ねえ、先輩

堕なの。

ねえ、先輩

 日奈子先輩が好きでした。憧れなのか恋なのか、明言はいたしません。ですが、日奈子先輩に会えると嬉しくなるのは、日奈子先輩の好きな物を作りたいと思うのは、やはり私の中で恋に似た大きな感情としてそこにあったからだと思います。


 日奈子先輩に出会ったのは、部活動体験の日に美術室の扉を開けた時でした。部活動体験は多くの人間がいて、日奈子先輩は綺麗な絵の隣で多くの人に囲まれていました。私も、その絵の美しさに目を奪われました。

 独特な絵でした。写実の類でないことは確かです。ですが、現代アートと呼ぶには私はそれを知りませんでしたし、描かれている物自体はこの世に存在するものでした。ですから、私にとってその絵は日奈子先輩だけの絵でした。いえ、絵というものは元来作者だけの物なのですが、日奈子先輩の絵は部室の中で際立って優れて見えたのです。

 結局、入部したのは三人だけでした。私と、優衣ちゃんと、遥斗くん。同じ高校に進んだ同級生はいなかったので、二人ともはじめましてでした。まず先輩方に絵を描きなさいと言われ、三人で美術室内の適当な物を描きました。完成品を見た時、他二人を大した事ないと思った私の品性は疑うレベルなのでしょうが、口に出さなければバレることはまずありません。尊敬する日奈子先輩にもお褒めいただけて、その日の私は非常に嬉しい限りでした。

 一週間ほど経てば、新入部員もそれなりに部活に馴染んできます。描いた絵を日奈子先輩に見てもらい、時に褒められ時に酷評され、有意義な時間を過ごしていました。その時の私は、今までで一番絵を描くことが楽しい時期でした。私の絵に対する日奈子先輩の反応を見ることも、日奈子先輩の絵を見ることも、新生活で荒んだ私の心を適度に癒やしてくれました。

 日奈子先輩は礼儀やマナーというものをそこまで気にしない先輩でした。他の先輩の中では気にする先輩と気にしない先輩がいましたが、美術部は部の空気として比較的気にしない傾向にありました。ですから、先輩後輩の間でもタメ口で話すことが多々ありました。私はそれがどうしても許せませんでした。

 自分がタメ口を使われるのは、中学生の頃から何も思いませんでした。この先を心配することはあれど、不快感を抱くことなどなかったのです。しかし、日奈子先輩に対してだけは違いました。日奈子先輩がタメ口で話されるのは、私にとってはどうしても理解の出来ないことでした。

 敬語とは尊敬です。尊敬している限りは、または尊敬していなくとも、目上の人間には敬語を使うべきです。少なくとも私はそう思って十数年を生きてきました。そのことを優衣ちゃんと遥斗くんに言えば気にしすぎだと言われました。先輩が気にしていないのだから良いのだ、と。結局、納得する答えは得られませんでした。

 三週間が経ちました。そして、先輩たちの最後が見えてきました。日奈子先輩は高校三年生ですので、私たちと一緒にいられる期間は後一ヶ月ほどだと分かりました。

 三週間でよくここまで絆されたものです。勿論、一目惚れに近い衝撃はありましたが、それ以外の場面でも思いを募らせておりました。日々の部活で創る作品、寛容な心と、心の奥底に感じるプライド。全てが魅力的で憧れでした。もしかすると、恋でもありました。日奈子先輩は、おそらく私が初めて尊敬した先輩でした。普段も私は先輩という生き物を尊敬する人間ではありますが、その先輩にどう思われたいなどは考えたこともありませんでした。人の感性は千差万別ですから、嫌いと言われてもその人の感情と割り切っていました。

 しかし、日奈子先輩のあまり好きではないは、私のこの作品嫌いになりました。日奈子先輩に好かれるイラストが描きたくなりました。日奈子先輩の感性は、一般とは多少ずれたところにありました。ですので、私は大衆に認められる作品よりも日奈子先輩に認められる作品に寄っていこうとしたことになります。

 私の絵は上手な感じで、私でなくとも誰でも描ける絵でした。ですが、日奈子先輩はその人にしか書けない、その人だけの作品を良しとしました。私の作品と日奈子先輩の理想は対極の位置にありました。手癖を治すということは簡単なことではありません。それに、先輩たちがこの部活からいなくなるまでの期日は刻一刻と迫ってきているのです。それでも私は日奈子先輩の理想を目指すことにしました。そして三年生を送るための作品は、日奈子先輩への想いを散りばめた作品にしようと決めました。

 一ヶ月、絵を描き続けました。中間試験の勉強などは置いておいて、ただ絵を描くことだけをしました。日奈子先輩に認められる絵を描くことだけが、その時の私の目標でした。

 先輩が部活に来る、三学期にやる送る会を除けばですが、最後の日に私はその絵を持っていきました。たかだか数週間一緒にいた程度の高校一年生と、一年間一緒にやってきた高校二年生とでは重みが違いますから、まずは高校二年生の先輩方とお話をしておりました。泣くことはございませんでしたが、積もる話が多くあるようでした。

 一年生の番が回ってきました。そして私は、日奈子先輩に一枚の絵を見せました。日奈子先輩はいつもの通り、良いところと悪いところを言ってくださいました。そして、今までの絵の中で一番好きだとも言っていただけました。ただそれだけで、心が満たされる気分になりました。

 日奈子先輩がいなくなるのは、思った以上に呆気なかったです。ただでさえ静かだった部室は更に静かになり、兼部をしていたらしい二人は大会前ということでこちらの部活には一切顔を出さなくなりました。私だけが、バカ真面目に日奈子先輩のいない部室に通っています。扉を開ければ、まだ日奈子先輩がそこにいるのではないかと心の何処かで思ってしまっています。日奈子先輩はたったの一ヶ月と少しで、私の絵を描く理由の大部分を埋め尽くしました。それだけ大きな人でした。

 絵を描けば、心の中で日奈子先輩がダメ出しをして、時に褒めてくれる。私は、記憶の先輩を傍においておける。私はこの先、日奈子先輩を考えずには絵を描けない予感がしました。

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ねえ、先輩 堕なの。 @danano

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