微熱
西野ゆう
Smiling Watch
「どいて! 道を開けなさい!」
降り積もる雪の色と同じ白い防寒着に身を包んだ警官たちが、野次馬をかき分けながら
野次馬には、ヒジャブを身に着けたムスリムの姿も多い。警官たちは、英語、ロシア語でも呼びかけながら無線で指示のあった場所へと向かって速足で進む。
警官たちの先頭を歩くイム・ハヌルが人ごみを抜けると、野次馬の輪の中心に薄っすらと雪を被っているが、遺体が横たわっているのが見えた。
警官たちは、野次馬たちからほんの一歩分だけ輪の内側に入った所で、輪を作った。
野次馬たちが遺体に近づいていないのは、法や規律を守ってのことではない。ただでさえ無残に命を奪われた遺体に近づこうとする者は少ないが、加えてこの雪だ。誰の目にも明らかな足跡を付けてしまう。
誰しも「私が近づきました」という証拠を残すのが嫌で、一定の距離を置いて近づかないのだ。
遺体の近くまでハッキリと伸びている足跡は、人間一人と小型犬二匹のものだけだ。引き返す足跡は人間だけのものになっていて、犬の足跡はない。騒ぐ犬を抱きかかえてその場を去る人間の姿がハヌルの瞼の裏に浮かんだ。
その足跡をハヌルが目で追うと、通報者と思われる中年女性が、二匹の犬と共に人ごみの外のベンチに腰かけているのが見えた。
「あの人が通報者ね。誰か話を聞いてきて」
ハヌルが雪の上でしゃがみながら指示を出すと、彼女の横に立っていた二人が「はい」と短く返事をしてベンチの方へ向かった。
しゃがんだハヌルは、薄くピンクのチークが塗られた頬を雪面に近づけ、雪の凹凸を観察した。自分が立っている場所から、浅い谷間を流れる川のように遺体に向かって凹んだ筋が見える。そして、その筋の上に足跡らしきものも確認できた。
「古い足跡は現場から去る一人分だけ。駐車場から遺体を引き摺って遺棄して、そのまま車の方に帰ったのね」
ハヌルが呟いていると、誰から指示されたわけでもなく、鑑識官たちが足跡の採取に動いた。
一旦遺体の重さで固められた雪の上に付いた足跡。新たに雪が降り積もったとしても、その新雪を除去すれば正確な形で採取できる可能性が高い。
ハヌルは足跡のない場所を選んで、一人の鑑識官と共に遺体に近づいた。
「全身焼かれている?」
遠目には雪に覆われて確認できなかったが、遺体は全身が赤黒く焼き爛れていた。
だが、詳しく検視するまでもなく、それが死因でないことは明らかだった。鋭い刃物で切られた喉も、焼かれていたからだ。
そして焼かれていたのは、肌の露出している部分に限られていた。衣類の袖口や襟元に一部焦げた跡があるが、皮膚の焼け方と比べたら微々たるものだ。
「バーナー、でしょうね」
鑑識官の言葉に、ハヌルも頷いた。
「だね。理由は分かんないけど」
鑑識官がピンセットで袖口を摘まんで少し上に捲ると、無傷の白い肌が露わになった。
「ロシア系ですかね」
「IDは?」
遺体の上着のポケットの中に、苦労せず見つけた財布には、車の免許書と、社員証、数枚のカードと現金が入っていた。
「シラロフ・アリモア、ウズベキスタン人ですね。骨格だけ見ると本人のようですが」
写真のシラロフはスキンヘッドで、遺体も髪が焼かれた形跡はない。鑑識官の意見と同じく、顔の骨格は写真と同一人物のようにハヌルの目にも映った。
「ん?」
「どうしたの?」
財布の中から折り畳まれた紙片を取り出した鑑識官が「どうも日本語のようですが」と首を傾げるのを見て、ハヌルはその紙を覗き見た。
「『九時十分。微熱あり』」
「イム刑事は日本語を専攻していたんですか?」
「ううん。友達がいてね、日本人の」
メモを目で追うハヌルの横顔を見て、鑑識官はなるほどと頷いて、ハヌルに見えやすいように紙片を開いた。
「『体温はこのちと同じ』って、この『ち』ってなんだろ?」
「『ち』の意味はイム刑事でも分からないんですか?」
「ひらがななのよ。『血』か『地』か。他の何かか」
その説明を聞いても何を言っているか理解できなかった鑑識官は、「九時十分」という時刻を聞いて、遺体が身に着けている腕時計を確認した。腕時計をしているだけでも今どき珍しいが、アナログの時計となると尚更だ。
プロスポーツ選手の腕以外では見ることの少なくなった腕時計を見て、鑑識官は眉間に皴を掘った。
「十時八分で止まってますね、この時計」
ハヌルはそう聞いて現在時刻を確認した。
午前八時四十分。
「遺体に積もった雪の量を見ても、その時間は」
「いや、そういうのも関係ないんです」
「どういうこと?」
言葉を途中で遮られたハヌルは、やや表情を険しくして鑑識官に訊いた。
「笑顔に見える形なんですよ」
「笑顔?」
「ええ。この時計の針の形がです。他にもブランドロゴが針で隠れないとか、単に見栄えがいいとか、そんな理由でディスプレイやパンフレットにはこの時刻を指す時計ばかり並んでいます」
ハヌルは自身よりも二回りほど年上に見える鑑識官を見て「年の功ね」と心中で呟いて頷いて見せた。
「でも、そうなると逆に特別な意味がまたありそうね」
しばらく二人でその腕時計を眺めていると、ハヌルがその腕時計の下の皮膚が焼かれていることに気が付いた。
「焼かれた後に腕時計を付けさせられたってことだね」
そう溢した後、ハヌルは自分のスマートフォンで遺体と腕時計、財布に入っていた日本語のメモを撮影し、現場を鑑識官たちに任せた。
キューバ、ロマノ島北部のロスガトスビーチ。その沖に浮かぶヨットで夕食を楽しんでいる日本人の探偵、キミハルのスマートフォンが、立て続けにメッセージを受信した。
「おいおい、随分賑やかだな」
ヨットの中のキッチンにエプロン姿で立つキミハルの友人のシルビオが、昼間に釣りあげた魚を捌く手を止めることなく、キミハルに目をやった。
そのキミハルは、メッセージを見た瞬間、嫌な表情を隠しもせず「おいおい」と嘆息した。
「なんだ、その様子だと美人さんからのメッセージじゃなさそうだな」
「いいや、美人さんからのメッセージだよ。それもかなりの」
「はあ? じゃあなんでそんな嫌な顔するんだよ」
包丁をシンクに置き、刻み終えた材料をオーブンに入れ、エプロンで手を拭きながら近づいてきたシルビオの目の前に、キミハルはメッセージの最初に送られてきた画像を突き付けた。
「おいおい」
その瞬間にシルビオもキミハルと同じ表情になった。
「これから焼き魚食うって時に、その写真はナシだぜ」
「それは僕に言わないで欲しいね。ハヌルに言ってくれよ」
「ハヌルって、あのイム・ハヌルか?」
その質問に頷いたキミハルを見て口笛を吹いたシルビオだったが、今見た画像を思い出してすぐさま真顔に戻った。
「で、あのお嬢さんがなんだって?」
「日本語のメッセージの意味が分からない。特に『ち』の意味が見当もつかないから知恵を貸してほしいってさ」
「ふむ、色気も何もないな。俺は飯の準備に戻る」
そう言ってシルビオは両肩を一度上げてキッチンへと戻っていった。
「どこからか運ばれてきた遺体。九時十分に微熱。時計は十時八分。体温はこの『ち』と同じ、か。なるほどね」
既に見えてきたものを確実にするために、キミハルはハヌルに正確な遺体の発見場所を訊いた。
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