1-7 人工呼吸

   §


(お日さまの、においが、する。あったかくて、安心する……)


「……かはっ。……!?」


 意識を取り戻したアマルは、目の前にセオドアの顔があることを同時に理解して飛びのいた。そのまま地面に背中と腰を打ちつける。


「痛っ」

「大丈夫ですか?」

「あ、あぁ」


(危なかった……)


 前に動いていたらセオドアへ頭突きしていた。そんなことになれば恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになるだろう。

 しかし、何もしていないはずのセオドアが、アマルへ向かって頭を下げる。


「アマル様、すみません。人工呼吸をさせていただきました」

「人工、呼吸?」

「口づけをして、息を吹き込みました」


 一瞬のうちにアマルの脳内にはぐるぐると思考が飛び交った。


(口づけ……? 口づけって、唇が触れたっていうことだよな。いや、でも、あたしを助けるための行為で、団長ならどんな人に対しても同じ行動を取るだろうし)


 それから、深呼吸を一回。


「アリガトウ」

「いえ。体におかしなところはありませんか?」


 淡々と答えるセオドアに反して、アマルは内心動揺していた。顔を両手で覆いつつも、指の隙間からセオドアの横顔を盗み見る。

 結論。

 気にしてはいけない。

 あくまでも人命救助のための行為だ。しかも、アマルには記憶がないのだから。


「大丈夫だ! すっごく、元気!!」

「それならばよかったです。立てますか?」


 いつの間にかセオドアは立ち上がっていた。

 アマルは応じて立ち上がると服についた土を払う。ふしぎなことに、二人とも一切水に濡れてはいなかった。

 落ちた先は薄暗い穴のようだったが、目を凝らすと奥に道が続いている。ひゅーひゅー、と風の音がかすかに聞こえてきた。

 森よりもさらに気温が低く、肌寒い。どことなくかびたようなにおいがする。


「一体、ここは何なんだ?」

「皆目見当もつきません。アマル様、決して私から離れないでください」

「!?」


 足元へ視線を向けたアマルは、地面に置かれたものに気づいて肩を震わせた。

 白骨。しかも、人間のものだ。恐らく聖樹を探そうとして水に攫われ、ここで命を落としたのだろう。

 そっとアマルは地面に膝をついて、両手を組む。竜巫女として自然と体が動いていた。


『偉大なる神よ。どうかこの者に安らかな眠りを』


 アマルは、サニア語で祈りを捧げる。

 尽きた命は土へと還りやがて生まれ変わる。祈りが多ければ多いほど、次の生では幸福に恵まれると言われている。白骨がどんな人物だったかは分からないが、アマルとしては祈りを捧げずにはいられないのだ。


「行こう。あたしたちは生きて聖樹に辿り着かなきゃ」

「そうですね」


 洞窟はセオドアでも立ったまま歩けるくらいの一本道だった。ぎりぎり肉眼でも景色が分かるくらいの薄暗さのなか、セオドアを先頭にして、会話なく進んで行く。

 長袖のおかげでまだましとはいえ、だんだんと冷えてきたアマルは己を抱きしめるような体勢になる。


 しばらくして、突然、視界が開けた。眩しすぎるくらいの光にアマルは目を細める。


「……団長?」


 気づくとアマルの隣にセオドアの姿はなかった。薄暗い洞窟を歩いていたはずなのに、アマルが立っていたのは草原のような場所だった。

 アマルの背筋を冷たいものが流れる。

 大きく息を吸って声を張り上げた。


(やばい。はぐれた。いつからだ?)


 腰元まで伸びた草が強い風に揺れてうねっている。空は濃い青色。太陽の光が降り注ぐ。

 そんな原色の景色が、どこまでも続いていた。

 草を手で払いのければちゃんと質感がある。さらに草の蒸したようなにおいもする。この場所は、どうやら夢でもないらしい。

 洞窟にいたのが嘘のように陽射しがきつい。つぅ、と汗が流れた。


「さすが、神域の森。何が起きるかさっぱり分からないな」


(呼びかけても返事がないということは、団長はここじゃないどこかに飛ばされた可能性が高い。それなら、あたしはあたしでここから出る方法を探さなきゃいけない)


 アマルは両手で両頬を軽く叩いた。

 景色が変わらないことには変化は訪れないと仮定して、アマルは歩き続けることに決めた。


(まるで竜の里みたいな場所だな)


 そもそもアマルは皇国サニアの外れ、竜の里と呼ばれる隠れ里で暮らしていた。

 竜巫女に選ばれた者は一生聖堂で生きなければならない。

 一方で、竜の里は王家から安全を保障されるだけでなく免税などの恩恵も受けられる。そのように建国当初に取り決められたのだと、祖父はアマルに説明してくれた。


(馬鹿皇子が今頃、竜の里へ無理な要求をしていなければいいけれど)


 ぎゅっ、と胸のあたりで拳を握りしめる。

 追放されたときのことを思い出すと今だって胸が苦しい。

 アマルを偽の竜巫女だと決めつけた皇子は、本物を出せと竜の里へ迫っているかもしれない。無理な話だ。だって、はどうしたってアマルなのだから。


(まぁ、なら大丈夫か)


 シファ、というのは竜の里の現当主であり、――アマルの双子の妹だ。

 アマルよりも頭の回転が速く強かであり、馬鹿皇子に対しても一切怯みはしないので、アマルはその点においては心配していない。

 あくまでも、その点のみに、おいては。


 草を両腕でかき分けながらアマルは前へと進む。

 乗馬服のおかげで、細い草で肌を傷つける心配はなかった。とはいえ、どんどん歩いていくと、きつい日差しのせいで汗が吹き出してくるし、喉も渇いてくる。

 視界の先に、人影が見えた。それが誰かを認識するやいなやアマルは駆け出す。

 

「団長!!」


 アマルの呼びかけにセオドアが振り返る。


「アマル様。ご無事でしたか」

「見ての通りさ」

「しかし困りましたね。本当に脱出できる方法が分かりません。我々なら何とかできるのではと考えましたが……もしや」


 両腕を組んだセオドアが言葉を区切って、アマルを見据えた。


「あなたが、やはり、本物の竜巫女ではないからなのでは?」


 アマルは眉をひそめた。そして、セオドアを指差す。

 そこに一切の迷いはなかった。


「お前、団長じゃないな。団長は絶対にそんなこと言わない」


 ――ぱりんっ


 何かが割れる音が周囲に響いた。

 空を見上げたアマルの頭上、ありえないことに、青空が割れていた。ガラスのようにひび割れ、ぱらぱらと欠片が落ちてくる。


   §


「うわっ!」


 言葉通り、アマルは飛び起きた。

 手に触れるがさついた何かへ視線を落とすと、まるで樹皮のようだった。


(いや、これは本物の木だ。ということは)

  

 アマルがいたのはごつごつとした大きな木の根の上。なめらかな樹皮に覆われた幹の太さは測り知れない。辺り一帯に立ち込めるのは、土と水、木のにおい。

 頭上を向く。葉が空を覆い、その隙間から光が差し込んでいる。かすかに葉が揺れる音が聴こえる。

 胸にこみ上げてくる感情をぐっと堪えて、なんとか口を開いた。


「聖樹……?」


 セオドアもまた、離れたところに仰向けになって倒れていた。

 立ち上がったアマルはいびつな根の上、バランスを取りながらセオドアの元へ向かう。セオドアは意識を失っているようで、かたく目を瞑っていた。

 アマルは膝をつき、耳をセオドアの口元へ近づける。息はしているようだった。顔を離すと、今度は呼びかける。


「団長、起きて。聖樹に辿り着いたよ」


 しかし反応はない。


(……人工呼吸……)


 ぶんぶんとアマルは首を横に振った。


(やったことはなくても、やらなきゃいけないときはある。とにかく息を吹き込めばいいんだよな?)


 眠るセオドアの長い睫毛が、木漏れ日を受けて煌めいている。

 アマルは意を決してセオドアへ顔を向けた。


 唇と唇が触れそうになり――


「……アマル様?」

「ぎゃー!」


 ――アマルからの人工呼吸は、未遂に終わった。


「お互い生きて辿り着けてよかった。うん。よかったよかった。あっはっは」


 セオドアが上体を起こす。整髪料で撫でつけられていた前髪がぱさりと降りて額と眉を隠した。

 すぐに瞳の焦点が合ってくると、己のいる場所を確認し、理解したようだった。


「ここは、聖樹の根元なのでしょうか」

「たぶん。ううん、そうだと思う」

「……なんと荘厳なのでしょう。我々はなんとか導いてもらえたようですね」


 セオドアはアマルへ語りかけるというよりは独り言のように呟いた。

 ようやく落ち着いてきたアマルはセオドアの脇にしゃがみ込む。


「あたしは草原にいて、次にここに飛ばされた。団長はどうだった?」

「塔の最上階でしたね。幻が次々と襲いかかってきたので、ひたすらに倒しました」

「うわぁ……」

「アマル様もいましたよ」

「それって」


(あたしのときみたいに、幻からひどいことを言われたんじゃないだろうか)


 セオドアは何も言わず、わずかに目を細めた。

 そのため、アマルは尋ねるのをやめた。


「無事に聖樹に導かれたということは、我々は許されたということなのでしょう。次にすべきことは、聖樹に異常がないかを確認することです」

「どうやって確認する? まさかこんなにでかい木だったなんて思わなかった」

「それでも、やるしかありません」

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