夏の日、ヒナセの海で
戸吹いちこ
夏の日、ヒナセの海で
海へ行こうと思った。
僕の家のすぐ側に、僕が産まれるより前からずっとある、あの青い海へ。身近で、あるのが当たり前で、見慣れて何の興味も無かった。たったの今までは……。
僕はほうっと息をつき、読み終えた手紙を机に置いた。
窓から夕陽が射し込み、部屋の中をオレンジ色に染めている。机の上には、手紙の他に綺麗なガラスのビンが置かれていた。
『海は、ちゃんと海になっていますか?』
手紙の声が頭に響く。
ガラスのビンに入った手紙……ボトルメールを見つけたのは、ただの偶然だった。
学校からの帰り道、僕は海辺の道を歩いていた。別に夕陽が見たかったわけじゃない、いつも通る道だっただけだ。
観光客は「素晴らしい景色だ!」なんて言うけれど、生まれた時から毎日見てると感動もすり減ってしまう。履き潰した靴みたいな……そんな気持ちだ。
いつものように海を無視して歩いていると、視界の端にキラリと光が
波打ち際で何かが輝いている……?
好奇心に負けて近づいてみると、そこにあったのは今では珍しいガラス製のビンだった。中には手紙らしきものも入っている。
半ば砂に埋もれながら、ビンの先端は夕陽を鋭く反射していた。まるで拾ってくれる人を待つような姿に、僕の手は自然と伸びていた……。
『初めまして。わたしの名前は
家に帰り、ビンから取り出した手紙は不思議な挨拶で始まっていた。
ピンク色の数枚の手紙に、丸っこくて可愛い文字が並ぶ。差出人は幼い女の子だろう。
『私が手紙を書きたいって言ったら、パパがボトルメールを教えてくれました。ちゃんと届いていますか? 読んでくれたら、すごく嬉しいです』
家族が大好きなこと、生活は
ただ、一つだけ不思議な点があった。
手紙の中に、『海は綺麗ですか?』『生き物はたくさんいますか?』といったセリフが何度も出てくる。どうやら、ヒナセは海を見たことが無いらしい。
目が不自由なのだろうか……?
その答えは──最後の一枚にあった。
『今日、カラカラだった水路に水が来ました! レバーを引くだけで水が使えるなんて、本当にすごい! それにもっとすごいことがあって。パパが言うには、すごく、すっごーく時間が経てば……地球みたいに海ができるんだって!』
えっ!? もしかしてヒナセは……。
僕はやっと、手紙の秘密に気がついた。
『私は海を見たことないけど、パパ達からいつも聞いてます。とても素敵なものだって! 青くて、おっきくて……海ができれば地上で暮らせるようになるって!』
手紙から、ヒナセの喜びが伝わってくる。
そうか、初期の開拓者は地下の居住区で生活していたから……僕は歴史の授業を思い出し、静かに
『でも……私が生きてるうちはムリなんだって。だから、この手紙を書いてます。パパにお願いして、海底になる場所に埋めてもらうの。いつか、未来のあなたに届くように』
手紙を持つ手が震えた。
ガラスのビンが運んだのは、海の中だけじゃない。
『海は、ちゃんと海になっていますか? わたし、毎日フォボスとダイモスに祈ってます。いつか……この赤い星が、青い星になりますように』
手紙の最後は、そう結ばれていた。
読み終えた後、僕は手紙を書き始めた。
綺麗な用紙に、出来るだけ丁寧に文字を書く。苦心しながら完成させ、ガラスのビンに差し入れてしっかりと封をする。
新たなボトルメールを手に持ち、立ち上がって部屋の窓を開けた。
夕方の涼しい風に、潮の匂いが混じる。
茜色の空の下、あの浜辺はすぐそこだ。
未来から過去へは、連絡なんて出来やしない。それでもこのボトルメールなら……何かが伝わるかもしれない。いや、伝わって欲しい。僕はどうしても、返事を伝えたかった。
ヒナセへ。
この星が、まだ火星と呼ばれていた頃に……海を夢見た少女へ。
海は、ちゃんと海になっているよ。
君が想像した通り、とても素敵な海に。
ボトルメールを大事に抱え、部屋を出る。
ヒナセにこれを届けるために。
だから僕は──。
海へ行こうと思った。
夏の日、ヒナセの海で 戸吹いちこ @tobuki-1226
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