16 浮気の疑惑
少し前に暇を紛らわそうと庭の草木の手入れをさせたときに、稲の苗がたくさん生えていたのを集めてきて家の軒下に沿って植えさせたことがあった。その後立派に実り始めたので水をたっぷり与えなどしたけれど、今は葉が黄ばみ力無く立っていた。それを見てひどく悲しくなって、
稲妻の光さえ来ぬ我が家では 軒端の苗もものを思うらしい
とつぶやいた。
貞観殿の登子様は、一昨年内侍におなりになった。おかしなこと、こんな私の暮らしぶりをお見舞いくださらないのは、きっとあの人とのご兄妹仲が悪くなってしまったので、私のことまで疎ましく思っておいでなのかしら、もしかしたらこんなふうに私たち夫婦仲が悪くなってしまったことをご存知ないのかしらと思って、お手紙を差し上げるついでに、
ささがには今は終わりの筋だけど あなたとはしばしも絶えずにいたい
と申し上げた。お返事は何やかやと心にしむ言葉がたくさん書いてあって、
絶えたとは聞いて悲しい 年月をどれほど苦楽を越えてきたかと
このお手紙を読んで私たちの関係が冷え切ってしまったのを聞いているのだなと思った。やりきれない気持ちで一日中物思いに沈んでいたら、あの人から手紙が来た。
『手紙を出したけれど返事もないし、とりつくしまがなくて気が引けていたよ。今日こそは行こうかと思っているが。』
などと書いてある。侍女たちが返事をするように勧めるので渋々返事を書いているうちに日が暮れてしまった。やっと手紙を書き終えて使者を送り出したところであの人がやって来た。周りのものはみんなして、
「きっと何かご事情があったのでしょう。知らぬふりをしてご様子をご覧になるのがよろしいかと。」
などと言う。無視して奥に引っ込んでいようかと思ったけれど考え直して応対しに出ていった。
「物忌ばかり続いてなかなか来れなかったが、もう来ないだなんて思ってないよ。あなたがむきになって拗ねているのが不思議でならないよ。」
などと陽気に軽い調子で話すので、こちらの気持ちを無視されたように思い疎ましくてならなかった。翌朝、
「しなければならないことがあるから帰る。すぐまた明日か明後日ぐらいに来るよ。」
などと言う。どうせ本気じゃないだろうけれど、そんなふうに言えば私の機嫌が直るとでも思っているのだろう。明日明後日なんて期待させておいてこれきり来なくなんてこともあるかもしれないと疑って様子を見て待つけれど、どんどん日にちが経っていく。やっぱりそうだと思って、来る前よりもいっそう悲しかった。
いっそ望み通り死ねたならどんなにか楽だろうということばかりずっと思い詰めて考えていた。それでも、一人残される息子のことを思うと悲しくてならない。安心して任せられる妻などに託すことができたら安心して死ぬこともできるのにと思うが、今死んでしまったらどんな気持ちであの子は世の中を渡っていくのかと思うと、やはり死ぬこともできない。
「どうしましょう。尼になって俗世を思い捨てられるかどうか試してみたいと思っているのですよ。」
と息子にさりげなく語ってみると、まだ深くものを考える年齢でもないけれど、ひどくしゃくり上げて声を上げて泣き、
「母上がそうなりましたら、私も法師になりましょう。世の中に交わって頑張って生きる張り合いもございません。」
そう言っていっそう声を上げて泣くので、私も泣くまいと我慢するけれど涙が溢れてくる。軽く言ったつもりが深刻な雰囲気になってしまったので冗談にして紛らそうとして、
「それでは可愛がっている鷹が飼えなくなってしまうけれど、どうするつおり?」
と言ったら、息子は静かに立ち上がって走り出ていき、小屋に入れておいた鷹を腕にのせて大空に向けて解き放った。周りで見ていた侍女たちも涙をこらえきれず、まして私はその日一日ずっと悲しかった。胸に思い浮かんだのは、
争って思いわびる雨雲に 鷹の逃げるのが悲しかった
と言う歌だった。日が暮れるころ、あの人から手紙が来た。どうせ調子いい嘘が書き連ねてあるのだろうと思ったので、
「今は体調が悪いので。」
と言って使いを返した。
七月十日過ぎにもなったので、世間が騒いでいるのに促されてお盆の準備をし始めた。これまではあの人の指示があって本邸であれこれ支度して送ってくれていたが、今年はきっと忘れているだろうなと思った。気の毒に母もきっと悲しんでおいでだろう。しばらく様子を見つつこちらで供物などの準備をしなければならないかしらと考えては涙ばかり垂らしていたら、本邸の方でいつも通り整えてお盆の供物をよこしてきた。あの人からの手紙が添えられていた。返事は、
『亡き母のことを忘れずにおいでだったのね。『惜しくもない身に』の古歌のように悲しいことは、あなたの心がどこを向いているのかわからないことだわ。」
と書いて使いに渡した。
近頃のあの人の態度を考えてみるに、やはり何かおかしい。新しい女に心変わりしたとも聞かないし、急にどうしてこんなふうになってしまったのだろうと訝っていると、事情通の侍女がいて、
「先日お亡くなりになりました小野宮の右大臣様には大勢の御召人がいらっしゃいました。その中の一人をご寵愛なのでしょう。近江が怪しゅうございます。」
などと言う。
「色好きな女のようでして、その者にこちらに通っていると思われないように前もって関係を絶っておこうというお考えなのでしょう。」
それを聞いたいつも側にいる乳母子が、
「まさかそこまでしなくても召人どもは気安い者たちと聞いておりますわ。どうしてそんな大袈裟な配慮をしましょうか。」
などと言う。
「もし近江でなければ、先の帝の皇女あたりかもしれません。」
と疑った。ともかく浮気してるんじゃないかとひたすら怪しくて仕方なかったけれど、
「日没を見るように滅入ってばかりいてはいけません。気分転換にあちらこちらお参りでもなさいませ。」
などと周囲に促される。近頃はあの人の心変わりのことばかり考えていて、明けては愚痴を言い暮れてはため息をついていた。とても暑い時期だけれど周りのものが言うようにこんな生活ばかりしていられないと思い立って、石山寺に二十日ごろに出かけることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます