15 唐崎祓え
こうして四月になった。十日から翌月の十日ごろまで、
「何だか妙に体調が悪くて。」
と言って、あの人の足はさらに遠のいていた。その頃は七、八日おきに訪れるようになっていた。今度は打って変わって、
「体調が悪くて辛いけど我慢して来たんだ。心配だったから。」
などと甘いことを言って、
「夜の闇に紛れて来たんだよ。でもこんなに苦しくてはどうしようもない。内裏にも行ってないのにこんなふうに出歩いているなんて知られたらまずいな。」
とか何とか調子いいことを言って帰っていったあの人だったが、もういい加減病気も治ったというのに今日か明日かと待っているのに虚しく何日も過ぎていった。絶対おかしいと思ったが、心の中で今日は来るに違いないと期待しつつ様子を見ていたのに、何の連絡もなくて何日も過ぎていく。こんなことは今までなかったのにどうしたのかしらと思ったけれど、表面は何も気にしていないように平然としていた。でも内心は、夜になると世の中に響き渡る車の音を胸が潰れるような思いで聞き、時々うつらうつら眠ってはとうとう朝になったと知ってなおいっそう苦かった。あの人のところに行き来する息子にそれとなく様子を聞いても、特に新しい通いどころがあるわけでもないようだ。私のことを気にかけて何か聞いて来るかとも思ったが、そんなこともないらしい。私は悔しくてたまらず、こちらからは決して連絡するものかと意地になりながら明かし暮らしていた。朝、格子を上げて外を見出したら、昨夜に雨が降ったようで木々に露が宿っていた。それを見て思ったのは、
夜のうちは松にも露がかかっても 明ければ消え入るばかりの思いよ
そんはふうに過ごしているうちに、その月の下旬ごろ、
「小野の宮の摂政太政大臣実頼様がお隠れになりました。」
と世間は大騒ぎになった。すると、あの人からあろうことか、
『世の中がひどく騒がしくなったので謹慎していて伺えないのだ。伯父上の服喪で必要なのでこれらの物を急いで仕立てて欲しい。』
と反物と一緒に手紙だけが来た。呆れてものも言えないほどで、
『最近は裁縫を上手にする侍女たちが休暇中でして。」
とそのまま送り返してやったら、あの人はかなり機嫌を悪くしたようで、それから何の連絡も来なくなった。こんな状態で六月になった。数えてみると夜来ないことは三十日以上で、昼に来ないのは四十日以上になっていた。こんなに長い間来ないなんてことは今まで一度もなかったから、浮気でもしているのかと疑わしくてならない。仕えている侍女たちもこの途絶えはどうしたことかと思っているようだった。ショックでまともに考えられなくなり、落ち込むばかり。周りから捨てられた可哀想な女と見られるのが恥ずかしくて、落ちる涙をぐっとこらえた。臥しながら鶯が時期を過ぎても鳴いているのを聞いて心に浮かんだ言葉は、
鶯も終わることなく苦しむか 尽き果てることない声上げてなく
こんな状態のまま二十日以上経ち、この事態をどうしてよいか分からず、気がおかしくなりそうだった。そこでどこか涼しいところへでも気晴らしがてら出かけよう、浜辺あたりで祓えでもしようと唐崎へ出かけようと思い立った。
午前四時ごろ出発した。月がとても明るい。私と同じような境遇の妹と侍女を一人連れて三人で一つの車に乗って出かけた。他には従者に馬に乗った男たちを七、八人連れていた。賀茂川のあたりでほのぼのと夜が明けてきた。さらに行くと山道になった。目の前に広がる京とはすっかり違う光景に、ふさぎがちでやたらものに感じやすくなっているからか、見るものすべてに感動して涙が浮かんだ。逢坂の関に辿り着き、そこにしばらく車を停めて牛に水や餌を与える間に少し休憩した。小暗い山の中から、見たこともないような切り出した木を積んだ屋根のない荷車が何台も連なって来るのが見えた。そんな珍しい光景を目にしていると苦しかった心が入れ替わったように軽やかになってきた。関を過ぎて山道をさらに行くと、見る景色全てに感動をおぼえた。峠付近にくると視界が開けてきた。これからゆく先の景色をずっと遠くまで見渡すと、どこまでも果てしなく湖が広がっていた。島が二つ三つあるなと思っていたら、よく見ると釣り舟なのに気がついた。そのときどうしようもなく涙が溢れてきた。たいしてものを感じない私でさえこんなふうだったので、まして妹の方はいっそう感動して泣いているようだった。二人で恥ずかしいほどに涙が止まらなくなって、互いに目を合わせることができなかった。
目的地まではまだだいぶ道のりがあった。大津あたりでひどくむさ苦しい家並みの続く道を通った。初めて見る珍しい町並みだことと興味をそそられながら通り過ぎていくと、遥々と広がる浜に出た。来た方を見てみると、湖岸に並ぶ家々の前に舟を岸につないで寄せ付けているのがおもしろかった。湖にはゆき交う舟がたくさんあった。さらに進むといつの間にか昼前になっていた。しばらく馬を休めるといって、清水というところを目指して進んだが、あれが清水と見える辺りに大きな楝の木が立っていた。その木の陰で車を停め、馬を浦に下ろして脚を冷やすなどして、
「ここでお弁当が届くのを待ちましょう。目的地の唐崎はまだだいぶ遠いようですから。」
と誰かが言っている。息子の道綱が一人でくたびれた顔をしてものに寄りかかっていたので、お菓子袋から食べ物を取り出して食べさせているうちにお弁当が到着した。それぞれにお弁当を分け与えて食べ、従者の一部はここで交代して帰るということで、
「清水まで無事ご到着なさいました。」
などと報告事項を確認しているようだった。
それからまた車に牛をかけて進み、唐崎に無事到着した。車の向きを変えて祓えをする場所に向かう途中の道で湖面を見ると、風が吹いて波が高くなっていた。行き交う舟は帆をあげて進んでいる。浜辺に集まってひざまづいていた従者の男たちが、
「歌をお聞かせしながら行け。」
と湖の方を向いて舟人たちに命じた。舟人たちは鄙びたひどい声を張り上げて歌いながら漕いでいく。祓えの時間に遅れそうになりながらやっとのことで到着した。祓えをするところは本当に狭い崎で、後ろの方について来ている車は水際に立てていた。湖岸におろした網にはしきりにに波が打ち寄せて、波が引いた後には唐崎にはないと言われている貝があるのが見えた。後ろの車に乗っていた人たちが落ちそうなほどに身を乗り出して網の中を覗き込んでいる。どうやら見たこともないような貝類をいくつも拾い上げて騒いでいるようだった。若い男の従者が少し離れたところに座って、
「さざなみや〜、志賀の唐崎」
と神楽歌を歌うときのように声を張り上げて歌っているのが、とても面白い。風が強く吹いていたけれど木陰がなかったからとても暑かった。早く清水に戻りたいと思った。午後三時ごろ祓えが終わり帰途につく。
立ち去るのが惜しいほどに感動しながら景色を眺めて道を進んでいくと、逢坂山の麓にさしかかったころには午後六時近くになっていた。ひぐらしの声が今を盛りと鳴き満ちていた。その声を聞いていたらこんな歌が思い浮かんだ。
鳴き声を私と競っているのかも 待っていたのね関のひぐらし
と独り言につぶやいたが誰にも言わなかった。
逢坂の関には別名「走り井」で有名な清水の湧くところがあった。そこを目指して馬を急いで走らせて先に到着した従者たちの何人かは、清水のまわりですでに心地よげに涼んでいた。私たちの車が到着して停車したところへ従者たちが走り寄ってきたので、同乗していた侍女が、
「うらやましい駒足早く走り井の」
と歌を読みかけると、
「清水に影は止まることなし」
と返してきた。
車を清水近くに寄せて、周りから見えないように幕をめぐらせてみんなで降り立った。手足を清水に浸していると旅の疲れも悩みもすっかり晴れるような気がした。石にもたれかかって、水の流れる掛樋にお盆をのせて食事をした。ご飯を清水につけて自ら作った水飯は最高に美味しくて、ずっとこうしていたいと思うほどだった。
「日が暮れます。」
と誰かが言って先を急がせてくる。こんな素敵なところにいたらどんな悩みだって大したことなく思えてきて離れたくなかったけど、日が暮れ始めたので仕方なく出発した。
家路を急いでいると、粟田山というところで京から松明を持って来る人が見える。
「今日のお昼ごろ殿がいらっしゃいました。」
と言っているのが聞こえた。なんておかしなこと。まさか私がいない間を狙って来たんじゃないかしらと勘ぐってしまう。
「それで、どうなったのだ。」
と供の者たちがあれこれ質問しているようだった。私があれほど待っても来なくて唐崎まで出かけていないときに限ってわざわざ来るなんてと呆れたと思いながら家に帰り着いた。車を降りると気分が悪くて苦しいところへ留守番をしていた侍女たちが、
「殿がいらっしゃってあれこれご質問なさいましたのでありのままに申し上げました。すると、『なんでそんな気になったのか。間の悪いときに来てしまったものだな。』と仰っておいででした。」
というのを聞いて、夢を見ているようだった。
次の日はぐったりして過ごした。その翌日は幼い息子が東三条邸へ出かけるという。全然来なかったのに留守を狙ったように来たおかしな行動を問いただしてみたいと思ったが、それも面倒だと思った。でも、先日の浜辺の光景を思い出してその切ない思いを言わずにはいられなくて、
『憂き世の中をこんなにみた浜辺では 涙もなにも残りなく見たわ』
と書いて、
「これをお父様がご覧ならないうちにそっと置いてすぐ戻っていらっしゃい。」
と息子に渡すと、
「言われたようにしました。」
と言って帰ってきた。何かあの人から反応があるかもしれないと胸の内で期待していたけれど、何もないまま月末になってしまった。
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