いきかえり

萩谷章

いきかえり

 引っ越しを二週間後に控えた今夜になって、俺はその準備に不備があったことを思い出した。勢いよくソファから立ち上がったことで、隣に座って参考書を眺めていた弟がバランスを崩して倒れた。

「何だよ。集中してたのに」

「すっかり忘れてた。布団を洗いに行かないと」

「布団?」

「引っ越すときに布団持っていくんだよ。洗ってから段ボールに詰めようと思ってたんだ」

「へえ」

 両親は既に眠ったにもかかわらず、俺は少しも気を遣うことなく家のなかをどたばたと走りまわり、布団を入れる大きなバッグと財布、そして車のキーを手元に集めた。最後に布団をバッグに詰め込み、俺は弟に宣言した。

「ちょっと行ってくる」

「今日はもう遅いでしょ」

 弟は午後十時半を示す時計を見て言った。

「思い出したときにやらないと、すぐ忘れるんだよ俺は」


 カーディガンを羽織り、俺は家を出た。二月が終わったばかりの時季で、吹く風はまだ鋭かった。

 コインランドリーには十五分ほどで着いた。空いている洗濯機は思いのほか少なく、深夜に自分ひとりだけという特別感は急激に薄れていった。

 ありったけの力でバッグから布団を取り出し、腕を大きく広げて洗濯機に入れた。乾燥まで含めると一時間ほどかかるらしい。

「暇になるなあ」

 家に帰ったところですることもないし、どこかでくつろごうにも周囲の店はほとんど閉まっている。俺はとりあえず近くのコンビニへ行き、缶コーヒーを買った。度を過ぎて温められたコーヒーは、どうにも味が分かりにくい。舌をやけどしないようにちびちび飲みながら、缶コーヒー一本ではどうやっても一時間はもたないことに気づいた。やや眠気もあるなかであれこれと考えるのも面倒になり、俺は結局、最も単純な答えを出した。

「深夜ドライブだな」

 コーヒーを飲みながら、ほとんど誰もいない深夜の道をすっ飛ばしてみることにした。


 計画性をまったく備えていない俺は、どこで折り返せばおおよそ一時間になるかを考えずにひたすらまっすぐ車を走らせた。

 やがて、周囲の景色から建物が減ってきて、木々が増えてきた。コンビニを見かける間隔も広くなり、いよいよどこで折り返したものか難しくなってきた。早めに引き返せばいいものを、俺は「まだいける」と走り続けた。

 何も考えずアクセルを踏み続けるうちに、今度は道端に雪を見かけるようになってきた。だんだんと、山奥へ近づいていたのである。ついに俺は焦りを覚えた。

「そろそろ戻るか……」

 しかし、折り返せそうな場所はなかなか見つからなかった。そうでなくとも、どこかの交差点で曲がってみればいいのに、臆病な俺はそれができなかった。

 雪はさらに深くなってきて、ついに道路が真っ白になった。時計を見ると、何たることか洗濯機に布団を入れてから一時間半も経っている。

「こりゃまずい」

 俺は意を決してハンドルを右へ切った。街灯もない真っ暗な山奥の雪道で折り返し、来た道を戻ることにしたのである。戻りながら、あまりにも遠くへ来ていたことを実感した。

 しばらく走っているうちに、大きな案内標識のある交差点へたどり着いた。そういえば、来るときに「このへんで右折しておこうかな」とか考えていた場所である。とかく頭の悪い俺は、何を思ったか「深夜の冒険だ」とつぶやいて左折した。洗濯を始めてから二時間が経過していた。


 左折した先は深い山であった。急カーブが多く、緊張が絶えなかった。窓の外には木々を除いてほかに何も見えず、退屈な運転が続いた。三十分ほど走ると、突然視界が開け、まっすぐな道になった。ちらほら民家も見え、俺は強い安心感に包まれた。ところが、このまっすぐな道も短く、しばらく走ると再び急カーブの多い山道へ入った。

「いつになったら出られるんだ、これ」

 ぶつくさ言いながら、俺はせわしくハンドルを右へ左へと切り続けた。もはや永遠に走り続けなければいけないのかと覚悟したとき、あまりにも突然山道が途切れた。道幅の広い大通りのある交差点が出現したのである。

 俺は大きなため息をつき、久方ぶりの信号機に感動した。赤信号だったので、少しばかりの休憩である。改めて周囲を見まわしてみると、大いに見覚えのある景色であることが分かった。

「じいちゃんとばあちゃんの家が近いな」

 母方の祖父母は、既に他界していた。とはいえ、祖母の方は一昨年亡くなったばかりで、俺は未だに遊びに行けば会える気がしていた。どこまでも計画性のない俺は、空き家になった祖父母の家へ行ってみることにした。

 十分ほど車を走らせると到着した。当然のことながら灯りはついていない。

「そりゃあそうか」

 山道の運転による緊張で減っていなかった缶コーヒーをひと口飲んで、俺は車を転回させた。再びシフトレバーをドライブへ入れ、アクセルを踏みながら祖父母の家を目に焼きつけようとすると、数十秒前とはまったく違う光景が視界に飛び込んできた。

 窓からは薄いオレンジ色の光が漏れ、障子越しに人影がふたつ見えたのである。俺は慌ててブレーキを踏み、その光景をじっと見続けた。いつまで経っても灯りは消えない。幻覚ではないようである。俺は車を停め、勢いよくドアを開けて玄関へと走った。

 大きな引き戸を開け、靴もそろえず居間を目指した。

「じいちゃん、ばあちゃん」

 半ば叫ぶように声を上げて居間へ飛び込むと、祖父母はこたつに入ってテレビを眺めていた。突然の来訪にいささか驚いた顔を見せたが、俺と分かると相好を崩した。祖父は無口なので、先に話し出すのは決まって祖母である。

「ヒロカズか、よく来たなあ」

「ばあちゃん」

 俺は泣いていた。祖母に抱きつき、しばらくぶりの再会を噛みしめた。ひとしきり泣いたあと、祖母が口を開いた。

「ヒロカズ、大阪へ行くんだって?」

 俺は祖母から手を離し、向かい合って正座した。

「そうなんだよ。地元を離れるのは結構さみしいよ」

 俺は大学を卒業後、大阪にある会社へ就職する予定であった。ずっと実家で過ごしてきた俺にとって、あまりにも大きな環境の変化が起ころうとしていたのである。

「ヒロカズなら大丈夫。どこだってやっていけるよ」

「そうかなあ」

「自信を持つことだよ。いつ引っ越すんだい」

「再来週だよ」

「そうかい。しばらく会えなくなるねえ」

「ほんと、さみしいよ」

 俺がそう言ってうなだれると、祖父が口を開いた。

「漬物、持っていくか」

「え」

 祖父が作る白菜の塩漬けは、俺の好物だった。祖父が亡くなり、作り方を聞いておけばよかったと強く後悔したものである。

「あるの、白菜」

「いくらでもある」

「大阪に行ってからも食べたいからさ、あとで作り方教えてよ」

「紙に書いて渡してやる」

 祖父はどっこいしょ、と腰を上げて居間を出ていった。五分ほどすると戻ってきて、その手には漬物をいっぱいに詰め込んだ大きなタッパーがあった。ぶっきらぼうにほれ、と漬物を俺に渡し、作り方をチラシの裏に書き始めた。祖母が俺に向かって小さな声で「よかったなあ」と言った。俺は大きくうなずいた。

 祖父が書いているのを、二人でじっと眺めていた。三分ほどして書き終えて頭を上げ、ようやく祖父は俺たちにじっと眺められていたのに気づいた。

「なんだ」

「ヒロカズが喜んでるよ」

「そんなに好きなのか、白菜」

「うん」

 俺が笑いながらうなずくと、祖母が何かに気づいたように目を大きく開いた。

「ヒロカズ」

「うん」

「初めての一人暮らしだろう」

「そうだよ」

「ご飯はしっかり食べるんだよ」

「分かってるよ、白菜の漬物があれば食べ損ねるってことはないね」

「漬物だけじゃいけないよ。肉やら魚やら、色々と食べて栄養を摂ること」

「大丈夫だよ」

「それから、部屋の掃除はなまけちゃだめ」

「掃除?」

「そう。自分の身のまわりを常に綺麗にしておかないと、心が綺麗にならない」

「へえ」

「そういうものなのよ。洗い物や洗濯物を溜め込むのもよくない。汚れを放っておくと、ろくなことにならないよ」

「分かった。分かったよ」

 説教じみたことを言われても、うっとうしさは少しもなかった。「ばあちゃんが言うからには、そうしておこう」とすんなり受け入れた。

「俺、物事を後回しにしがちだから気をつけないと」

「そうした方がいい」

「掃除、洗い物、洗濯ね……。確かに溜め込むと面倒だ」

 そこで、俺は重大なことに気づいた。勢いよく顔を上げ、居間にかかっている時計を見た。しかし、それはあてにならなかった。正午を示して少しも動いていなかったのである。スマホを取り出して時間を確認したが、これも正午。

 俺はこたつから足を出して立ち上がった。

「じいちゃん、ばあちゃん。俺行かないと」

 祖父母は「え」と声を上げ、続けて何かを言っていたようだったが、俺はそれをまともに聞くことなく玄関を飛び出した。

 車に乗り込んでエンジンをかけると、デジタル時計は深夜の二時半を示していた。心のなかで祖父母に対して「ごめん」と何度も言いながら、俺はアクセルを踏み込んだ。車は驚いたようにガタン、と発進した。

 一時間ほどかけてコインランドリーへ戻り、布団を取り出した。あまりにも長い時間、放置していた。俺は自分の計画性のなさを大いに反省するとともに、祖父母に対してまともな挨拶もなしに帰ってきたことを大いに後悔した。すっかり冷え切った缶コーヒーを飲み干し、アクセルをゆるやかに踏んで帰路についた。


 引っ越しの二日前、俺は祖父母の墓参りに行った。雲ひとつない晴れ方で、気持ち悪いほどだった。帰りながらこの間と同じように祖父母の家に寄ってみたが、当然人の気配はなかった。車から降りて窓をのぞいてみたが、さっぱりと片づけられていて生活感が一切ない。あの夜、ここで何が起こっていたのか。いくら考えても分からないが、とにかく祖父母との別れ方の後味が悪かったことだけが大いに悔やまれる。

 家に帰るまでの一時間の運転のお供に、コンビニに寄って缶コーヒーを買った。まだ上着が必要な程度には冷えるので、温かい方がいい。車に戻ってひと口飲み、ドリンクホルダーに置くと、ダッシュボードに一枚の紙きれがあるのに気づいた。

「何だこれ」

 手を伸ばして取ってみると、何やらチラシのようであった。薬局のものらしく、洗濯洗剤や食器用洗剤の写真が価格とともに印刷されていた。裏面に何か書いてあるのを読んでみると、上から順に「白菜」、「塩」とあり、その他調味料のたぐいが列挙されていた。他ならぬ、祖父の漬物の作り方であった。米印をつけて注意点などもまとめてあり、実に丁寧な書き方がされていた。しかし俺は読み込むことをせず、すぐにたたんで助手席に置いた。エンジンをかけ、再びコーヒーをひと口飲んでからシフトレバーを動かした。

「楽しみはあとにとっておくべし」

 俺の性格上、祖父母に大いに感謝こそすれ、この一連の出来事を解明しようとは考えない。

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いきかえり 萩谷章 @hagiyaakira

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