守護

小松加籟

守護


 わたしはいつも悲しい。わたしはいつも眠っている男の子を見守っている。彼は眠っているあいだ、夢を見ている。わたしは頸で話す、と云う個性を有する。頸で話す、と云う個性に、ついて言及してみると、(この記述は二人の女性が記している)頸の傷跡が何らかの原因だと思う。つまり、頸の自傷跡を愛らしいと思った女性が、右か左かに立って話す、或いは、肉体に重なって話している、というどちらかの可能性が高いように思う。

 わたしは、彼の可能性を楽しむ。

 「冷切」の覚え書きを、「葉明」の外、カクヨム等で発表するか、しないか、という名案クソ喰らえ。

 どうもタイトルやキャラクターのネーミングセンスを問われる場面が多いように思うけれども、確かにネーミングからインスピレーションや昂揚感を得ることは多々あるが、昂揚感とは、文学と音楽とに感じられる。つまり、一生を捧げると云うほどの、妖精の加護を得られる、とでも言えそうな技芸は、それに昂揚感を感じられるか否かにおもう。

 楽しければ永遠に続く、というカート・ヴァネガットの説だが、昂揚感云々の件は、わたしのオリジナリティーを十二分に感じられる。

 第一に、オリジナリティーがなければならない。

 次に、リーダビリティーがなければならない。

 次ぎには、セクシャリティーだが、性欲の昇華、という芸術の特性めいたこの人間の備える三大欲求すらひとの穢れた欲求と見て、花を添えるかのような審美上からも有るか無きかの、「光相」と述べておく。

 光相の定義は、死者が生者を見守ること、また、その様子。として考えられた特異な立場からの造語であり、定義づけをしたけれども、その二つ目として、性欲の昇華を云う。という物を考えた。

 100パーセント、というロマン。

 幽霊がPCに触れて、実際にインターネット等を行う、というあの世のロマンを、一般にノベライズと称するらしい。けれども、私見を言えば、文章化、という和製英語に過ぎないのでは? 

 ところで、日本語は漢字、ひらがな、カタカナで構成される。

 日本語で小説を書く、という日本人なら他愛ないこの創作が、私の知っている彼女たちにとって、他ならぬ夢だ。

 私小説とは、作者の蘇り乃至人生の疑似体験という読書家の意見だが、ここで私小説の定義はウィキペディアに村上の思想がチラリと伺える。そもそも上梓という社会的行為は極く一部のインテリ層のみ実現可能な立場上の優位性に依存気味の精神作用という毒舌が一ミリほどなくもないが、しかし、それは同時に、少女との共作、と云う一つの夢を叶える為の「理想」への意志として、且つ地球に棲む生物へのアプローチ、もう少し大きく言えば、宇宙の大いなる知性に対し、植物特有の感受性らしき「肉体」、という普通の意味で言えば、大きな一つの生命へ還る、というドルイドの処女性、魔術的な母性に魅かれ合う、という多次元的な意識の源流、けれどもこのような既に知られた雛鳥のようなネガティブな俗説よりも、個人的臆説をここに蛮勇を要しながらも申せば、全て地球の生命体は、世界に数人の天才により影響を甘受する。もう一歩進めて言えば、地球さえも数人の霊能者が地上の思想を変える、と今一つ控えめに申してみたけれども、めっちゃ天啓なんですけど、……。

 極めて少数の先天性の昂揚感の裡に呼吸をするかのようなグランジ的追憶……、要するに男性性の夢とは、ロリータ・コンプレックスという端的な極論に未だ足枷の如き幼女への憧憬、しかしこの日本人の変態性に、そこまで言及しない。

 ここに珈琲による文学性の向上、もう少し言えば神経活性化作用が脳に達する、という脳科学的見地から申してみても、ここで偶然にも触れた科白的な要素を孕む文体。

 文体によるくちづけ。

 女性的な肉体を感じさせる、一般的に言っても五感による文章作成術、それは逆説的に女性ならば、男性的な逞しさ、知的さを感じさせる文章が理想だと感じられるけれども、既記に、更に言えば、花びらのようなくちびる、このような審美眼からも瞑想させ得る、乃至文章の受肉とでも云わば霊肉の叙情的表現。表現力の向上など、申すまでもないが、川端康成が「文章讀本」で述べたように、『読み書き』による向上心の刺激、其精神的な前向きさの真実の海辺を遊泳する、と云う唯一つだ。

 読書が魂の糧、という一出版社の社説に拘る必要も感じないが、及ばずながら申せば、非常に丁寧な敬語体に折柄挿しはさむギャル語染みた若者言葉、これが文体的教養、と三島風に名付けてもいいが、このような意義づけが、ガスった雪山を滑走するスノーボーダーの操縦するボードのようなものだろうか。

 あたしたちなら、(ここで唐突にみんなが登場)若い女性の言葉遣いと云う文体が、めちゃんこイイ感じ。

 手書きに依る小説の神髄が清書だと安物に記したけれども、大海を鬼神が通すならば、先ず、書物を忘るる勿れ、という箴言が明晰派の手数の一つに数え得る。

 更に言えば、名は体を表す、という名言の示す通り、寧、体は名を表すという逆手が在るが、数学者がぽつりと呟いた知情意という語彙力とか云う魔法の名の許に、物書きの語源は、者、という妖物に由来するけれども、真偽は定かではないとしても、小説は、丸谷才一に依れば、大掛かりな嘘、と定義されるけれども、私見では、小説家とは、真実の殉職者だ。

 小説の入り口として、三島由紀夫の「不道徳教育講座」を読み、純文学のきっかけとなったけれども、一つ、あたしなら、言葉の魔力を感じる。

 心象風景が雨のち晴れ、と云う大樹の許に林檎の画を学生時代に描いたけれども、心技体が文武両道の片割れだとしたら、心技体がそれぞれダブルミーニングだと捉える遊び心が微かながら雲の裂目を太陽がちらッと覘くという光景が、心理的に、脳裡にちらつきました。

 小説の真実として、話が進む度に面白さが持続するかと云えば、案外そうでもないとおもう。

 例えば、紙上の安全マージンとして、字のわからない時に、語彙の流れを削がない、という個人的技巧が無くもないが、言葉という道具を用いる際の女が水場に不意に現れたときのような修羅場に対し、魔法と物理、というファンタジーの基本を、徒に思い出せば、魔法とは言葉だ、という科白や呪文や地の文という人間の瞳に認識される文字から汲み取る情報が、況や継続とは力なり、という諺のように、力と魔力、というパラメータに置き換えると、ざらりと脳に来たものは、第六感を研ぎ澄ませば、常人より優れた能力を発揮する。

 

 

 

 

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