今日のための

とがわ

今日のための

「麻乃ちゃん?」

 もう何年も聞いていなかったというのに、声変わりもしているはずなのに、すんなりと身体に馴染んでいく声。その主をぱっと思い出すよりも先に体が反応してたまらない気持ちでいっぱいになって、苦しくすらなった。

 目の前に佇むあなたは信じられないとでもいうかのように私の瞳をじっととらえる。でもよく見えない。瞳に、濡れた薄膜が張ってきた。



 ショパンが大好きな元気な男の子だった。ショパンの音楽とその背景に想いを馳せてキラキラ瞳を輝かせる男の子。まだ技術が伴ってないからってショパンを弾くことはしなかった少年は、笑顔で話すその裏に暗闇を背負っていた。それを知ったのは少年がいなくなったあとだった。

 決して大きくはないけど小さくもないホールで、たしかに幼い身体と心で堂々とスタインウェイを響かせる姿は私を魅了した。同じピアノ教室にあんな子が通っているのかとその発表会で初めて知った私は、弾き終えてほっと胸を撫で下ろし舞台袖に戻ってきた少年に「すごい!」とだけ興奮気味に言っていた。そのすぐあとに私の名前がホール内に響いてスタインウェイ目掛けて歩いた。少年の座っていた椅子の座面は高く調整をしなければならなくて、それだけにすこし自分のピアノに自信すらなくしそうになった。その時から既に、私にピアノを続けられるほどの覚悟はないのだと半ば諦めていたように思う。


「麻乃さん、褒めてくれてありがとう!」

 私が舞台袖に戻った頃、さっきの少年は私にそう言った。

「あ、麻乃さんの演奏もよかった! すこしテンポがずれてたけど」

 悪気はないのだろうがそう指摘され落ち込まないはずはなかった。でも自分よりも年の下であろう子に不機嫌な態度をとるのは大人げないと子どもながらに思った。

「どうして名前?」

「プログラムみた! でも苗字読めなくて。あ、俺は原夏輝!」

 輝いているな、と思ったのが原君への最初の印象でそれはずっと変わらないはずだった。


 原君はやっぱり私よりふたつ年が下でしかも同じ小学校だった。原君と私は時折昼休みになると中庭で優雅に泳ぐ鯉を一緒に眺めるようになった。ショパンの柔らかくて優しくてでも力強い音楽が好きなこと、美しい旋律をきいてショパンの繊細な優しさに触れるのが好きなこと、ノクターンについて色々語っていたことは数多くてよく覚えてないけど、ショパンが好きで笑顔の絶えない子だった。

「もっと上手になったらショパンの曲を弾くんだ。その時は麻乃ちゃんに聴いてもらいたいな」

 そうやって目標に向かってピアノにまっすぐだった原君は突然学校から姿を消した。


 レッスン後、先生に原君の様子をきくと言いにくそうに口を噤んだあと、原君が学校でいじめにあっていたこと、保護者と学校側で話し合ってもらちが明かなかったこと、そのことで引越しをせざるを得なくなったことを教えてくれた。「麻乃さんがもし聞いてきたら、言ってもいいって原君が言っていてね」と付け足して。

 私は無性に悲しくなった。いじめられていたなんて微塵も感じとれなかったのだ。違う、そうであるという事実を原君は必死に隠していた。笑顔の裏に隠して心配させないように。原君はきっとショパンの音楽みたいな日々を守りたかったんだと思った。心配性だったかもしれないショパンは原君みたいに人一倍強く優しかったんだと思うと悔しくてたまらなかった。

「原君は直前まで誰にも言わなかった。先生も悲しいけど、これでよかったんだと思うの」

 よかったとはなんだ。先生はわけのわからないことを言った。

「ショパンは? 原君はショパンを弾きたいって言ってた。私に聴いて欲しいって」

「きっとどこに行ってもピアノを弾くと思う。この選択が一番よかったんだよ。このままここにいてももっとよくない未来が待っていたかもしれないから。これが最善の選択だったと思うよ」

 私は原君のショパンが聴きたかった。どこにいったかも連絡先もわからない私は一生原君のショパンは聴けないのだと、原君の幸せな日々を守れなかったことを悔やんで、泣いた。



 そんな古すぎる過去を経て日々が過ぎ今日へと繋がっていく。ピアノを弾くのはもう辞めてしまった私とは違って、きっと原君は今もどこかで弾いているんだろうとひそかにずっと願っていた。

「麻乃ちゃん、俺今日ショパン弾くよ。聴いてて」

 あの時よりもずっと、私の背も追い越して頼もしくなった原君はスーツを身に纏ってあの時みたいに屈託のない笑顔をみせて言った。目頭が熱くならないわけがない。

 あの頃はその選択しかなかったのかと悶々としていたけど、今日にたどりつくための選択だったのだと、原君の今をみて嬉しくて泣いた。私もピアノを続けていたらと思うこともあるけれど、それでもピアノを好きでい続けられたのはきっと原君のショパンが聴きたかったから。それだけで十分だったのだと思える今日に出逢えたこと。

 あの時よりも大きなホールで原君は嬉しそうにショパンと手を取ってスタインウェイを響かせる。私はその音色を祈るように胸に仕舞った。

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