだろうか。

 小さい頃は、しょっちゅうべたべたくっつきながら遊んでいたような気がするが……。


 すると、突然、ヒマワリが俺の肩に頭を預けた。


「……おい」

「いーでしょー?」

「よかねぇよ」

「いいからっ……お願い」


 ヒマワリが俺の服の胸元をぎゅっと握る。


 側頭部をもたれかけていただけだったのが、今は顔全体を俺の肩に埋めている。


「……ぐずっ……」


 そして、せっかく落ち着いたにも関わらず、またまた泣き始めた。


「……うっ」


 それはいつもの活発なヒマワリとは打って変わって、蚊の泣くようなか細い、声とも呼べないような声で。


「……っ……ううっ……」


 それだけの感情が込められているのだと理解した。


「ひっ、ひっ」


 ヒマワリの押し殺すような泣き声を、しゃくりあげるようなそれを聞きながら、頭の片隅で、服の肩口が涙と鼻水で汚れるな、とぼんやりと思った。



 §



 数分ほど経って、ようやく涙腺のダムが機能するようになったらしいヒマワリが、目と同じくらいに顔を真っ赤にして俺を見た。


「……ご、ごめん。ありがと」

「おう」


 何も言うまい。


「お、お詫びじゃないけど……、ヨウが泣きたくなったら胸くらいかしてあげるからね」

「おう」


 馬鹿か。男は人前で涙なんて見せないもんなんだよ。

 男が泣いて良いのは、感動する映画を見たときだけだって相場が決まってんだ。


 謹んで遠慮しよう。そうは思ったが、口には出さなかった。


「で? どーする?」


 俺はさっきした質問を再度ヒマワリに投げかけた。


「うん、諦める」

「いいのか?」


 聞き返しはしたが、もうそれ以外の選択肢が残っていないことは理解していた。


「うん。ぜんっぜんすっきりなんてしてないしさ、まだまだ引きずるとは思うけど、どうにもならないし、考えるだけ損だよね~」

「んー、まぁ、そりゃそうか」


 俺も時間はかかるけど、この想いはユリカさんには告げぬまま葬り去ることにしよう。今決めた。そうしよう。


「そうそう。こういう時はね、ぱーっと遊んで気を紛らわせるもんなんだよっ!」


 ぱーっと遊んで、ねぇ。


「んじゃ、ダチとかと、カラオケにでも行ってストレス発散しとけ」

「はぁ?」

「ん? なんだよ」

「ヨウ、なーに自分は無関係ですって顔してんのよ」

「どういうことだよ」


 ニカッ、とヒマワリが笑う。


「アタシたちゃ、おんなじ失恋仲間でしょーが! ヨウとアタシで遊びに行くんだよ!」


 理解をするのに数秒かかった。いや、本当に、こいつと付き合っていると、自分の理解力を大きく上回る衝撃が度々襲ってくるから困る。


「なっ、なんでっ!」

「こんな気持ち、学校の友達となんて分かち合え無いでしょっ!」

「いや、別に分かち合う必要は――」

「いいからっ! そうだなあ……。決行は明日っ! 計画はアタシが立てるっ! ヨウは精一杯おめかしして、アタシの隣に並んでも恥ずかしくないよーにっ!」


 いや、精一杯おめかし、って……。


「同意しかねる」

「同意しかねることに同意しかねるっ!」

「じゃあ、同意しかねるのに同意しかねるのに同意しか――」


 なんとなく不毛な言い争いになりそうな気配を感じて、口を噤む。

 最後まで言い切れなかったセリフの代わりに大きくため息を吐いた。


 ここ数日でわかったじゃないか。こうなったヒマワリは昔と同じで止められない。


「……わーったよ。明日な」

「うんっ! ちゃんとカッコイイ服で来ることっ!」

「それ関係あるのか?」

「無いけど……。でも、ヨウ顔はそこそこ良い……んだか、ら……いや、普通? 中の下? ……なんだから」

「おい、なんか傷つくところに着地してんじゃねぇ」


 ヒマワリが笑う。


「んじゃ、アタシは明日の計画立てるから! ヨウは帰りなさいっ!」

「へいへい」


 あれやこれやという間に、俺はヒマワリの部屋を追い出された。


 ユリカさんに軽く挨拶してから、秋野宅を出る。


「やれやれ」


 そうつぶやく声は、初春の温かい空に消えていった。

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