第九話:馬鹿だよ。お前は馬鹿だ……

「で、鈴川さんがね――」


 あれから三ヶ月が経っただろうか。夕飯を囲む食卓で、姉が出す話題の中に度々鈴川の名前が出てくるようになった。


 そして、ヒマワリは純粋だった。残酷なほどに。


 姉が話す、憧れの人・・・・の話に相槌を打ち、時には質問し、表情を輝かせた。

 姉のフィルターを通して見える、鈴川トウジという人間を想像し、夢想し、心をときめかせた。


 ――やっぱり鈴川さんは素敵だな。


 ユリカと鈴川の間に当てはまるかはともかく、人間というものは、利害関係にある他者には自分をよく見せるものだ。


 鈴川にとって、ユリカの勤める会社が得意先である、という事実を鑑みればなおさらかもしれない。


 とにかく、ユリカの口から語られる鈴川の人物像は、ヒマワリにとってとてもとても素晴らしいものだった。


 ヒマワリにとって、鈴川という男は、完膚なきまでに大人だった。

 ヒマワリにとって、鈴川という男は、夜空にきらめく一番星のように魅力的だった。


 しかしながら、ヒマワリも現実的な面を持っていた。


 鈴川トウジという男と自分が結ばれることはないと。空想に胸を踊らせながらも、一方の厳しい現実を理解していた。


 アイドルに対して本気の恋慕を抱く人間が少数派であるように。


 ヒマワリにとって鈴川トウジという男は限りなく偶像アイドルに近い、そういった存在だった。


 だからこそ、鈍感だったのかも知れない。

 だからこそ、姉の鈴川について語る際の表情が、これまで見たことのないほどに活き活きとしていたことに気づかなかったのかも知れない。

 だからこそ、姉が鈴川という男に抱く感情を、「自分と似たようなもの」と切って捨ててしまっていたのかも知れない。


 ある日の食卓で、突然ユリカが言った。


「明日、鈴川さんがウチに来るかも」


 父も母も喜んだ。勿論ヒマワリも喜んだ。


 しかし、その喜びの根源は別のものだった。


 両親は薄々感づいていたのだ。長女が、鈴川トウジという男と好い仲であるかもしれないということを。


 少なくとも、ユリカ自身は鈴川に対して好感を抱いているということを。


 今まで心配するほど男の陰を感じさせなかった長女の浮いた話に諸手を上げて喜んだ。


 勿論、ヒマワリが過去彼の世話になったことも関係している。

 母はともかく、父に限っては、鈴川に直接謝意を示していなかった。それを非常に残念に感じていた。


 ヒマワリとユリカの父は義理堅い人間だった。


 同時に彼らは、自身の娘たちの恋愛に忌避感を持っていなかったし、「女性の幸せは温かな家庭にこそある」という、古い価値観も持ち合わせていた。


 だからこそ、ずっと女子校、女子短大に通い、長らく色っぽい話のなかった上の娘を心配していたのだ。


 一方で、ヒマワリは純粋に憧れの「鈴川さん」にもう一度会えるかもしれないことを、ただ純粋に喜んだ。


 鈴川と姉の仲を邪推するような考えは浮かんでこなかった。

 ヒマワリもまた、恋愛という営みとは、とんと縁がなかったことが起因しているのかもしれない。






 そして、いつもよりも寝付きの悪い夜を越して、次の日となった。


 ヒマワリは、秋野宅に鈴川が訪れる予定の時間が夕飯時であるにも関わらず、わざわざ部活を休んで早く帰宅し、よそ行きの格好に着替えた。

 普段の部屋着とは一線を画す、ガーリーな、それでいて彼女の活発さを損なわない服装だ。


 ヒマワリが自分のために選んだ、自分の魅力を最大限に発揮できるであろう格好だ。


 着替えを終えてから何度か深呼吸をしたものの、興奮で居ても立っても居られず、自室のベッドの上で脚をバタバタさせながら待つ。


 しばらくして、両親が帰宅し、母が料理を作り始め、もうすぐ出来上がる、といった時チャイムが鳴った。

 はやる心を抑えるのに苦労したが、なんとか平常心を装いながら自室を出て玄関に向かう。


 ヒマワリの目に飛び込んだのは、ユリカの隣に立つ記憶通りの鈴川の姿だった。


「こんばんは。急遽お邪魔することになりまして、ご迷惑ではなかったでしょうか?」


 申し訳無さそうに頭を下げ、微笑む鈴川に、ヒマワリの胸が高鳴った。


「先日は、ウチのヒマワリがお世話になったみたいで」

「いえ、お父様、お気になさらないでください。たまたま通りがかっただけですから」

「いやいやいや。その上、ユリカまで仕事の関係でお世話になっているようで」

「私こそ、ユリカさんには、いつも良くしていただいています」


 父と鈴川が、社交辞令を交えた会話を繰り広げる。

 ほうっておくと、いつまでもそんな応酬を続けそうな父に、ユリカと母が苦笑いをした。


「お父さん? いつまでもこんなところじゃなんだから」


 母がそう言って、父が「そ、そうか」と笑った。


「鈴川さん。ご無沙汰しております。さ、上がってくださいな。もうすぐ晩御飯ができますから」

「はい、ありがとうございます。お邪魔します」


 鈴川が靴を脱ぎ、靴箱の前に揃える。

 靴を脱ぎ終わった鈴川を見て、ユリカが「鈴川さん、こちらです」とダイニングまで導く。


 皆揃ってダイニングに向かう。その間、ヒマワリは、ユリカと鈴川の距離感にも気づかずひたすらに浮かれていた。


(鈴川さんだ! 鈴川さんだ! 鈴川さんだ!)


 もう相まみえることは無いと思っていた。そんな彼が今自分の目の前にいる。

 ヒマワリはもう天にも昇ってしまいそうな心持ちだった。


 母以外の四人が、ダイニングテーブルに着いたタイミングで、思わず早口になってしまいそうな口を抑えて、ヒマワリは口火を切った。


「あっ! あのっ! 鈴川さん! 父も申し上げていましたが、先日は本当に――」

「とんでもない。怪我は治った?」

「は、はいっ! お、おかげさまで」

「良かった。そう言えば、ヒマワリちゃんは陸上部だったよね? 部活に支障はなかった?」

「あ、はい。二週間休んだくらいで」

「二週間も!? それは、ちょっと影響あったんじゃ……」

「あ、大丈夫です。ウチの陸上部は弱小なんで」

「それでも、頑張ってる部活だろ? 気をつけないとね」

「あ、そ、そう……ですね。は、はい」


 もっともっと話したいことはたくさんあったはずなのに、舌がもつれて言葉がうまく出てこない。

 普段、言いたいことははっきりと言うヒマワリとは、まるで別人だ。彼女を良く知る友人が見れば驚いただろう。


 ヒマワリ自身も驚いていた。言いたいことが言えないことにも勿論なのだが、自分のバイタルの変化に、だ。


 頭の中いっぱい、うるさいくらいに響き渡る心臓の鼓動。


 地面に足をつけ、どっしりと座っているはずなのに、ふわふわと浮かんでいるような全身。


 手は勿論、背中や脇の下から、後から後から流れ出てくる汗。


 顔が熱い。

 そして、胸のあたりがぎゅうっと痛い。


 ――アタシ、鈴川さんのこと……。


 憧れが、音を立てて恋心に変わっていった。





 会食は酒も交えつつ、楽しいものとなった。


 アルコールのせいでいつもより饒舌になる父と母。対照的に、結構飲んでいるはずなのに顔色一つかえない鈴川。

 普段アルコールは嗜まないユリカと、そもそも未成年であるヒマワリはジュースを飲んだ。


 ユリカが両親と談笑する鈴川を見て柔らかく微笑む。

 ヒマワリも同様に楽しく、嬉しい気持ちでいっぱいだった。


 ――鈴川さんは、本当に鈴川さんだ。


 正直、ヒマワリは食事の味なんてしなかった。まるで味のない粘土を口の中に放り込んでいるようだった。


 さらに言えば、自分がどんな言葉を発したのか、全く覚えていない。父や母と鈴川が話しているのに、時折一言二言相槌を打つだけだったから、覚えていないというよりも、喋っていなかったと言ったほうが正しいのかも知れない。なればこそ覚えているはずもない。


 食事もなくなり、酒も進み、父の目が据わり始めた頃、ユリカが「お父さん、そろそろ……」と言った。


「あー、そうだな。もう結構な時間になってしまったな。いや、鈴川くん。楽しい時間をありがとう」

「いえ、こちらこそ、美味しい食事に、お酒までごちそうになってしまって」

「いやいや、鈴川くんがこうも気持ち良い男だとは思っていなかった」


 がははは、と豪快に笑う父に、母とユリカが微笑む。


 ヒマワリは気づかなかったが、ユリカが意味ありげに鈴川に視線を遣った。鈴川は、ユリカの視線に小さく頷いてから、父を見る。


「秋野さん。最後に申し上げなければならな――」

「いや。みなまで言わないでくれ。俺もそこまで鈍くはない」


 父は、鈴川の話を遮って、満足気に微笑んだ。

 しかし、そんな人の良い男の言葉に頷くほど、鈴川も不義理ではなかった。


「いえ、ちゃんと言わせてください」


 ヒマワリにとっては、そこからの映像がスローモーションに映った。

 まるで、映画のワンシーンのように。


「ユリカさんと、結婚を前提にお付き合いさせていただいております。『娘さんをください』なんて言えるほど私は立派な人間ではないかもしれません。ただ、ユリカさんを幸せにする営みの、その環の中に私を入れてはもらえないでしょうか」


 ――本当に映画みたい。


 ヒマワリは心のどこかでそう思う。

 だとしたら、これはどんなジャンルの映画なのだろうか。ドラマなのだろうか。


 きっと悲恋を描いたものなのだろう。ヒマワリにとっては。


「ユリカを頼む」

「……はい」


 鈴川がユリカと顔を見合わせて微笑んだ。

 それさえも、まるで映画のようだった。



 §



 ヒマワリが口を閉ざした。

 あまりに出来すぎていて、あまりに悲しい話だと、俺は思った。


 ユリカさんにとっては、本当に運命だったのだろう。


 妹が世話になった男が、取引先の係長で。

 それで何度も顔を合わせることになって。


 本当に、映画みたいな話だ。脚本はできが悪いにも程があるけれども。


 気づけばヒマワリがはらはらと涙を流している。


「……ヨウ……。アタシ、どうすればよかったのかなあ?」


 答えられない。ヒマワリを傷つけることのない答えを俺は持っていない。


 きっと、どうあがいても、鈴川とユリカさんの間にヒマワリが立ち入る隙などなかっただろう。


 勿論、心の底から悔しいが、それは俺もだ。


 鈴川から見て、ヒマワリは子供だ。


 当たり前だろう。三十路手前の男から見て、女子高生なんて、まだまだ子供でしかない。そもそもが、手を出したら条例違反になる以上、ヒマワリが望むような展開になったとしても悲劇しか待ち受けてはいない。


 そして、まともな男であれば、同じ大人のユリカさんと女子高生のヒマワリ、どちらを取るかなんて明白だ。


「バカみたいだよね……。本当に」


 ぐずっと、ヒマワリが鼻をすする。困ったような微笑みを浮かべながら。


「あぁ。馬鹿だな」


 とっさにそんなセリフが口から出る。言うつもりはなかったのに。


「馬鹿だよ」


 口に出してしまったから、確認するように、噛みしめるように、もう一度言う。

 なんでそんなセリフが出てきたのか、わからないままに。


「お前は馬鹿だ……」


 ヒマワリの眦から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。


 その泣き顔を見てようやく腹落ちした。こいつを馬鹿・・だと俺が感じた理由。


 鈴川という相手を好きになったことに対してじゃない。

 大人の男性に対して、ありもしない運命とやらを感じてしまったからでもない。


 ――お姉ちゃんの婚約、ぶっ壊そーぜ。


 こいつはハナっからあんなこと微塵も考えちゃいなかった。

 うまくいけば儲けもん、とすら思ってなかった。ダメで元々、ですらなかった。


 今気づいた。


 これはヒマワリの通過儀礼だったのだ。


「いつだってお前は……」


 昔を思い出した。俺が間違って壊してしまったヒマワリのおもちゃ。


 それをじっと見つめて、表情を歪めながら、謝る俺に向かってこいつはどうしたと思う?


 笑ったんだ。


 悲痛に顔を歪めながら、笑いながら、自分の大切なものを手放しやがるんだ。


 誰も悪くない、なんて言って。

 そんなとこが本当に……。


「馬鹿だ……」

「ははは……。そだね」


 くしゃくしゃの泣き顔のまま、ヒマワリが乾いた笑い声を出した。

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