雨降る頃に会いましょう
蟻喰淚雪
第1話
あの子と会うのは、決まって雨の日だ。
高校卒業を間近に控えたあの日、私はいつものようにあの公園の東屋に向かったんだ。
人気の無い公園のすみっこの東屋。
そのひんやりして、ほんの少しじめっとした、あの雰囲気が、あの頃の私には心地よかった。
いつも私一人だけの場所に、君がいたもんだから少し驚いた。
君は雨宿りをしていたね。
あの日も、今日のような雨の日だったから。
公園の遊歩道を傘を差しながら歩いた。
雨の日は嫌いだ。
地面はぐずぐずして靴が汚れるし、ベンチは湿っていて、座り心地が悪い。
何より、右足の傷痕がじくじく痛むから。
東屋が見えてくると、いつも私一人のその場所に、今日は人影が見えた。
それだけでちょっと驚いたのだけど、その人影が私の見知った人だったから、その事に気付いた時には尚のこと驚いた。
宇田川だ。
友達ってわけじゃないけど、二年の時に同じクラスだった。
彼女は東屋に座り、一人、静かに本を読んでいた。
「隣、いいかな」
私が尋ねると、宇田川は「……ええ」と小さく呟いて、端に寄るようにして、席を空けた。
正面に座ろうか、隣に座ろうか迷ったのだけど、正面よりは少し間隔を開けて隣に座った方が、私達の距離感としては正しいように思えた。
一年間、同じクラスで過ごした事もあるってのに、私は今日初めて宇田川と話をしたんだから。
私は宇田川の座ったベンチの、反対側の端っこに腰掛けた。
静かに本を読む宇田川の横顔を、私は横目でちらちらと見た。
やっぱり綺麗な顔だ、と思った。
宇田川は綺麗な子だ。
そんなに上背があるわけじゃないけど、スタイルもいいし、銀縁の眼鏡から覗いた切れ長の目が知的な印象で、この田舎の町からは、はっきり言って、少し浮いていた。
学校の女の子達も皆、本人に直接言ったりはしないけど、宇田川の事、綺麗だって噂してる。
場所が場所ならすごくもてたんだろうな。
でもさ、ここじゃ違うんだよな。
田舎町の中高一貫の女子校でもてる女の子ってのは、大人しくて、真面目な女の子じゃないんだよ。
「……雨宿り?」
沈黙に耐えかねたってわけじゃないけど。私は何の気なしに、そう尋ねてみた。我ながら間の抜けた質問だったけどね。
宇田川は視線を本に落としたまま、また小さな声で「……ええ」と呟くだけ。
「話すの、初めてだね」
宇田川があまり話好きじゃないだろうなっていうのは、なんとなく知っていたけれど。
どうでもいいような事を尋ねて、それっきり押し黙っちゃうのは、なんだか気まずくて、話を続けた。
「そう、だったかしら」
宇田川はほんの少し記憶を掘り起こすように考えてから、ぱたん、と本を閉じた。
「……貴女も雨宿り?」
宇田川の方から話を振ってきたものだから、私は少し面食らってしまった。まあ、私の質問と同じ話題をおうむ返しに投げかけてきたわけだから、それは彼女なりに気を遣ってくれただけなのかもしれないけど。
「私は、別に。大体いつもここで時間を潰しているから。それだけ」
「どうして?」
本を閉じたというのに、宇田川は私と顔を合わせようとはせずに、東屋の外、しとしとと降りしきる雨を眺めていた。
おかげで私は今度は堂々と宇田川の横顔を眺める事が出来て、そのおかげで彼女が「どうして?」なんて聞きながらも、本当のところは興味なんか無さそうに無表情でいるのがわかってしまったのだけど。
「足、怪我しちゃってさ。部活も辞めちゃって。どうやって時間を潰していいんだかわかんなくて。ここでぼんやりしてるんだ」
私が右の足首をさすりながら言うと、宇田川は初めて私の方に目線を向けた。と言っても、私の足首に目線を落としただけなのだけれど。
「……もう、バレーは出来ないの?」
その言葉に私は正直驚いた。
宇田川は、私がバレー部だって知っていたんだ、って。
自慢じゃないけど、私は同級生の間じゃ有名人で、私がバレー部に入ってる事や、そこそこ名の知れた選手だった事なんて、皆が知っていると思ってる。
それでも、宇田川は他の子とは、ちょっと違う奴だと思っていたから。
あんまり他人に興味が無い奴だと思ってたし、女子校らしい同性への憧れとは無縁の奴だと思ってたから。
だから、びっくりした。
私がほんの少しの間、言葉を失って黙っていると、宇田川が視線を逸らして、申し訳なさそうな表情を浮かべるのが目に入った。
「ごめんなさい。嫌な事を聞いたわ」
ああ。宇田川は、私の怪我の事を蒸し返して、私を傷つけたと思っているのか。
そんなんじゃないのにな。意外と気を遣う奴なんだ。
「いや、いいよ」
私は咄嗟に宇田川の気遣いを否定してやった。もっと気の利いた事が言ってやれればよかったのだけど。
「ええと、何の話だっけ」
ぼんやりとどうでもいい事を考えていたせいで、何の話だったか忘れてしまった。そうだ。もうバレーが出来ないのか、って話だ。
「……どうかな。出来るかもしんない」
他人事みたいに呟いた私の言葉に、宇田川がほんの少し安堵したように見えたのは、私の気のせいだっただろうか。それとも、彼女は気を遣う方みたいだから、そういう素振りを見せてくれたのかな。
「でもさ、これから先、何か壁にぶつかる度に、あの怪我が無ければ、って思いながら続ける事を考えたら、ぞっとしてさ。続けてらんなかった」
「そう、なのね」
宇田川は今度は少し残念そうな表情を浮かべたように見えた。同情してるようには見えなかったけど、少しだけ悲しそうに見えた。そんな彼女に私は「うん。そう」としか言ってやれなかった。
その後、しばらく沈黙があった。
私はいつも通り、ただ、ぼーっとしていたけど、宇田川の方ももう一度本を開こうとはせずに、ぼんやりと遠くを眺めているように見えた。
「宇田川はさ。卒業したらどうするんだっけ」
沈黙に耐えかねたのは私の方だ。
私は足下に目線を落としたままで、そう尋ねた。
「東京の大学に進学が決まっているわ」
淡々と答えた彼女の言葉に、思わず「へえ」と声が漏れた。
「私も東京の大学に行くんだ。まあ、君の行くような学校とは、レベルは違うだろうけどね」
「……もしかしたら。向こうで会うかしら」
宇田川の言葉を聞いて、私は顔を上げて、彼女の方を見た。彼女は、初めて私の顔に目を向けていて。初めてお互いの視線が交わった。
その視線。私にはとても覚えがあった。
宇田川。
君もその目で私を見るんだね。
箱庭の中の短い時間。
お姫様になりたい君達は、いつも王子様の代わりを探しているんだよな。
憧れの投影だとか、寂しさを埋めるためだとか。
ほんの少しの隙間を埋めるために、君達は自分の理想に近い女の子を、きゃあきゃあ持ち上げて、王子様の役割を与えるんだ。
だからだよ、宇田川。
ここじゃ、君みたいな女の子より、私の方がもてるんだ。
だから、君のその視線には、私はとっても覚えがあるんだよ。
「……どうだろう。会えたら面白いかもな」
それでも私は宇田川の視線には気付かないふりをして「ほら、雨が上がったよ」なんて話をはぐらかしてみせた。
お姫様達はやきもち焼きだから。
王子様は誰か一人のものになるわけにはいかないんだ。
いつも、もしかしたら、なんてほんの少しの期待を持たせて、はぐらかしてやるのも、私に求められている役割ってわけ。
「綺麗に晴れたわね」
そう言って、髪をかき上げながら、雲の切れ間から覗く日差しを見上げる彼女は、やっぱり綺麗で。
彼女だけは、本当にお姫様なのかも、って思えた。
「雨は嫌いだけど、雨上がりって結構好きだな」
「……私も」
そう言った宇田川は、雨はあがったというのに、帰るんだか、帰らないんだか、ぐずぐずと自分の髪の毛先を弄んでいた。
「私はもう少し時間を潰していくから。気にしないで先に帰っていいよ」
私がそう言ってやると、宇田川は「……そうね」と名残惜しそうに立ち上がった。これは気のせいじゃなかったと思うな。いつもしゃんとしてる宇田川が、あんなにぐずぐず立ち上がるのは初めて見たからさ。
「じゃ、また」
「うん。また」
微笑みかけて手を振ってやると、宇田川も遠慮がちに手を振り返した。
私は遠ざかっていく宇田川の背中をしばらく眺めていたけど、その足取りはほんの少し浮き足立ってるように見えた。
それで、私はちょっとだけ、いい気分になったんだ。
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