第30話(最終回) スターティング・オーヴァー

  十二月三十一日 水曜日

 午後四時半、空港ロビーに既に三枝記者の姿はあった。傍らにカメラマンを一人連れている。それを見下ろせる二階の喫茶で、五時まで待つ事にした。

 発着掲示盤の五番目に、六時五十五分発のJALがあった。俺とマナを新天地リヴァプールへ運ぶ。二枚の片道切符をポケットに確かめた。

 中学の時だったか、初めて女と待ち合わせた日の事を思い出した。本当に彼女が現れるか不安で胸が弾けた。なのに喫茶店で彼女を怒らせ、初デートはけんか別れに終わった。

 ここで待っているのは、その頃とまるで同じ少年だった。マナはどんな顔で現れ、最初に何と言うのだろうか。


 五時を回ったが、マナの姿は見えなかった。

 三枝が腕時計をのぞく間隔が忙しなくなった。それはそのまま俺の姿でもあった。

 搭乗手続きの開始を告げるアナウンスが流れる。掲示盤の文字が音を立てて入れ替わる。


 五時半。窓外の滑走路は真っ暗になったが、待ち人は現れない。

 三枝とカメラマンはベンチのある場所に移動した。俺はコーヒーを追加した。


 時計が六時に差しかかる頃、遂に三枝たちが立ち上がった。遠目にもいらつきが分かるような険しい顔をして、足早に出口に向かって消えた。

 俺は喫茶を出てロビーに降りた。公衆電話を探す。

 今さらながら、マナの部屋の電話さえ知らない事を悔いた。声音を変えて事務所にかける。

「あー、小林という者だが社長はいるかね。…えっ、レコード大賞?おたく、誰か出るの?…直木マナ。あ、そう…で、新人賞は獲れそうなの?…ふーん‥どうもありがとう」

 電話に出た若い男の応対に、ノミネート歌手が行方不明というような動揺は感じられなかった。


 六時二十分。リヴァプール便の搭乗が案内されていた。

 ロビーのテレビが、帝国劇場を映し出す。間もなく始まるレコード大賞の舞台裏。並ぶ新人賞候補。マナの顔が一瞬見える。

 搭乗を急かすウグイス嬢の声を後に、俺はタクシー乗り場に走った。



 運転手にTBSラジオをつけさせる。中継が始まっていた。司会の高橋圭三が、ドウモドウモと挨拶していた。

 追い越されるのが好きな運転手らしく、60キロ以上は出そうとしない。こんな時リュウが運転してくれれば。

 ラジオの中で新人賞の紹介が始まった。岩崎良美、河合奈保子に続いてマナが登場した。森光子の語りが入る。

「つらい事もありました。でも、見かけによらぬ強い生き方が多くの人達の支持を集めています。マナさん、頑張って!」

 いつも通りの歌声で『ゆれる想い』が始まる。マナの考えている事がわからなかった。なぜ、そこにいる‥

 都内に入った。「急げ!」運転手を怒鳴った。



 帝国劇場の入口をオノプロの社員証で通った。素早く扉を見つけ、劇場内に駆け込む。

 舞台の上には新人賞候補五人が並んでいた。右端に俯き加減のマナの姿が確認出来た。

「それでは発表致します。第二十二回輝く日本レコード大賞最優秀新人賞は‥」

 高橋圭三の声にドラが鳴る。封筒が開けられる。

「直木マナさんに決定しました!」

 沸き上がる場内。拍手の渦。

 マナは固まって、立ちすくんでいるように見えた。女性司会者に肩を抱かれて、少しよろめいた。

 通路から前に行こうとしたが、警備員に止められた。仕方なく、舞台から一番遠い所に立った。

 賞状とメダルと花束を受けて、マナは中央のマイクに立った。場内が静まり、マナの大きくついた息が後ろまで響く。

「どうも、ありがとうございます」

 かすれた声だったが、涙は含んでいない。表情が分からないのがもどかしい。

「スタッフとファンの皆さんに感謝します。そして、わたしを今まで育ててくれたお父さん、本当にありがとう‥」

 一瞬だが言葉が詰まる。

「お母さん。実は‥わたしの母は人を殺した罪で刑務所に入っていました。今はあるお寺で尼さんをしています。わたしが、それを知ったのはつい最近の事です」

 場内がざわめいて来る。マナは続ける。

「きっと母は見ていないと思います。でも、今のこの姿と言葉を伝えたいんです。お母さん、あなたの過去を憎んでいません。わたしはあなたの子です。ここまで来ました…」

 マナの言葉を掻き消すように『ゆれる想い』のイントロが流れ出す。マナはまだ話したい様子を残しながら歌に入る。

 新年のワイドショーと週刊誌は、この話題で持ち切りとなるだろう。自らの生い立ちを告白した事で、マナは潰れるのか、より支持を受けて大きくなるのか、想像がつかない。

 恐らく彼女は、どちらになってもそれに従うだろう。それが彼女の運命であり、彼女次第では大歌手になる素質もあるだろうし、普通の女性として生きるのもまたふさわしい。

 その運命は俺に託された筈だったのに、彼女は自身の手でこんな博打を企んでいた。いずれにせよ、彼女の人生にとって俺は不要という事だ。

 涙なしで歌い終わるマナを見ながら、扉を出て舞台裏に回った。


 九時から始まる紅白歌合戦の入場行進に間に合わせるため、レコード大賞出演者は自分の出番が終わるとすぐ、渋谷に車を走らせる。多くの者は着替えも車の中で済ませる。

 通用口へ続く廊下でマナを待った。すぐに彼女は現れた。言葉をかけようとして吸い込んだ息が、喉元で止まった。

 廊下に出て来たマナと、マネージャーの風間とが、一瞬だけ抱擁し合って唇を交すのをはっきりと目撃した。

 あわてて身を隠す俺の目の前を、人目を避けるようにあたりを見回しながら、今しがたの行為はなかったかのごとく普通のマネージャーとタレントの姿に戻った二人が通り過ぎた。

「誰かが見てたような気がするよ、風間」

「気のせいさ。案外憶病者だな君は」

「だって、あなたがクビになったら困っちゃうもの、わたし」

 それは男と女の会話だった。だが、この世界に住む俺にとって、さほど驚く風景ではなかった。

 急ぎ足で二人は消え、ボストン・バッグをぶら下げた俺が残った。全ての鳩が自分から飛び立って行く感覚を覚えた。



 大晦日の日比谷は人口が少なく、その分だけ耳に当たる風がきつい。

 チケットを破いて、寒風に投げた。日劇の前に雪のように舞う紙を見上げながら、俺は歌を口ずさんだ。

「幸せは歩いて来ない、だから歩いて行くんだね~」

 間もなく紅白歌合戦が始まる。マナは紅組のトップバッターを飾る。

 三時間前まで隣の座席で夢を語っていた女は、所詮シャボン玉に映った幻だった。リヴァプールで二人暮す小さな城も、夢の夢だった。

 彼女は遥か遠く芸能界という別界で今、喝采を浴びている。俺にとってそこはかつて近かったが、今は遠く届かなかった。


 かすかな鈴の音とともに、現在全米で最も売れているレコード、『スターティング・オーヴァー』の演奏が始まる。

 1980年。ポール・マッカートニーの逮捕に始まり、ジョン・レノンの射殺で終わった。山口百恵が引退し、松田聖子と直木マナがデビューした。俺はオノプロを辞めた。そんな年だ。


 そう、たまにはこんな年もある…


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