混沌ラススヴィエート

美影輝

日常編

デイリーライフ

目覚ましが鳴るより早く目が覚めた。

そんな日の朝は体がいつもより軽くて、なんでもできそうな気がする。開けた窓から入る四月の風がやけに心地よい。春休みを終えて、また学校生活が始まる。今日から晴れて高校二年生だ。


洗面所で顔を洗い、歯を磨く。朝ごはんはプロテインで済ませ、制服に着替えた。ドアを閉め、しっかり鍵をかけて家を出る。この一軒家で一人暮らしになって、もうすぐ三年。すっかりこの生活にも慣れた。


駅前へ伸びる並木道を、大きめの歩幅で歩く。

信号のない横断歩道で一度だけ立ち止まった。耳の奥で、うっすらと音が揺れる。春のはずなのに、冬みたいに冷たい風が頬を撫でた気がした。電線のカラスが羽を一度だけ震わせ、コンビニのビニール袋がふくらんではしぼむ。

一瞬、周りを見渡す。——特に変化はない。ただの気のせい。そう決めて、また歩き出した。


学校に着くと、校門で茶色い髪をゆるくまとめた幼馴染の東雲美由が手を振る。高校に入ってから見た目は少しギャル寄りになったが正直似合っている。


「おはよ〜零。どうしたの? じっとこっち見て」

「いや、お前もすっかりギャルになったなと」

「それはどういう意味かな?」

美由は眉をぴくりと動かす。

「もちろん褒め言葉だよ」

「そ。なら、そういうことにしといてあげる」


昇降口で上履きに履き替える。教室に入ると、親友の與猶寿人がなぜかスクワットをしていた。朝からやたらと熱くるしい男だ。


「零! 今日の俺はコンディション、マックスだ!」

「朝からマックスだと、昼からどうするんだよ」

「マックス2だ!」

「スーパーサイヤ人かよ」


HRが始まる前、黒板の端に「中間テストまであとニ週間」とチョークで書かれた。教室に、うっすら重みが降りる。担任が雑務をいくつか読み上げたあと、「今週から駅前のボランティア清掃の案内が来てる。興味ある人は職員室前まで」と付け足す。


後ろの席の寿人が小声で囁く。

「なぁ零、ボランティアやろうぜ。走る前の準備運動にもなるしな」

寿人とは中学校で出会いそこからずっとクラスも同じの親友と呼べる一番仲の良い友達だ。彼は中学校の時からずっと陸上部に所属している。

「ならねえだろ」

「心が走る!」

「だまれ」

この通り寿人はバカだ。

体を動かすのが好きで普段から筋トレばかりしている、走ることと筋トレのことしか考えていない。つまりバカだ。

だがめちゃくちゃいい奴なのだ。

今まで出会った人の中で寿人以上の善人を俺は知らない。

ほら、気づくとまた先生の荷物を職員室まで一緒に運ぼうとしている。

人が良くてバカ、最高の親友だ。


一時間目の現代文、二時間目の英語。隣の美由は板書を色ペンで可愛く整えていく。見栄えはどうでもいい俺は、要点だけをノートに落とす。

窓の外では三年生が体育でサッカーをしていた。アッシュグレーのポニーテールの女子生徒が豪快なシュートを決めた。栗山千咲。学校で知らない人の方が少ない、陸上部の部長だ。


校内の男子が勝手にやってる「美女ランキング」では、いつも一、二を争うらしい。今回の更新では二位だったとか。誰が作り、どの頻度で更新しているのかは知らないが、ほとんどの生徒が知っていて、だいたい納得している。ちなみに寿人は同じ陸上部ということもあり千咲先輩推しだ。


授業が終わると、廊下が少し騒がしくなる。ふと見ると、三年生の桐崎桜が歩いていた。ピンクアッシュの長い髪がきれいに靡く。学校一の美女と言われている先輩である。もちろんランキングの一位はこの人だ。

視線が一瞬合う。桜先輩は柔らかい笑顔で手を振る。俺も軽く会釈しながら手を振り返した。


それを見ていた寿人が言う。

「学校一の美女と手を振りあえるなんて、羨ましい限りだなぁ」

「偶然、バイト先が同じなだけだ」

俺は去年の夏くらいから、駅前のファミリーレストランでバイトをしている。そこで先にバイトをしていたのが桜先輩。そこから話すようになり、仲良くなった。


「私はやっぱり桜先輩推しかなぁ。目の保養でしかないよ」

と、隣の幼馴染が中年みたいなことを言い出す。美由自身は「美女ランキング」三位なのだが、当の本人はそんなことどうでもいいようで、なんなら推しを作って推している側だ。

「寿人くんはたしか千咲先輩推しだったよね。零はどっち推しなの?」

「俺は別に、そういうの無いかなぁ」

「なにそれ〜、つまんな〜い」

「まぁ、強いて言うなら……」

言葉に詰まりながら幼馴染の顔をじっと見る。

「強いて言うなら?」

「同じバイト先ってこともあるし、桜先輩かな」

「やっぱそうだよねぇ。零、わかってる〜」

自分と推しが同じで嬉しいのか、美由が上機嫌になる。そこへ寿人。

「やっぱお前もおっぱい星人だったのか。見損なったぞ零」

確かに、アスリート体型の千咲先輩と比べると、桜先輩は締まるところは締まり、出るところは出ているナイスバディと言わざるを得ない。だが、推しが違うだけでこの言われようだ。

「アホか」

俺は寿人の頭に軽くチョップした。


放課後になり商店街には惣菜の匂いが混じり始める。

駅前のファミレスに入ると、バイト着の桜先輩がレジ横で伝票を整理していた。


「零くん、おつかれ。斉藤さんが風邪で休みらしくて、今日のホールは私と零くんだけだって」

「わかりました。まあ平日で天気も悪いですし、なんとかなりますよ」

「お、頼りになるねぇ。じゃあ賭けようか」

「賭けですか?」

「そう。お客さんがいつもより少なかったら零くんの勝ち、多かったら私の勝ち。私が勝ったら今後、私に敬語禁止ね」

「なんで桜先輩はいつも俺にタメ口使わせたがるんですか」

「だって千咲にはいつもタメ口じゃん?」

「いや、あれはほら——あの人、俺の扱いすごいんですもん」

いつも強引に部活に勧誘してきたり、無理やり部活に参加させられたり。綺麗な見た目に反して、中身はめちゃくちゃな先輩なのだ。

「仲が良いってことでしょ?」

「そうなるんですかねぇ。で、俺が勝った場合はどうするんですか?」

「うーんとねえ、零くんが勝ったら考えよう!」


案の定、雨の平日だというのに店は大繁盛だった。


「あー疲れたー」

「私の勝ちだね。雨だからこそ混むの。駅前だよ?」

「なるほど。俺の負けですね」

「はい!敬語禁止だよ!」

桜は嬉しそうに指をさす。

「わかった、わかった。もう敬語は使わないよ」

「やった〜!」

何がそんなに嬉しいのかはわからないが、普段は真面目な先輩の無邪気な一面を見られたのは、ちょっと嬉しかった。


店を出ると、雨は上がり、駅前の灯りがくっきりしていた。

「そういえば、最近学校で噂になってる“風”の話、知ってる?」

隣を歩く桜が問いかける。シフトが被った日は、帰り道が途中まで一緒で、よくこうして歩く。

「風の噂?」

「実際に体験してる人は少ないんだけど、突然、冬みたいに冷たい風が吹くって話。怪談みたいに広がってるの」

その言葉で、今朝の感覚が脳裏に蘇る。

「もしかして、零くんも感じたことある? 私も今朝、学校へ向かう途中でね。……いや、実際に感じたことがあるのは数人で、それが大袈裟に大きい噂になってるだけだと思うんだけど」

「でも、実際体験すると気にはなるよな」

「そうなの。まぁ、きっと偶然冷たい風が吹いただけだよね。でも身近に同じ体験した仲間がいて少し安心したよ」


そんな話をしているうちに、いつも別れる交差点に着いた。

「じゃ、おつかれさま! また明日、学校でね」

「ああ。おつかれ」


桜と別れて、一人で家へと歩き出す。正直、気にしても仕方ない。……のに、家に着いても、今朝の冷たい風のことが頭から離れなかった。

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