純白の羽に捧ぐ淡い夢

桜月夜宵

第1話 前編

夢を見ている。

あの人が私に微笑みかけて、私はあの人に抱きしめられる。

でも、分かってる。そんなのはただの夢だ。ただの幻像だ。

私の恋は、報われない。



「ーーみ‼︎香純‼︎起きなさい‼︎」

母の怒号で、春宮香純は夢から引き戻された。

「あと5分……」

「今何時だと思ってるの‼︎」

甲高い声に耐えかねて、香純はベッドから身を起こした。ドアの前には、目を吊り上げて仁王立ちする母がいる。

「何時って……」

時計に目をやると7時だった。

7時。……7時?

急に目が醒めた。7時ということは、あと30分で着替えて、ご飯を食べて、髪をセットしなくてはならない。

いつもより1時間も寝坊だ。

呆然としていると母は声を和らげた。

「香純が寝坊なんて珍しいわね。今日は車で送ってあげるわよ」

そう言って母は階下へ戻っていった。

「早く私も着替えないと……ん?」

ふと、床に白い羽根が落ちているのが目に入った。この世の白を全て煮詰めたような美しい白。

「綺麗……だけど、どうしてこんなものが」

しばし迷ったが、時間がないことを思い出した。窓を開けてその羽根を外に放り投げる。蒼い空に、純白の羽根がよく映えていた。


結局、母が送ってくれたので、学校の始業には間に合った。

「おはよ、香純‼︎」

「おはよう、莉央奈」

莉央奈は香純の同級生だ。小学校一年生から高校二年生の今に至るまで、莉央奈はずっと香純の親友で、最大の理解者で居てくれている。

莉央奈の明るさに、香純は何度救われたことか。

「そうだ、香純は知ってる?」

「……何を?」

首を傾げると、莉央奈はニンマリ笑って囁いた。

「最近ね、ここら辺の地域にも後天性心理異常症候群の人、増えてるんだって」

「……」

『後天性心理異常症候群』。正式名称は小難しい感じだが、一般的には『奇病』と呼ばれている。簡単に言えば、精神的なストレスが悪化して、身体的にも何らかの異常が出る病気だ。人によって症状は異なるが、最悪の場合命を落とすこともある。また、噂では感染性だとか。

「……罹った人にとってはたまったものじゃないんだから、そうやって茶化すのはどうかと思う」

「え〜、ノリ悪いなあ」

莉央奈は口を尖らせた。

「だってほら、身体から花が咲いたり、宝石の涙を流したりするんでしょ?ちょっとくらい見てみたいじゃん」

「それは……否定はしないけど」

莉央奈は昔からこうだ。ちょっと倫理観というか道徳心というかが欠けている。

ただ、控えめでおとなしい香純と、軽いようで色々考えている莉央奈だからこそ、今まで仲良くやってこられたのかもしれない。莉央奈が持ってきてくれるゴシップは、香純の良い刺激になる。

「……それで?その、『ここら辺の地域の人』の症例は?」

「ん〜?やっぱり香純も興味あんじゃ〜ん」

莉央奈は嬉しげに抱きついてきた。

無理矢理引き剥がしても莉央奈はまだ嬉しそうに笑っていた。

「私が聞いたのは『歯車病』だったかな。手の甲に歯車の模様が浮かんだんだって。日に日に若返ってるらしいよ。ーー記憶ごと」

最後の一言で、香純は顔を曇らせた。

「可哀想……」

「最近は、奇病のバリエーションも豊富になってきてるからね。早く特効薬が出来れば良いけど」

そう、この後天性心理異常症候群に特定の薬はない。基本的にストレスの原因がなくなれば治るというが、大体が原因を取り除けないくらい拗れてから発症する。

例えばーーフラれる、もっと酷いものだと家族を亡くしたことで発症する人もいる。

幸い、まだ香純達の周りに罹患者はいないが。

香純が昏くなったのを察してか、莉央奈は明るい声で続けた。

「他にもね、夢幻病っていうのも聞いてーー」


キーンコーンカーンコーン


「あらら。もう授業始まっちゃうのか。最初古典だっけ?」

「そうだね。テストあるよ」

「ギャン」

顔を顰めた莉央奈は、そそくさと席に戻っていった。


授業中。

「ーーは、……であり、〜〜なので」

(眠い)

香純は、異常な程の眠気に襲われていた。授業の内容が、一切頭に入ってこない。

(頭が……ふわふわする)

「春宮ー、大丈夫かー」

どこか遠くから声がする。

「春宮?大丈夫か?どこか具合でも悪いか?」

(うるさいな……)

誰の声かも分からない。

眠い、眠い、眠い。

何か大きな音がした気がするけど、気のせいか。



「香純‼︎」

香純がガタンと倒れた瞬間、莉央奈は短い悲鳴混じりの声を上げた。

「香純、香純‼︎」

慌てて香純に駆け寄る。周りも騒ぎ始めた。

「香純……寝てる?」

激しく頭を打ちつけただろうに、香純は穏やかな寝息を立てていた。

莉央奈はサッと青ざめる。

「せ、先生。香純がーー」

「落ち着け神崎。寝てるだけだ。疲れてたんじゃないか?」

「でも......!もし奇病だったら‼︎」

半泣きになりながら莉央奈は香純を抱きしめた。

莉央奈の心配をよそに香純はスヤスヤと寝ている。

そこに一人の男子生徒が駆け寄った。

「莉央奈。とりあえず保健室に運ぼう。手伝ってくれ」

「わ、わかった。ありがと竜胆」

降谷竜胆。

香純と莉央奈の幼馴染だ。高校生になった今でも、親しくしている。

竜胆はヒョイッと香純を抱き上げた。それもお姫様抱っこ。

周りから、茶化すような声が洩れる。

「……ちょっと。見せ物じゃないんだから茶化さないで」

莉央奈は切れ長の目をスッと細めて竜胆と共に教室を出て行った。



「ここは……どこ?」

真っ青な空間に香純は一人立ち尽くしていた。

「莉央奈……どこ?」

どこまでもどこまでも、空のような海のような青い空間が続くだけ。

『貴方の……は』

どこからか微かに声がする。

『貴方の願いは、何ですか』

今度ははっきり聞こえた。透き通った綺麗な声。

「私の願い……?」

『えぇ……。貴方の、願いは?』

「……」

不意に、白い羽根が視界に入った。

「……あの人のことが、好き」

そう呟くと、声の主は笑ったようだった。

『貴方の願いが、どうか叶いますように』

そのまま、香純の世界は白く塗りつぶされた。


しばらくして、香純はクリーム色の天井を見た。

「……⁇こ、こは……」

呟くと、近くで気配がした。

「香純……?莉央奈!香純が起きた!」

「りんどう……?りおな……?」

ゆっくりと身体を起こすと、泣きそうな莉央奈とホッとした表情の竜胆が目に入った。

「あぁ、良かった!もう目を覚まさなかったらどうしようって……‼︎」

「大袈裟だよ……」

抱きついてくる莉央奈の頭を撫でる。

「いや、お前は本当に一回俺らに謝れ」

竜胆がやれやれといった様子で肩をすくめる。

「お前、5時間近くずっと寝てたんだからな?莉央奈はもちろんだけど、俺だって心配した」

(5時間……?そんなに寝てたんだ)

「ごめんなさい……ありがッ⁈」

お礼を言おうとした時、不意に背中に激痛が走った。

「っ⁈〜〜ッ‼︎」

身体が燃えるように痛む。

「香純、香純しっかりして‼︎」

「あ、先生‼︎先生呼んでくる!」

竜胆が席を立とうとした時。


バサッ


もう今日何度目かも分からない、白い羽根が目に入った。

部屋の中を、大量に舞っている。

「……香純」

背中の痛みは消えていた。目の前の二人は、呆然と香純を見つめている。

「……莉央奈?竜胆?」

二人は同時に、『天使』と呟いた。

「……天使?」

首を傾げると、不意に、白い翼が目に入った。

自分の腕を背中に回す。その翼は、確かに自分の背中から生えていた。

「……き」

沈黙を破ったのは莉央奈だった。

「……奇病の一種に、『天使病』っていうのがある。なぜか、若い女性が発症しやすいんだって。……願いが叶わなければ、いずれ天に連れてかれるっていう症状」

莉央奈は顔を手で覆った。

「ごめんね……香純」

「なんで、莉央奈が謝るの?」

香純は思ったより冷静だった。

(私の願い……は、きっと…………竜胆に想われたいってことなんだろうな)

竜胆は香純の想い人。

優しくて、いつも気にかけてくれる彼のことが好き。もう何年も、彼に想いを寄せている。

けれど、きっとこの願いは叶わない。だって香純は、彼に告白する勇気すら持ち合わせていないのだから。

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