第34話
普段パーテーションで仕切られているはずの階段の入口は、誰かが侵入したであろう形跡が見られた。
この先の空間の事を私はよく知らない。ただ、角度的に校庭の様子が一望できるであろうことは確かだった。それだけでも悪戯猫が迷い込むには十分すぎる理由だ。
階段を昇り切り重々しい扉に手をかける。鉄を引き摺る音を連れて、青い空が顔を覗かせる。風通しの良い屋上には、ぽつんと一つだけ影があった。
猫の頭に女子高校生の下半身という気持ち悪いシルエット。改めてあれを猫と判定していた佳乃ちゃんの想像力の豊かさに笑ってしまう。
学園祭であろうと、校舎に猫が忍び込むことなんてそうそうあることではないのだ。猫もどきは扉の音に気づき振り返った。
「おやぁ。さやちんどうしたのぉ?」
籠もった声が私に届いた。リアル志向な猫の被り物にカメラを携えた彼女は、とことことこちらに寄ってくる。
不安定に揺れる被り物が外れると、見知った顔が姿を現した。
「みちるこそ、こんなところで何してるの?」
「んー? 面白い物が落ちてないかと校庭をのんびり眺めてたよぉ」
猫の着ぐるみを小脇に抱え、青空に映える笑顔を向けたのは野花みちるだった。そして、黒幕として私が思いつく唯一の人物こそ彼女である。
知生が私に提示した黒幕の人物像はこうだ。
アキと文香の両方と面識があって、アキに並ぶほどクラスでの影響力が強く、そして何より小牧沙夜子の人物相関図をよく知っている人間。
そんなもの野花みちる以外に思いつくわけがない。上手く全てが繋がってくれたおかげで、心構えを終える前に彼女を見つけることが出来てしまった。
名前通り花のような笑顔を向ける彼女が黒幕だなんて、間違いであって欲しいことは確かだが、知生のためにもここで引くわけにはいかない。
私は近づいてくる彼女に一歩足を向ける。
「一つ聞いてもいい?」
「どうしたのさ改まって」
けらけらといつも通り笑う彼女は、どうしても黒幕のようには見えなかった。ギュッと手に力を込め、言葉を吐き出す。
「私に恨みとか、ある?」
「恨み? そんなものないよぉ」
「だよね」
ふっと肩から力が抜けた後、彼女の口が歪に曲がったのが見えた。
「ただぁ……。その口振りは何かに気がついてるんじゃないの? 言ってごらんよぉ」
私は人生で邪悪という言葉を使いたくなるような人物に出会ったことがない。
剣道部でのいざこざの時でさえ思い浮かばなかったし、その言葉を他人に対して使うこと自体が憚られるのだ。
しかし、目の前でこちらを見上げる彼女の笑みは、邪悪という言葉以外で表現しようがなかった。私の口は、反射的に言葉を吐いていた。
「みちるが黒幕なの?」
「やっぱりそういう話かぁ」
みちるの口角がさらに歪に上がる。歓喜のようで憎悪のようで、笑顔なのに感情が全く読み取れなかった。ただただ背中にじんわりと汗が浮かんだ。
少しの間の後、何が嬉しいのか、彼女はその場でくるくると回り始めた。けたけたという心底居心地の悪い笑みが、校庭から響く嬌声を遮る。
「あはっ。どこ? どこで気がついたの? バレないと思ったのになぁ。……さてはあの後輩ちゃんかぁ。時期が多少早まったけど、そろそろ潮時って感じー?」
方々を向きながら九官鳥のように言葉を吐き続ける彼女は、数秒間の回転の後再び私の目の前に歩み寄った。
「せいかぁい。私が黒幕よーん」
いつも通り口調で、彼女はあっさりとそう言った。じっとりと張り付くような視線が私の身を凍らせる。
アキには私達を妨害していた理由があった。それは私が意図せず育ててしまった感情が原因だったから、最終的には納得できた。
しかしながら、みちるに関しては本当にわからない。知生の推理通りでいけば、そのアキを影から動かしていたのが彼女ということになるのだから。
「詳しく説明してよ」
「怖い顔しないでよぉ。私はただ、みんなの背中を押しただけだよぉ?」
彼女は身を翻し、屋上を歩き始めた。鬱屈した空気に反して、空はどこまでも晴れ渡っていた。
青を背景に、彼女は順番に指を上げ始める。
「どこから説明してほしい? 照明のこと? アキのこと? それとも、ふーみんのこと? さやちんのこと?」
「文香? 私? なんの話をしてるの?」
「あぁ。そこは気づいてなかったんだ。余計なこと喋っちゃったぁ。ほぉんと私ったら間抜けだよねぇ」
わざとらしく自身の頭を小突いた彼女は、悪びれる様子もなく舌を出した。
何故ここで文香と私の名前が出てくるんだ。訳がわからない。困惑しながらも、私の頭にはしっかりと文香の言葉が蘇っていた。
「目が覚めたって感じ?」と文香は言っていた。思い返せばさっきアキもそんな事を言っていた気がする。
二人に共通するのは、私達に何かを仕掛けた時の自分自身の行動と、後日の思考に整合性がないという事。いわば自分が自分じゃなかったかのような違和感。
恐ろしい想像が私の脳をよぎった。
「まさか……。私達を操ってたって言いたいの?」
「操っていたっていう表現は正確じゃないし可愛くないけどぉ。ピンポーン! あったりー!」
求めていない肯定が返ってくる。そのせいで言葉が続かなくなってしまう。固まる私にみちるは言葉を続けた。
「私はねぇ、人の感情のベクトルを暗示でちょっぴり弄れちゃうの。わかりやすく言うと催眠術みたいな?」
「その暗示とやらで、みんなを動かしてたの?」
「いやいや、行動はあくまで本人の意思。私がやったのは、心のネガティヴをハッピーにするためのカウンセリングだよぉ。だから操ったっていうのは少し違うかもねぇ」
ひっそりと笑みを浮かべながら、みちるはこちらを向いた。ひたひたと這い寄る足音のように、言葉が近づいてきた。
「まずはさやちん。挫折して落ち込んでる気持ちをすこーし強めさせてもらった。そしてふーみん。さやちんに対しての引目をちょっぴり弄らせてもらった。アキは……嫉妬心を強めるだけで良かったからあっさりだったねぇ。照明はぁ、私からのサービスみたいな?」
飲食店で注文を繰り出すような気軽な様子でみちるは言葉を吐き続ける。
「でもびっくりしたよぉ。まさかアキが後輩ちゃんを階段から落とすだなんて思わなかったからねぇ。焦った焦った。予定外の作用があるって言うのは、今後の課題だねぇ」
「もういいわかった。要は全部みちるの仕業ってわけね」
とびきり良い事をした後のように、彼女はしっかりと頷きを返してきた。
決勝後に私が必要以上に沈み込んだのも、文香が突っかかってきたのも、アキのことも、全部彼女が手綱を握っていたのか。
というかそんな馬鹿な話があるか。どんな理由があって私の人間関係をぐちゃぐちゃにしてくれたんだ。私は彼女の恨みを買うようなことをしていない。
「どうしてそんなことしたの?」
目を細め彼女を上から睨みつける。彼女は怖気付く様子もなく言葉を続けた。
「さやちんはシャボン玉って好きぃ?」
「はあ? 好きも嫌いもないけど」
「私はねぇ。シャボン玉が割れる瞬間が好きなの。綺麗なものは壊れる瞬間が一番美しいんだよぉ。キラキラ輝いていたものが一瞬で崩れていく、私はそこに美を感じるの。芸術だよねぇ、わかるかなぁ?」
「わかんないよ……。何の話をしてるの?」
普段の彼女はこんな小難しい哲学めいた話を絶対にしない。笑顔を保ったまま、彼女は蒼天を指でなぞった。
「入学時のさやちんは、それはそれはもう煩いくらいに輝いていたよ。あれが壊れた時、どんな美しい姿が見られるんだろうってすぐに興味が湧いちゃった。だから心に隙ができた時、試しに少し指で弾いてあげたの。そしたら簡単に壊れちゃってさぁ! 見惚れちゃったなぁ。これだって思った。私の求めていた芸術がそこにはあったんだよぉ」
遠くを眺める彼女は、途端に知らない人のように見えた。大して寒くもないのに、私の両腕に鳥肌が浮き始める。彼女の言葉は続く。
「思いの外深く暗示が入っちゃって、さやちんはずっと沈みっぱなしだったねぇ。でもここ最近で徐々にあの頃の輝きを取り戻していたの。嬉しかったなぁ。もう一度壊れるところが見られるかもしれないんだもん。だからアキやふーみんの気持ちを利用して絶望させてやろうと思ったの。そして私自身が最後の仕掛けだよぉ。仲良く接していた奴に裏切られていた真実はどうかなぁ? 絶望してくれるぅ?」
バッドエンドをただただ眺めているような後味の悪さが絡み付いてくる。
彼女の動機は恨みでも僻みでもない。全ての発端は、壊れるまでが芸術だと言う彼女の美学にあったのだ。私には理解できそうにない。
要するにあれか。私を壊す為、文香もアキも弱った心を利用され、自分の主訴とはズレた行動をさせられていたというわけだ。
最初から私達は彼女のおもちゃとして扱われていたらしい。そして事実が明らかになって私がショックを受けることまでが筋書きなのだろう。私は抵抗する様に言葉を吐き出す。
「残念だったね。私はこの通り元気だよ。きっとこれからも、みちるの思い通りにはならない」
なんとなく一緒にいただけとは言え、私は彼女を深めの友達だと思っていた。正直言えばダメージは大きい。間違いであって欲しいと未だに思っているくらいだ。
しかし、ここで沈んでしまえばそれこそ彼女の思う壺。私は必死で知生の顔を思い浮かべ口を開いた。
「全く理解できないし、わけもわかんないけど、私はもう塞ぎ込んだりしない。弱い私自身にも、文香にも、アキにも、この数ヶ月があったから向き合うことが出来たんだから。感謝……は流石にできないけど、絶望なんてしてやらない」
じっと私の話を聞いていた彼女は、怯むことなく小さく息を漏らした。
「そっかぁ。ざんねぇん。せっかく良いものが見られると思ったのになぁ」
漏れた息を抑え込むように、彼女は再び着ぐるみを被った。
「私はキラキラしたものを壊したくて仕方がない。そこに美を見出しているから。これはもう衝動に近いの。謝るつもりもないし、諦めるつもりもないし、改心するつもりもないよぉ。どうする? 試しにぶん殴ってみるー?」
無機質な猫の顔が斜め下を向いている。ぶん殴って改心するなら右手を痛めることもやぶさかではないが、人の価値基準はそう簡単には変わらない。
知生が演奏を是が非でもやってのけると言い出した時のように、私にはきっとみちるを変えることなんて出来やしない。
でもそれでいいと思えた。相手が変わらないのであれば、私の譲れないところをぶつけてやればいいまでだ。
「改心なんてしなくていい。殴りもしない。ただ今回は私の勝ち。だから約束しなさい」
私は目線の合わない猫の面をじっと睨みつける。あの面の奥から彼女は私を見ているのだろうか。それでも明後日の方を向いているのだろうか。
なんにせよ、決着はきっとこの言葉でいい。
「私を壊したいなら、回りくどいことせずに私だけを狙いなさい。不幸にしようと試みてみなさい。今回みたいにいつでも弾き返してあげるから」
私は息を吸い込み大きく微笑んだ。どんなにひどい事をされていたって、私はまだみちるを嫌いになり切れていない。
カウンセリングと彼女は言った。私も文香もアキも、彼女が手を下さずともこうなっていた可能性だってあるんだから。
少しの間沈黙していた猫もどきは、籠もった声で笑い始めた。
「ああもう、眩しいなぁ。精一杯の暗示も効きやしないし。わかったわかった。私の負けでいいよぉ。でも気をつけてねぇ。私はいつだってさやちんの絶望を待ってるんだからぁ。もっと輝いて、もっともっと期待させてよねぇ」
けらけらと気味の悪い笑みを浮かべ、みちるは屋上から去っていった。表情は被り物で見えないが、足取りは先ほどより愉快に見えた。
相変わらず気持ちの悪いシルエットを見送りふうと一息吐くと、ようやく学園祭の物音が聞こえるようになってきた。柔らかい秋風が私のスカートを揺らす。
私の思いは伝わっただろうか。とりあえず私にできることは全部やった。あとはもう彼女を信じるしかない。これをきっかけに、彼女とも本当の意味で分かり合えればいいのだけれど。
とりあえず、これで知生のやり残しは一先ず解消されたはずだ。一気に気が抜けてしまった私は、重い足取りで保健室へと戻った。
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