疎遠になっていた幼馴染は言った。「お姉ちゃんの婚約ぶっ壊そーぜ」

げっちょろべ

第一話:お姉ちゃんの婚約、ぶっ壊そーぜ

「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである」とは、誰の言葉だっただろうか。あとに続く言葉もあって、そちらのほうが本題だった気もするが覚えていないし、正直どうでもよい。


 なぜなら、俺にとっての恋愛は、性の目覚めとは切り離されたものだったからだ。


 物心ついた頃から、俺は恋をしていた。小学生にも満たない年齢からだ。


 秋野ユリカさん。我が家の隣に住む年上の女性。秋野家とは、家が隣であることもあって、家族ぐるみの付き合いだった。物心がつく前から、俺は彼女に面倒を見てもらっていたものだ。そして、気がつけば俺は彼女のことが好きだった。


 そんなユリカさんが、久しぶりに我が家を訪ねてきた。高校一年生の三月。もうすぐ桜の季節。麗らかな日曜日。

 休日でだらだらしていた父さんと母さんが、短大を卒業して社会人になってからめっきり顔を見せなくなったユリカさんの姿に相好を崩した。


 全員分用意された紅茶とお茶菓子をつまみながら、母さんがユリカさんに「ずいぶん久しぶりだけど、何かあった?」と訊く。

 ユリカさんはたおやかに微笑んで返す。


「ずっと良くしてくださっていた春原すのはらさんにもご報告しないとって――」


 久しぶりに見ることができた美しい彼女の姿にゆだっていた俺の頭に冷水をかけるかのような言葉が続いた。


「私、婚約したんです」


 婚約。その単語に頭が真っ白になった。


 視界から入る色彩を処理しきれない。すべてがモノクロになっていく。そんなハングアップした頭の中で、ひと月ほど前に俺を訪ねてきたユリカさんの妹、秋野ヒマワリが言った言葉が反響していた。


 ――きっと後悔するからね。ヨウ。


 煩雑な思考のなか、中学に入ったくらいでなんとなく疎遠になった幼馴染の顔だけが、いやに鮮明に浮かんだ。



 §



「ただいま」


 家のドアをくぐり、靴を脱ぐ。リビングから、母さんの「おかえりなさい」が聞こえた。

 カバンを片付けるために二階の自室へ向かおうと歩を進めた時、母さんがパタパタとスリッパを鳴らしながら小走りで現れた。


「ヨウ。ヒマワリちゃんが来てるわよ」

「え?」


 ヒマワリ。秋野ヒマワリ。俺の記憶に残る彼女の顔は小学生の頃のそのままだ。

 日焼けした顔。そばかす。気の強そうな眦。短く切りそろえたおおよそ女とは思えない髪型。


 遠い記憶のヒマワリがいたずらっ子みたいに俺に笑いかけた。


「なんでまた」

「なんでって、幼馴染でしょ?」


 口から漏れ出た疑問に、母さんが不思議そうな顔で返事をする。


 確かに、俺とヒマワリの関係を端的に言い表すなら「幼馴染」だろう。

 けれど、一般的な「幼馴染」という単語が持つイメージ通りの関係ではない。


 別に仲が悪いわけではない。今だってそうだ。かといって仲が良いわけでもない。


 小学生の俺にとって、秋野ヒマワリという人間は、一緒にワイワイと遊ぶ友達だった。それ以上でも以下でもなかった。

 けれど、男女というのは難しいもので、中学校に進学し、自然と疎遠になった。まるで示し合わせたかのように。

 ヒマワリが髪を伸ばし始めたころだっただろうか。

 俺は数少ない男友達とばかり話すようになり、ヒマワリは女友達とばかり交流を持つようになった。


 よくある話だ。


 だから、俺にとってのヒマワリは、「小さい頃仲良くしていた隣の同い年の女子」というだけの存在だ。

 俺の想い人の妹である、というたった一点を除けば。


 ユリカさんと、ヒマワリはまるで対照的なな姉妹だった。


 優しくいつも微笑んでいる、艷やかなロングヘアが特徴的なユリカさん。

 身体も女性的で、母性を感じさせるというかなんというか。とにかく俺の理想だ。


 一方、活発で、ズケズケとした物言いが、自然と周囲から遠慮というものを取っ払っていくヒマワリ。

 身体は機能美を思わせるような、スラリとしたもので、女性らしさというものを感じさせない。ああいのうが好きな男も……、いるこたいるのだろう。

 顔は整っており、むしろ美人にカテゴライズされる方だし。


 そんな、見た目も性格も正反対な二人を並べて、姉妹だなんて、誰も初見では言い当てられないだろう。


 とにかく。そういうわけで、ヒマワリという幼馴染の存在は、俺にとって路傍の石であると断ずることはできない。

 将を射んと欲すれば云々、ではないが、しかし妹であるヒマワリが俺に悪感情を持てば、それがユリカさんに届きかねない。


「ヨウの部屋に通してるからね」

「ああ」


 久しぶりに腰を据えて話す、というシチュエーションがなにとなく僅かな緊張を誘うが、逃げ出したくなるほど大仰なものでもない。

 俺は階段を昇り、自分の部屋のドアを開けた。


「よっ。ひっさしぶり~」


 目に飛び込んだのは、ベッドに背中をもたれ、本棚から勝手に取り出したのであろう漫画から目線を上げた幼馴染の姿だった。

 記憶と比較して、その姿はずいぶんと違う。しかし、俺に投げかけた声の調子だけは小学生の頃の、あのままだった。


 いや、勿論別に全然顔を合わせてないわけじゃない。

 だから、見た目が変わっていることなんて理解しているし、今のヒマワリの姿もちゃんと把握している。驚くような感情はない。

 ただ、記憶と現実だけが剥離している。それがどこか気持ち悪かった。


 だけど、まぁ。こうして改めて見ると、ヒマワリも女だったんだな、と思い知らされる。


 可愛いと評判の霧口女子校の制服に身を包み、栗色のボブカットは緩やかに内側に巻かれている。

 元々整っていた顔は、ずいぶんと端正な顔立ちになっていて、子供の頃の日焼けとそばかすが嘘みたいな、真っ白で絹のような肌だ。


 まぁ、だからどうという話ではないのだけれど。


「お~。いきなりどうした?」


 カバンを部屋の壁にかけ、椅子に座りながらヒマワリを見る。


「あー、うーん……っとねぇ」


 漫画を床に置いて、ヒマワリが苦笑いをした。

 ヒマワリのこういう顔は珍しい。もっともそれは小学生のヒマワリだったら、の話なのだが。


「なんだよ。奥歯に物が挟まったみたいに……。わざわざ家まで押しかけるんだからそれなりの用事なんじゃないのか?」

「いや、そうなんだけどねぇ……。改めてヨウを目の前にすると、覚悟が足りなかったかな、って」

「覚悟ってなんだよ。そんな大事な話するために来たのかよ?」


 覚悟なんて大層な単語が飛び出てくるとは思わなかった。

 ずっと借りっぱなしになってたなにかを返してもらいに来た、とかそういうんじゃないのか。

 いや、心当たりはまるでないんだけどさ。


「うん。大事な話」


 ヒマワリが神妙な顔をする。

 しかし、こいつがする大事な話ってのはなんなのだろう。

 俺は真面目な顔でヒマワリに向き合った。


 しかし、それも数秒。気まずそうに「うー、あー」とかうめき声を漏らしてから、ヒマワリが申し訳無さそうな顔で言った。


「あー! ごめんっ! ヨウ! やっぱ、すぐには無理っ! ちょっと適当に雑談振って!」

「なんだよ……それ」


 まぁ、しょうがない。雑談、雑談……。


「ところで、ヒマワリ。ユリカさんはうまくやってる?」


 俺にとってヒマワリに聞きたい話というのはそれしかない。したがって必然的に、話題はユリカさんのことになる。


 時間が止まった。


「あー、うん。ヨウなら、お姉ちゃんの話もするよねぇ」

「は? いや、そりゃ。お前だって知ってるだろ?」


 何を隠そう、こいつには俺がユリカさんを好きなことを話している。疎遠になる前だからだいぶ昔の話だが。


「盲点だったぁ~!」

「いや、お前、どういうことだよ」

「シャラップ! 何も聞くなっ!」


 様子がおかしい。いや、こいつの最近の普段の様子なんて知らない。だけれど、それでもわかる様子のおかしさだ。

 何を言いに来た? まさか、ユリカさんに関することか?


「ねぇ、ヨウ」


 あれこれ思考を巡らせていると、いつの間にか立ち上がっていたヒマワリが俺の目の前にいた。


「まだ、お姉ちゃんのこと好き?」

「はぁ? なんだよ、いきなり」

「いいから」


 話をはぐらかそうともしたがヒマワリの圧力に俺は屈した。


「そりゃ……まぁ」


 ばつが悪くなり、鼻を掻く。

 そんな俺に向かって、ヒマワリが鼻を鳴らして、とんでもないことを言い出した。


「じゃあ、お姉ちゃんに告白して」

「は?」

「今すぐ。今日」

「なんでだよ」


 いやいやいや。まじでなんでだよ。


「お願い。それにこれはヨウのためでもあるんだよ?」

「俺のためって……」


 告白する。それ自体に否はない。俺はユリカさんを諦めるつもりはない。

 だが、今日、今すぐ、となると話は別だ。


 俺は高校生。ユリカさんは社会人。

 きっとユリカさんにとって俺は所詮子供で、今「好きです」なんて言っても、どうにもならない。


 だから、俺は良い大学に入って、良い会社に就職して、誰に見せても自慢できるような男になってから、ユリカさんを迎えに行くと決めたのだ。


「いや、無茶言うな」

「ほんっとーに! お願い!」

「無理だって! そもそも、しばらく話もしてなかったのに、いきなり来て言うことがそれかよ! 昔から考えなしだったけどよ! もうちょっと考えろ!」


 とっさに出た俺の言葉に、ヒマワリの顔から表情が消えた。


「……アタシだって、色々考えて、考えて、それでここに来たんだよ。確かにヨウからしたら考えなしかもしれない」

「ど、どういう……」

「ま、いいや。無茶は承知、ダメ元で来ただけだから」


 そう言って、ヒマワリが帰り支度を始める。


「お、おい。どういうことか説明して――」

「またね。ヨウ」


 帰り支度を終えたヒマワリが、ドアを開ける。

 そのまま歩を進めるかと思ったが、立ち止まり、ヒマワリは俺の顔を見た。

 一切の感情を感じさせない顔で。


「きっと後悔するからね。ヨウ」


 ドアが閉まる。


 後には静寂が残された。


「……どういうことだよ」



 §



 そんなことがあったのが、大体一ヶ月くらい前だった。そして現在に至り、俺は手に持ったティーカップから紅茶を飲むのも忘れ呆然とユリカさんの話を聞いている。


 母さんが自分のことのように喜色満面にあふれた顔で、ユリカさんに色々と訪ねる。


「本当におめでとう、ユリカちゃん。お相手は? どんなお方なの?」

「ありがとうございます。私が勤めている会社の取引先の方で」

「あらあら、まあまあ」


 父さんは嬉しそうな顔を隠しきれないまましかめっ面をし、変な顔になっている。


「ユリカちゃんは、ウチの娘と言っても過言ではないからな。しっかりした相手じゃないと。今度ウチにも連れてきなさい」


 いや、過言だ。どう考えても過言が過ぎる。

 しかし、ユリカさんも人ができている。嬉しそうに笑って、「今度彼と二人でお邪魔させていただきますね」とか言っている。


 俺はとうとういたたまれなくなって、ティーカップを煽って立ち上がる。今まで黙って話を聞いていた俺が突然動き出したからか、皆が三者三様に俺を見た。


「あら? どうしたの? ヨウ」

「いや、ちょっと用事を思い出して」


 嘘だ。用事なんてない。

 ただ、この場にいたくなかった。


「ヨウ君?」

「ユリカさん、せっかく来てくれたのにすみません。じゃ、俺はこのへんで」

「そ、そう?」


 ユリカさんに向かって無理やり頬を吊り上げて笑う。俺は今うまく笑えているだろうか? 引きつっていないだろうか。

 父さんも母さんも、勿論ユリカさんも、変に思うだろう。


 だけど、そんなことまで気にしてられない。


 俺は逃げるように、家を飛び出した。

 リビングを出るときに、母さんと父さんの、「あの子、どうしたのかしら?」、「さぁ」という会話が聞こえた。不審に思われたのは間違いないだろう。


 俺がユリカさんを好きだというのは、二人とも知っている。でも、きっと、二人の認識は「昔ヨウはユリカさんを好きだった」程度だ。

 俺がまだ初恋をずっとずっと大事に抱え続けているなんて、父さんも母さんも予想なんてしていないだろう。


 だから、俺が出ていった後に繰り広げられる会話も想像がつく。「そういえば、小さい頃のヨウは、ユリカちゃんのこと大好きだったわね」とかだろう。


 それが、たまらなく嫌だった。


 別に走ってないのに、息が乱れる。喘ぎながら、家を出て、門を出る。ふらふらと。


「後悔するって言ったでしょ?」


 突然かけられた声に、驚いて振り向く。


「ヒマワリ……」

「よっ」


 門の横に背中をもたれかけて立っていたヒマワリが、俺を見て片手を上げる。


「お前、知ってたのか」

「うん」

「なんで言わねぇんだよ」

「え~?」


 ヒマワリが形の良い顎に手を当てて考え込む。


「だって、ヨウさ。あの時、『お姉ちゃんが婚約間近だから、告白しろ』って言っても、何もしなかったでしょ?」

「そ、そりゃお前っ!」

「ま、言わなくても何もしなかったんだけどさ」


 こいつの予想は当たっている。

 確かにあの時ユリカさんが婚約するなんて聞いていたとして、だ。それで俺がユリカさんに告白するかと言われたらそれはノーだ。


 俺は確かにユリカさんが好きだ。

 でも、それ以上に彼女には幸せになってほしい。

 その、「幸せにする誰か」が俺でありたいと、強く願ってきたけれども。


「ね、ヨウ」

「……んだよ」

「今からウチ来てよ」

「は? なんでだよ」


 ヒマワリが訳知り顔で、そんなことを言う。こいつは何を考えているんだろうか。全く読めない。

 それだけ、俺はヒマワリとずっと交流がなかった。いや、原因はそんなことじゃないのかもしれない。


「作戦会議」

「なんの作戦だよ」

「ここでは言えないなぁ」


 ヒマワリがニヤリと笑う。けれども、そのニヤケ面に何故か真剣なものを感じた。

 そして、その「作戦」とやらが、どうせろくでもないことだというのも、なんとなく推測ができた。


 断るべきだ。そう思う。


 だけど、裏腹に、気づいたら、俺は言われるがままにヒマワリについていっていた。






 久しぶりに入る幼馴染の部屋は、記憶の中のそれとはまるで様変わりしていた。小学生の頃はヒーロー物のおもちゃやら、トレーディングカードなんかが散乱しており、女子の部屋という印象はまったくなかったものだが、そんな少年趣味なシロモノもさっぱり見つからない。

 暖色系のパステルカラーで揃えられたインテリアからは、まるで別人の部屋のような印象を受ける。まさしく女子の部屋という感じだ。唯一昔を彷彿とさせるものをあげるなら、部屋の一画に存在するゲーム機の山くらいだ。

 思春期を迎えて以来、初めて入る女の部屋に、思わずきょろきょろとしてしまう。

 なんというか、いい匂いがするし、小綺麗だし、可愛らしい小物がたくさんある。女の部屋ってこういう感じなんだな、と状況にそぐわない感想が胸の内を占めた。


 そんな俺をヒマワリが見咎めた。


「ヨウ、見すぎだっつーの」

「わ、悪い」

「ノンデリかよぉ~、まったく」


 俺をからかうように笑ってから、ヒマワリが「ん」と小さなテーブルの側に置かれたクッションを顎でしゃくる。

 俺は素直にそこに座った。


「でー……ですな」

「おう」


 ベッドに座ったヒマワリが俺を見つめる。


「お姉ちゃんの婚約者。鈴川トウジさんっていうんだけど」

「おう」


 鈴川とかいうやつなのか。どんなやつなんだろうか。

 俺は続けてヒマワリが話す言葉を待つ。


 しかし、ヒマワリは何やら難しい顔をしていた。


「おい」

「いや、アタシもちょっとこれ言うの勇気必要でさ」

「ここまで来てそれはねぇだろ」

「ごめんごめん」


 ヒマワリが、たはは、と頭をかきながらわらった。


「アタシ、鈴川さんが好きなの」


 今こいつなんつった?


「……は?」


 理解をするのに、数秒かかった。


「もー! 何回も言わせんなっ! アタシ、お姉ちゃんの婚約者が好きなの!」

「ちょ……待て……理解が追いつかねぇ」

「理解しろー!」


 つまりなんだ? 俺はユリカさんが好きで? ヒマワリはその婚約者が好き?

 どういう状況だよ。


「だからさ」


 ヒマワリがいかにも悪そうなことを考えている顔をする。


「お姉ちゃんの婚約、ぶっ壊そーぜ」

「いやいやいやいや。待て待て待て待て」


 ――それはまずいだろ。


 そんな言葉は、何故か口から出てきちゃくれなかった。

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