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「どこか、座れる場所で話しましょうか」


 できたら、春に話を聞かれない場所がいい。


 辺りを見回すと、エスカレーターのそばにあるキッズスペースが目に入る。ちょうどいい。春を遊ばせながら、ソファーに座って話ができるだろう。


「春、あそこでちょっと遊ぼうか」


 キッズスペースを指差すと、春はうなずいて、おもちゃを私に渡してくる。


「春も遊びたいみたい。いいですか?」


 将吾は返事をしないが、キッズスペースに向かう春についていく。不満はありそうだが、妥協してくれたのだろう。


 すぐにクッションのおもちゃを重ねて遊び始める春を眺めながら、私たちは隣り合わせにソファーへ腰かけた。


 しばらく、ふたりで静かに春を見守っていたが、将吾の腕が体に触れて顔をあげると、彼の視線が私に向けられていた。


 将吾は私より6歳年上の32歳で、鍛えるのが好きなたくましい体を持っている。頼りがいを感じる彼に寄り添う私。そして、子どもを見守る私たちは、どこにでもいるような幸せな夫婦に見えるだろう。


「どうして、こんなことになったんだろうな」


 と、将吾はぽつりとつぶやいた。


 彼と結婚すると決めたときは、私だって幸せな家族になれると思っていた。今でも、将吾が自分本位の感情をむき出しにしなければ、幸せな生活が送れていたかもしれないと思わずにはいられない。


 でも、それは違う。将吾との生活には自分の理想が何もなく、後悔ばかりだった。彼が見せるわずかな優しさに、理想の生活を期待するのは間違いだとわかっている。


「結婚するには、早かったんだと思います」

「羽純が俺を好きじゃなかったから?」


 彼は私を責めるように言う。


「お互いに……、だと思います」

「俺は好きだよ、羽純が。今でも」

「でも、春のいる私は好きじゃなかったですよね」

「そんなことはない。どう接したらいいかわからなかっただけだ」


 そんな程度ではないぐらいに、彼は春に無関心すぎたのに?


「今は、春に父親はいらないと思ってます」

「本当の父親が現れたら、やり直す気はあるんだろう? だから、俺と離婚したんだろう?」


 彼の問いにはため息が出る。それは何度も話したことなのに、少しもわかってもらえてなかったのだろう。


「それとこれとは関係ない話です」

「あの男、まだ羽純の近くにいるんだよな?」

「知りません」

「会ってない?」

「会ってません。……もし、会うことがあったとしても、もう関係ない人です」

「本当に?」


 将吾は何を心配してるんだろう。


「何が言いたいんですか?」

「羽純とやり直したいんだ。今度こそ、大切にする」

「無理です……。無理だったから、離婚したんですよ」


 結婚してから、どれほども一緒に暮らせなかった。ことごとく、私たちをないがしろにしてきたのに、なぜ、やり直せると思うのだろう。


「今すぐに結論を出せと言ってるわけじゃない」

「どんなに時間をかけても、答えは変わらないです」


 将吾は私に向き合うと、指先に触れてくる。ビクッと震えたことに気づいたはずなのに、かまわず握りしめてくる。


「だったら、親権だけでも俺に持たせてくれないか。羽純と一緒に、春を育てていきたい」

「渡せるはずないじゃないですか」

「今度は、ちゃんと春に向き合うよ。俺は春に嫉妬してたんだ。羽純が生まれたばかりの春に夢中だったから」

「嫉妬?」


 そんなはずない。春が生まれたとき、将吾は私たちの生活に無関心だった。全然、春や私の気持ちに寄り添ってくれなかった。


「そうだ。羽純が急に実家へ戻ったとき、すぐに帰ってくると思って待ってたんだ。それなのに、いきなり離婚を突きつけられた俺の気持ちも考えてほしい」

「私たちに関心があるなら、実家に迎えに来てくれたはずだと思います」

「迎えに来てほしかったか?」


 私は無言になる。それは否だからだ。将吾がどんな行動を取ろうと、離婚の意思は揺らがなかっただろう。


「俺たちの気持ちはずっと一方通行だよな。結婚したときも離婚したときも」

「それは申し訳なかったと思ってます」

「羽純が俺を好きじゃないのはわかってて結婚したんだ。謝罪なんていらない。ただ俺は、離婚したくなかった。周りの説得で承諾するしかなかった。今度こそ、お互いの気持ちを確かめ合いたい。だから、もう一度やり直すチャンスを与えてほしい」

「……やめて」


 小さな声を吐き出すと、こちらに戻ってくる春に気づいて、将吾の手をふりほどいた。


「羽純」

「ごめんなさい。今日はこのまま帰ります」


 春を抱き上げ、彼に背を向けたまま言うと、「また連絡する」という言葉とともに、遠ざかる足音が聞こえた。

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