君が夏を閉じ込めた。

杜侍音

終わらない夏


 コトンと、ラムネ瓶が教室の机に置かれた。


「夏以外は私が飲み干したわ」


 彼女は飲み置いたラムネ瓶の口を人差し指で押さえては、左右にゆっくりと揺らす。

 瑠璃色のビー玉が風鈴にも似た音色を奏でる。


「そこは僕の席だが」


 頓智なような問いに、僕は頓珍漢な答えを返した。


「本当にそうかしら。証拠でもあるの?」

「そんなの……ない。証拠よりも自信がない。「それよりも」」

「──記憶がない、でしょ?」


 被せては僕の言葉を奪い取った彼女。

 だが、これは事実であり僕は僕の名前が言えなかった。

 言い出せない、という表現の方が近しいかもしれない。

 確実にこれだと示す名前は頭にあるはずなのに、一度聞けば適否は判別できるというのに。

 記憶の海の中でもがき手を伸ばそうとも、どうしても答えには届かなかった。


「君は? 何か覚えているのか?」

「……全く。あなたと同じことだけは分かる」

「そうか。……名前以外、僕が何者かは僕の中では確立しているというのに。こうも呼び名がないというだけで存在している気分になれないな」

「では立場を確保するために肩書きでも付け合う? あなたはわたしのことを先輩でも先生でも、先人とでも呼んでいいわよ」


「どうしてだよ」と疑問を口に出した時、青い輝きが目に入る。

 それを彼女が察し、先人たる理由を告げる。


「私が先に、この奇怪な世界で目覚めたから。夏しかない、ここで」


 窓の外、見渡せないほどに碧い海が広がっていた。


 空は快晴。


 高く、どこまでも突き上げた青空が当たり前に僕たちを見下ろしている。

 水平線から生まれているのは積乱雲だろうか。でも、こっちには来なさそうだ。背景として描かれているだけであって、ただ彼方に存在している。

 あぁ、直感で分かる気がする。

 この世界ではいつでも夏が待ってる。


 僕たちが今いる夏はきっと通っていたはずの高校、いつも着慣れていたと思う制服。

 こんな夏の日はいくらでもあった気がする。


「じゃあ行きましょうか」

「どこへ?」

「どこへって、探検するしかないでしょ? 夏の大冒険ね」


 立ち上がると彼女は僕の胸辺りの背ほどしかなかった。態度の割に身柄は小さいな。


「胸は程よくあるけども」

「なぜ僕の思考を読んだ」

「男の考えてることなんて二つしかないでしょ。右と、左」


 彼女はそれぞれ手で持ち上げては強調してくれる。

 だが、僕は言い返してやった。


「僕は真っ直ぐ前しか見ないさ。中心を隔てるラインも」

「セクハラ」

「君から始めた話だよな」

「私のセクハラインを超えたため、この話は終了。残念だったわね、可愛い女の子と下世話な話ができなくて。さぁ、さっさと歩いて」


 自分で可愛いと言うのか。そう言い返せないほどに身勝手な彼女は可愛く、そして傲慢な美しさを持っていた。

 彼女と二人きり、僕はこの夏世界を散策する。

 放置せず律儀に彼女が持ち歩く空のラムネ瓶に映る、歪んだ僕の虚像と目を合わせながら。


「……やっぱりいないわ、誰も。目にすることもなければ気配も感じない。私たち以外にいないと判断してもいいと断定するわ」


 大体の場所を巡り、僕も彼女の言葉に同意する。

 大して広くもないこの学校は通っていた高校と構造が全く同じだと思う。

 均一化された教室、新品の備品が陳列された実習室、手付かずの本が埋まる図書室。

 コピペされた夏の学校に、僕たちだけが貼り付けされたみたいだ。

 

「受け入れるしかないか。ここは僕たちの生きる世界とは違う。学校の外には出られないし、そんな外に広がるのは海だけだ」


 周囲の環境は現実からかけ離れていた。

 大海原を漂流している学校など、世界の離島や南国を探してもないだろう。もちろん世界中の学校事情を把握しているわけではないので断言はできないが、まぁどうやって通学するのかと常識的に考えたらこの世のものではないくらい分かる。

 さらに一度校門の外に足を踏み出せば、学内に戻されるSF仕様。この調子ならどうせ柵越えや穴を掘って出てみても結果は目に見えている。だからそんな労力は取らないことにした。


「せめて海に入れたらいいのに。とても夏だわ」


 暑い、とでも言いたいのだろうか。校舎四階の廊下、窓際の柵にもたれかかりながら彼女は空を仰いだ。

 だが、考えていることは分かる。

 滲み出る汗で制服が肌に張り付く。茹だるような暑さに僕たちの体力は蝕まれている。

 だが、どこか爽やかさを僕は感じていて、それが不快だとまでは思わなかった。


「プールなら真下にあるけど」


 目下にあるのは25mプール。

 ここから底まで見えるほどに水は透き通り、日の光でキラキラと反射していた。

 こんな日に入ったら、きっと気持ちがいいだろうな──


「……じゃあ、それでいっか」

「……は──ちょっ!?」


 次の瞬間、彼女は落下防止用の柵に足掛けて空へ飛び出した。

 瞬く間もなく真っ逆様に落ちていっては、プールの中へと落ちていったが。

 僕は急ぎ階段を駆け降り、プールへと向かった。


「──生きてるようで何より」

「ええ。水が冷たいわ」


 プカプカと仰向けに浮かぶ彼女を中心にゆるやかな波が広がっていた。

 僕はプールサイドギリギリに体操座りをしてはそんな彼女を眺めていた。さっきの飛び込みで大きく跳ねた水飛沫はもう乾きそうだったが、少しでも濡れたくないと思いお尻は地面に付けなかった。


「あなたは入らないの?」

「僕は着衣水泳は好きじゃないんだ。服を着たまま水に浸かる罪悪感が、陸に戻った時にずっしりと全身にのしかかることが」

「じゃあ、いっそ全て曝け出してみる?」


 彼女は器用に身を起こしてはプールの中で立ち、真っ直ぐと純粋な瞳でこっちを見つめる。

 肩までかかった黒髪を伝う水滴へと目を逸らす。

 濡れて露わになった彼女の柔肌。艶めかしい唇。視線を辿った先に辿り着く、水面に揺らめき映る君すら綺麗だった。


「君のセクハラインを踏み越えると思うが」


 僕は本音を飲み込み、先程までの冗談でこの場を切り返した。


「ええ。然るべきところに訴えるところだった」

「ここに僕たち以外いないというのに」

「そうね。夏に閉じ込められたのは私たちだけ。……じゃあ、押し倒しても誰にも咎められないわね」

「……君は?」

「引っ張るくらいだもの。これで許してあげる」


 膝を抱える僕の腕を掴み、そのまま水中へと引き摺り込まれた。

 反射的に目を瞑る。

 そして、開く。

 細かい気泡の中で浮かび上がる彼女

 落ちた僕に合わせて再び潜り、嫌がらせが上手くいったことを喜ぶかのように彼女は笑った。


「ぷはっ、どう? 水の中は」

「どうも何も、突然のことに感情がまとめきれない。……あ」


 世界は入れ替わる。水面から顔を出すと、澄んだ青空は星が煌めく夜空へと色変えしていた。

 校舎も朱色の提灯に彩られ、淡い光が溢れている。まるで夏祭り会場だ。


「……夢のようだ。いや、これはずっと夢だったか」

「そうね、夜が来れば世界は眠りにつくもの。また現実に戻らないと」

「いつも一瞬だったよ。夏休みなんて遊び呆けては怠惰に過ごし、お盆が過ぎたら宿題に追いかけ回されるんだよな」

「宿題なんて終業式には全て終わらせていたわ」

「強いなそれは。僕は……どうなんだろうな」

「いいじゃない。ここなら夏は終わらない。ずっとずっと、あの夏のまま続くのよ」


 夜空に花が咲く。

 何度も使い回されたメタファーが頭に浮かんでも、いつ見ても花火は綺麗だ。

 横目で彼女を伺うと、彼女はこちらの横顔を見て泣いていた。滴る水と混じり合いプールに彼女の涙が溶け込むが、暖かさも冷たさも何も感じない。


「君はそういう柄じゃないと思っていたよ」

「私も、今回のあなたは皮肉を言うタイプなのね」

「……もしかして、僕たちは何度も……」

「ええ。また説明しないとダメかしら」

「いや、いい。僕だけが何度も記憶をなくし、君だけは記憶が引き継がれる。理由も理屈も理論も、後から考えればいい。時間が惜しい。この日で夏を終わらせよう」


 彼女は黙って僕の背後を指差す。

 振り返りあったのは、プールサイドに置かれたラムネ瓶。彼女がずっと大事そうに持っていたものだ。


「あれを割れば、夏は終わる」

「単純な仕掛けだ。簡単には割れないのか」


 名残り惜しそうな顔をしていて僕は察した。

 知っていたなら最初からすれば実行すればいい。彼女は割りたくない何か理由がある。


「聞かないよ、何も」


 それでも言った通り今は理由なんかどうでもいい。

 僕はラムネ瓶を手に取った。

 透明なガラスに閉じ込められた地球のようなビー玉がカラカラと狭く同じ場所を行き交う。

 ずっと、行ったり来たり……


「……ただ、もう少しだけ夏の夢を見ていいだろうか。少し、この重さに心地よさを感じてきたところだから」

「そう……夏はまだまだ続くわ、──」


 彩られる花空を、ラムネ瓶を覗き見上げた。

 ビー玉に乱反射する夏の光を、ここから出た後も忘れることはないだろう。

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