第49話 因果応報

《三人称視点》


 ドクンと、心臓が不自然に波打つ。

 次の瞬間、君塚の視界がぐにゃりと歪んだ。

 、君塚の身体が平衡感覚を失って床に崩れ落ちる。


「ぐぅっ、あっ!?」


 額からは、奇妙な汗が噴き出ていた。

 まるで、心の奥底にある“恐怖”の感情を、鷲づかみにされ、無理矢理引きずり出されるような感覚が君塚を襲う。

 感情には実体がないが故に、この不自然な状況に抗いようがない。


「あ、あ……」


 ブルブルと震えながら口をパクパクさせる君塚の視界に、例の魔王が映る。

 たったそれだけで、君塚の精神はガラスが砕けるように、軽くだが崩壊した。


「う、うわぁああああああああああああっ!!」


 もはや、一矢報いるという選択肢すら消えていた。

 君塚も、その取り巻き達も――唯一攻撃を受けていない潮江かやも含めて、全員が我先にとこの場から逃げ出す。


 幸い、他のエリアボスを除いて、このボス部屋だけは一度戦うために入ったら倒すまで出られないというような構造ではなかった。

 アリの群れにやられる弱ったカマキリが、路上でのたうちまわるかのように、彼等は死にものぐるいで扉を叩き開ける。

 そして、転がり出るように命からがら表へ脱出した。


「げほっごほっ……こ、これで助かる」

「し、死ぬかと思った……」


 取り巻き達は、口々にそんなことを言う。

 君塚もまた、額に気持ちの悪い汗をびっしりと浮かべて荒い息を吐いていた。


(な、なんなんだよ、あのバケモンはよぉ! 反則じゃねぇか……あんなのが裏ボスなんて聞いてねぇぞ! 俺じゃ勝てねぇ……ポイントバトルは、敗北に終わる! ちくしょう、チクショウ! この借りは、いつか必ず!)


 そんな風に思っていた君塚だったが、もう少し頭を働かせるべきだったのだ。

 他のボスは、一度ボス部屋に入ったら倒すまで出られないのに、このボスだけは例外となるこの状況を。


 ヴェノム・キング・デーモンの雄叫びが、すぐ近くで聞こえる。

 本来、こんな近くで聞こえることなどないはずなのに。


(な、なんで――なぁ!?)


 反射的に今脱出した扉の方を見た君塚の表情が、一瞬にして凍り付いた。

 逃げ切ったはずだった。ボス部屋から逃げた時点で、状況はリセットされると思っていた。

 が――そもそも死なないことが前提のダンジョンで、そんな甘えが通用するのだろうか?

 その答えが、今ここにある現実だった。


 よりわかりやすく言えば、毒の魔王はボス部屋の扉を越えて、外に出てきたのだ。


「く、くそったれがぁあああああああああ!!」


 恨み節など、もはや言っている余裕などない。

 この恐怖から、少しでも安全に逃げる方法が知りたい。

 頭の中は、それだけだった。

 そして――元々倫理の欠けている人間が、保身のためにとった選択肢は、実に単純で胸くそ悪いものだった。


「そうだ、テメェが囮になってこい!」


 そう声をかけた先にいたのは、唯一まだ状態異常を受けていない潮江だった。


「は? い、嫌に決まってるでしょ。あんなのに挑むなんて、冗談じゃ――」

「うるせぇ! そもそもテメェがSSランクのアーチャーじゃねぇなら、使いようもねぇんだよ! 精々俺が逃げる時間を稼いでくれるくらいのことはしてくれなきゃ、採算が合わねぇ!」

「し、知らないわよ!」


 が、君塚は潮江の意見を聞いていなかった。

 厄災から自分の身を守ることしか頭にない。結局のところ、威張り散らしているだけの人間など、その程度であった。

 ただ、悪意のままに己が巻き込んだ少女の背中を突き飛ばし、厄災の生け贄にする。


(い、今のうちに――)


 そう思い、駆け出す君塚だったが。

 悪意を持つ者には、必ず制裁が下る。

 

 ――突き飛ばされた潮江は、そのままの勢いで毒の魔王を取り巻く瘴気に触れた。

 が、不幸中の幸いだと言えたのは、彼女のランクが低かったことだろう。

 瘴気に触れ、デバフの呪いを受けた彼女は、その場でアッサリと気を失ったのだ。苦しんだ時間は、ほんの一秒足らず。

 抵抗力が低いために、奇跡的に苦しみが長く続かなかった形だ。もっとも、


 ヴェノム・キング・デーモンは、無造作に潮江を拾い上げると、標的を固定した。

 ――彼女を斬り捨てた悪意の元凶、君塚賀谷斗へと。

 実は君塚を標的として襲うことにも、しっかりとした理由が存在した。


 ヴェノム・キング・デーモンは、人の負の感情に敏感に反応する。

 恐怖や悪意など、それらがより強い人間を好んで襲うのだ。

 そんな毒の魔王にとって、負の感情の塊である君塚は、ご馳走であった。


 ヴェノム・キング・デーモンの放った瘴気が、勢いよく君塚へと襲いかかる。


「な、なんでこっちに――がっ!」


 全身に瘴気を浴びた君塚の身体から力が抜け、たまらず膝を折る。

 筋弛緩の効果で、その場に倒れたのだ。

 そんな君塚の横を、取り巻き達が素通りして行く。


「な、何やってる! 俺を助けろ!」


 反射的にそう叫ぶが、既に恐慌状態に陥っている(従わされていただけの)従者達の心には届かなかった。

 

「じょ、冗談じゃない!」

「あんたみたいなののために、命張れるわけないだろ!」

「自業自得だって!」


 君塚賀谷斗は、見捨てられた。

 いや。とっくの昔に、自分からついてきている変わり者の2人を除き、全ての人間が彼を見限っていたことに、ようやく君塚賀谷斗は気付いた。


 彼はただ、恐怖で取り巻き達を縛っていただけ。

 その手綱を握るのが、より強い恐怖の象徴であるヴェノム・キング・デーモンに切り替わっただけの話。


「く、クソが! 待て! 俺を見捨て……うぐっ、ぐぅええ!」


 君塚の声に、呻き声のようなものが混じる。

 状態異常、吐き気&酩酊感。胃の中身をミキサーで丸ごとかき回されたような気持ち悪さに、たまらず悶絶する。


「も、もうゆるじでぐだざい……これ以上は、じ、死ぬ……」


 フラフラと立ち上がった君塚だったが、酩酊感のせいでまともに歩くことも敵わない。

 視界全体が飴細工のようにぐにゃりと歪み、地面を踏んでいるはずの足は、泥沼に足を取られているかのようであった。

 当然、数歩歩いただけでバランスを崩し、近くの壁に肩から激突する。


その瞬間、ただ肩をぶつけただけなのに、神経をズタズタに切り裂くような激痛が弾けた。


「ぎゃぁあああああああああああああああああっ!!」


 喉が割れんばかりの絶叫と共に、君塚は膝から崩れ落ちる。

 状態異常、感覚過敏。

 全身の神経の連絡パターンが狂わされ、ただ肩をぶつけただけで骨が粉々に砕け散るほどのダメージを受けたかのような錯覚を受ける。


 なまじAランクで耐性も高いために、すぐに気を失うことができない。

 地獄のような苦しみと、精神を砕かれるような恐怖が絶えず襲いかかる。


「ぁあああああああ! ひぃいいいいいいいっ!」


 ヴェノム・キング・デーモンの赤い瞳に睨まれた君塚は、両手を頭に当てて背中を丸め、悪夢を見た子どものように震えている。

顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。


「だ、誰か……俺を助けろ……いや、だずげでぐだざい。誰でもいいがら」


 命乞いをするかのように、そう呟くが――この場にはもう、誰もいない。

 ただ、静かな通路の先に飲み込まれていくのみだ。

 まさに、因果応報。

 今まで誰かを傷つけてきた分の報いが、彼に牙を剥いたのだった。



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