1‐9 それだけで充分 ―セオドア視点―
§
「アマル様?」
セオドアが立ち止まったとき、既に視界に広がるのは薄暗い洞窟ではなかった。
塔の内部だ。恐らくは最上階。
この場所をセオドアはよく知っていた。そのため、聖樹が見せる幻覚だろうと瞬時に思考を切り替える。
視線の先に、一人の女性を見つけたからだ。
豊かだったことを想起させる金髪は乱暴に鋏を入れられたのだろう。長さは不揃いで、艶もとうに失われている。ドレスはところどころ破れていているだけでなく、埃をまとっているため、元の色が判別できない。
女性は歩き方を忘れてしまったかのように、ずりずりと床を這いずって、窓に向かって進んで行く。
窓には格子がはめられている。当然、転落防止のためだ。
「ぁあぁぁ……ううう……」
声にならない音が女性の口から漏れる。外へ出たいという意志のみで動いている、そんな風にも見えた。
「そんなに」
セオドアは知っている。
ドレスが夜空のような紺碧色をしていたことを。星のように、宝石が散りばめられていたことを。
この女性が、かつて、光のような微笑みを湛えていたことを。
実際に見たのではない。すべて、肖像画で知っているだけだ。それでも、彼女が美しい女性なのは間違いない真実だと――
「
――今もまだ、セオドアは信じている。
「ぅぅ……」
呻き声を上げながら、女性がセオドアへと方向転換した。
伸びすぎた前髪で顔は見えない。
見えなくてよかった、とセオドアは不意に思い、すぐにその思考を打ち消した。
「ぉぉうぉ……!!!」
四つん這いで、猛烈な勢いで、女性がセオドアへ突進してきた。
セオドアは聖剣に手をかけるが、やはりまだ抜くことはできなかった。小さく溜め息をつく。
「何を試したいのかは知りませんが、聖樹というのは随分と悪趣味ですね」
とんっ、とつま先で跳んだ。セオドアは女性の背中に乗ると、鞘に納められたままの聖剣で背中を思い切り、突いた。
女性が勢いよく何かを吐き出してそのまま倒れる。
背中に足をかけたまま、セオドアは周囲を見渡した。
「あっさり倒したことがそんなに不満でしょうか?」
塔の最上階から鍛錬場へと場面が切り替わっている。騎士団員たちに取り囲まれていた。騎士団員だけではない。貴族や商人、その他、これまでセオドアへ大なり小なり悪意を見せてきた者たちもいる。
セオドアは一切ためらわず、怯みもしなかった。鞘つきの剣でひたすらに幻を薙ぎ払う。突き飛ばす。そこに感情は乗せない。
一気に人間の山ができあがった。
「うわっ!? どうしたんだ、これ」
「……アマル様」
最後に現れたのは、はぐれたばかりの竜巫女アマルだった。
倒された幻たちを避けながら、セオドアへと近づいてくる。
「やっぱり団長って強いんだな」
「ご無事でしたか」
「見ての通りぴんぴんしてるよ」
一方、セオドアは警戒を緩めない。ここはまだ幻の中。アマルが本物だとは考えられなかった。
「団長のせいで、みんな、死んだんだな」
アマルが、とびきりの笑顔で、言った。
「全部お前のせいだ。これまでも、これから先も」
どくん、と鼓動が大きく波打つ。
セオドアは指先が痺れるのを感じた。母の幻を攻撃するときでさえ冷静でいた自負はある。それなのに、アマルの幻から放たれた言葉は、確実にセオドアの内側を掠めた。
出逢ったばかりだというのに。
よく知らない人間だというのに。知っていることといえば、喜怒哀楽が豊かで、闊達。竜巫女だというのに若干、粗野。しかしその根底には他者を思いやる慈愛がある。それくらいだ。
(いや……)
それだけで充分だろう。
アマルは決して他者を貶めるようなことはしない。セオドアの出自を知らないということもあるだろうが、色眼鏡で見てこない。いつでも全力でぶつかってくる。
それだけで。
『団長!』
記憶の中の声が、セオドアを呼んだ。痺れも動悸も、収まっていた。
「幻にしては再現が下手すぎますね。本物のアマル様は、決してそんなことを言うような人間ではありませんよ」
§
むせ返るくらい甘ったるい花の香り。セオドアは花の色と香りに、すっかりと埋もれていた。
正確には、セオドアとアマルは、だ。
(……信じられません)
セオドアは半ば呆然としながら空を見上げる。聖樹の向こうはだんだんと白んできている。
何よりも明るいのは、周囲を埋め尽くす聖樹の白い花のおかげだった。
信じられないことと言えば、アマルがセオドアを押し倒し、そのまま眠ってしまったことだ。今もすやすやと寝息を立てている。
(慣れないことの連続で疲れていたんでしょうね。とはいえ、幻の方が淑やかというのは、一体……)
「むにゃぁ」
「アマル様? ……アマ、ル?」
眠っているのをいいことに、セオドアは呼び方の練習をすることにした。
しかしどうにもむずがゆい。
アマルから要求されたこととはいえ女性を呼び捨てにするなど、今までのセオドアには考えられなかった。
「アマル」
よほど深い眠りに落ちているのか、アマルは一向に目覚める気配がない。
セオドアはそっとアマルの頭へ手を伸ばして、恐る恐る髪に触れてみた。いつもは頭頂部でひとつに束ねているが、今回は乗馬するということもありしっかりとまとめている。どちらも快活な彼女に似合うと思ったが口には出さなかった。
(エドだったら言えるのでしょうね)
そのまま、撫でるように触れる。やわらかな髪質だ。このまま触れていたいと思うくらいだった。
「むにゃぁ……あれ?」
ぱちっ、とアマルが目を開けた。
深い瑠璃色が、ぼんやりとセオドアを見つめる。やがて焦点が合ってくると、己の置かれた状況を理解したのかぱっと飛びのいた。
頬が、耳までが真っ赤に染まっている。
「ご、ごめん! セオドア! あたしってば寝てた!?」
「おはようございます。ええ、すやすやと、実に快眠そうでした」
「うわぁ……本当にごめん……夜営だってちゃんと交替するって宣言したのに……」
赤かった顔は一瞬にして青ざめる。
アマルは罪悪感がこみ上げてきたのだろうか、地面に額をつけようとして、白い花に顔を埋めた。
「最初に寝てくださいと言ったでしょう。私としては、その通り眠っていただけて満足です」
セオドアは白い花を掬った。輪郭はまだ淡く輝いている。
「この花が眠り病の治癒に必要なのでしょう? かき集められるだけ集めますよ」
ゆっくりと、アマルが顔を上げた。鼻の頭が赤い。落ち込んだり喜んだり、実に忙しない。
セオドアは鞘に納めたままの聖剣を掲げてみせる。金の装飾は白い花に呼応するかのように瞬いていた。
「どうやら行きと違って、帰り道は聖剣が教えてくれそうです」
それからセオドアは立ち上がり、アマルへ手を差し伸べた。
「クラド王国へ戻りましょう、アマル」
「あぁ」
アマルはきょとんとした表情になり、それから、瞳を輝かせた。
「……えっ? 今、『様』なしで呼んでくれた? もう一回!」
「そんな何度も呼ぶ必要はないでしょう」
「いじわるー」
頬を膨らませ拗ねてみせるアマルに、セオドアの口角はわずかに上がっていた。
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