百合の殺人推理

あべせい

百合の殺人推理



「アッ、来たわヨ」

「どれ、どの人よッ」

 東京郊外は、ある私鉄駅前の商店街の八百屋「八百茂」の前で、2人の主婦が、ひそひそと内緒話をしている。

 秋もたけなわの、天高く、よく晴れた日だ。

 主婦は40代と30代の近所どうし。

「ほらッ、赤いバンダナを首に巻いている、あの小父さん」

「あァ、あの人。あの男の人が、2千円男なの?」

 と、30代半ばの主婦。

「まァ、見ていなさい。おもしろいから……」

 黒いキャップを被り、真っ赤なバンダナを首の周りで片結びした40代半ばの男が、2人の主婦の間を縫って、「八百茂」の店頭に現れた。

「いらっしゃいませッ」

 「八百茂」の女将、亜於衣(あおい)は、愛想よく男を迎える。

 そのとき「八百茂」の店頭には、新参の2千円男を除けば、ひそひそ話の主婦のほか、老夫婦が一組いるだけだった。

 2千円男は、3間の間口いっぱいに並べられた商品を一通り見ていく。

 ネギ、ほうれん草、大根……いや、男は、「栗、葡萄、柿……」と口の中でブツブツとつぶやいている。

 彼の関心は専ら果物にある。もっとも、トウモロコシやトマトといった、果物の範疇から外れる野菜や穀類にも興味はあるが、この季節、彼が八百茂に求めるのは、専ら果物だ。

「イチジク、バナナ、メロン、マンゴー、梨、リンゴ……」

 男のつぶやきは止まらない。


「きょうは、プルーンとアンズがお買い得ですよ」

 亜於衣が男の顔を見て言う。

 男は3日おきに、いつも2時過ぎに来るが、買うものを決めるのに手間取る。一人ではなかなか決められないようだ。しかし、その本心はどうか……。

「プルーンとアンズですか。私は、サンシャインマスカットが大好きなンです。でも、きょうはちょっと高い……」

「シャインマスカット?」

 高いと言われて、亜於衣は、黄緑色したブドウを見た。

 歩道に最も近い場所に20数房のサンシャインマスカットが、それぞれグリーンの紙容器にくるまれて並んでいる。

 サンシャインマスカットは、皮ごと食べられて、種もない。値段が高いにもかかわらず近年急激に人気が出てきた売れ筋商品だ。

 すると、亜於衣は、男のそばに体を寄せて、「いいンですよ。特別に安くさせていただきます……」

 ささやくように、小声で言った。

「そォ、ですか……」

 しかし、男は口ほどには喜んでいる風はない。何が不満なのか。当然とでも思っているのか。

「ほかに、気になるものはありますか?」

 女将はふだんの調子に戻って、男を促す。

「そうだな?……女将さんは何がいいですか?」

 「いいですか?」と言われても、亜於衣はすでに、「プルーンとアンズ」を勧めている。しかし、それについて男は反応しなかった。

 男は値段の安い果物には関心が向かないのだろうか。

「イチジクにマンゴーかしら……」

「じゃ、それで」

 男はそう言って、千円札を2枚差し出した。

「毎度ありがとうございます」

 亜於衣は、そう言ってお代を受け取り、すばやくサンシャインマスカットとイチジク、マンゴーをレジ袋に入れて、男に手渡した。

 男は何事もなかったように、来た道をひき返す。

 ひそひそ話の2人の主婦は、店先から少し離れると、去っていく男の背中を見送りながら、再びおしゃべりを始める。

「おかしいでしょ」

 と、40代後半の主婦。

「何が? 2千円、ぴったりの買い物をしたこと?」

「だって、女将さん、わたしたちには、品物を寄越すとき、『はい、いくらいくらです』って、はっきり金額を言うのよ。それなのに、あの男のひとには、何も言わずに、2千円を受け取っている」

「そう言えば、そうね」

 30代半ばの主婦は相槌を打ちながら、別のことを考えている。

「それに……」

「まだ、あるの?」

「お勘定よ」

「?」

「サンシャインマスカットにイチジク、マンゴーよ。あのマンゴーはメキシコマンゴーだから、国産に比べると安いけれど、3つ全部足したら、2350円になるの」

「暗算したのね」

「しかも、税抜きでよ。これって、おかしいでしょ」

 40代後半の主婦は、怒りを満面に表している。

「そォ、そうね」

 相槌を打った30代半ばの主婦には、八百茂の女将の動きに、もっと気になることがあった。

 亜於衣は、男が買った果物を男に寄越すとき、店先に紐で束にしてぶらさげているレジ袋ではなく、自分のエプロンのポケットの中からレジ袋を取り出し、それに果物を入れて男に手渡していた。

 30代主婦は、40代主婦と別れると、「これは、何か、ある」と考えながら、家路についた。

 

 30代半ばの主婦は、名前を矢場百合(やばゆり)という。彼女には、2千円男に見覚えがあった。

 男は、彼女と同じ町内ではないが、彼女が住む団地から駅に行く途中のコンビニで、ときどき見かける。

 いつも昼過ぎで、男は店内をうろうろして、惣菜や弁当、缶ビール、缶詰などを買っている。独身なのだろう。

 そうだ。いまから行けば、あのコンビニで男に追いつける。百合は、急いで、いつものコンビニに向かって走った。

 いたッ。

 2千円男は、雑誌売り場で立ち読みしている。八百茂で買ったレジ袋を右手に下げて。

 百合は、コンビニのドアをくぐると、2千円男の背後をゆっくり通り過ぎた。

 男は、雑誌を読んでいるのではなかった。開いた雑誌のページの間に、小さな紙片を挟み、それを見ている。

 百合は咄嗟に、よろけて。

「すいません」

 詫びると同時に、男の雑誌から落ちた紙片を拾って、男に返した。

 男は、ぶつかってきた百合を一瞬不審げに振り向いたが、紙片を返され、

「いいえ……」

 と言って、雑誌を元に戻し、その場を離れた。

 百合の心臓はドクドクと音を立てている。

 彼女は、紙片に書いてあったメモを、素早く読み取っていた。

 百合には、そんな能力がある。

「仁梨さま 明日、午後5時30分、お待ちしています。亜於衣」

 2千円男は「仁梨」という名前らしい。「亜於衣」は八百茂の女将の名前だ。

 百合は女将の夫が、脳梗塞で長く入院していると聞いている。

 「八百茂」は、百合の夫が、結婚する前に始めた店で創業23年、住まいを兼ねた店舗は、結婚後に建て替え、築10年になる。

 亜於衣と仁梨は、許されない関係なのだろうか。そうだろう。そうでないと、こんな手のこんだ連絡方法はとらない。電話かメールにすればいいだけだ。いや、古風な、こんなやり方を好む人間もまだいるのかも知れない。

 百合も、別れた夫と職場でつきあっているとき、うわついたメモをやりとりして、興奮した時期があった。

 百合はそれとなく、2千円男の仁梨の後について、コンビニの店内を回った。

 仁梨は、弁当、ケーキ、菓子パン、そして化粧品コーナーに立ち止まり、整髪料とスキンクリームを店内用バスケットに入れた。

 百合は即席麺を3個買って、レジを待つ仁梨のすぐ後ろに並ぶ。そのとき、百合には、その後どうしようか、という考えは何もなかった。しかし、……。

 百合は、コンビニの外に出た途端、仁梨を尾行しようと決意した。娘の帰宅は、1時間半後だ。

 仁梨は、駅前の踏み切りを渡る。

 彼の自宅は線路の向こうなのか。線路の向こう側にも賑やかな商店街がある。それなのに、彼は、駅の踏み切りをこちらに渡り、徒歩で7、8分もかかる、商店街の八百屋までわざわざ足を運んでいるのか。

 どうして? 素朴な疑問が湧き起こる。

 いや、自宅に帰るのじゃないだろう。どこかに用事があって、踏み切りを越えたのだ。

 百合はそう思って、彼に続いた。

 しかし、仁梨は踏み切りを渡りきると、商店街には入らずに、幹線道路のほうに進ンだ。

 そこには公務員の官舎になっている1棟の5階建て集合住宅がある。仁梨は迷うことなく、その中に入って行った。

 集合住宅は全体が低い塀で囲まれていて、仁梨が入った出入り口の脇には「赤塚消防署独身寮」のプレートがあり、そばには、「関係のない者立ち入るべからず」の立て札があった。

「あの人、消防署員なの?」

 百合は、信じられない思いで、そのプレートを見つめた。

 その集合住宅には、ほぼ10m置きに5階まで上がる3つの階段があり、百合がハッとして我に返ったとき、仁梨がどこの階段に消えたのか、わからなくなった。


「仁梨さま 明日、午後5時半、お待ちしています。亜於衣」

 百合は翌日、スーパーで買い物をすませた後、午後4時前に、「八百茂」に出かけた。

 この夜、百合は息子と映画を観に行く約束をしていて、午後6時には帰らなければいけない。

 この日の水曜日は「八百茂」の定休日だ。通りに面した2階の窓ガラスには人影があり、亜於衣がまだ室内にいることを窺わせた。

 女将の亜於衣は、闘病中の夫を見舞うため、出かけるだろう。夫の見舞いに行かなければ、どうしたのだろうと看護師たちが心配する。

 問題は、その後だ。メモが本当なら、亜於衣は、どこかに立ち寄る。

 百合のそのときの心中は、自分が他人のプライバシーを侵そうとしている罪悪感に比べ、プライバシーを覗きたいという好奇心が勝っていた。

 よくないことだ。こどもには決して知られてはいけない。そうしたことを重々承知しての行動だった。

 ところが……。

 亜於衣は、午後4時10分に、「八百茂」の横手の路地に面した家の玄関から出てきた。

 百合は、商店街通りの、「八百茂」の看板がよく見えるドラッグストアの店先に立ち、後ろ向きで、ちらちらと亜於衣の家を見張っていた。

 亜於衣の表情に緊張はなかった。ふだん通りのようすで、アイボリーのタイトスカートに濃紺の半コート、足下はローヒールを履いている。

 彼女は、すれ違う顔見知りの客には如才なく挨拶をして、駅に向かった。彼女の夫がいる病院は、ひと駅乗って下車すれば、徒歩で10数分の距離。

 百合は用心深く、亜於衣から10数メートル離れて、ついて行く。

 亜於衣は、午後4時30数分に病院に着き、エレベータに乗った。

 彼女の夫の病室は、最上階の9階と聞いている。百合は急いでエレベータホールに行くと、彼女が乗ったエレベータが9階に停止したことを確認した。

 受付と会計がある広いホールには、多くの患者がいて、たくさんの椅子の1つに腰掛けていれば、出てくる亜於衣の監視は簡単に出来る。しかし、この病院には、広い表玄関のほかに、裏口もある。もし、亜於衣が病院を出る際、裏口を使えば、それは仕方ない。尾行は打ち切りだ。

 百合は、表玄関のホールで亜於衣が現れるのをひたすら待った。

 長く感じられた。そろそろ帰宅しないと、息子との約束が果たせなくなる。百合はそう思って椅子から立ちあがった。

 そのとき、亜於衣がようやく現れた。時刻は午後5時12分。これで5時半の待ち合わせ時刻に間に合うのだろうか。百合は疑問を持った。

 それとも……。

 亜於衣は、来た道をそのままなぞるようにして、同じルートで帰宅した。

 あのメモは何だったのか。時刻を読み違えたのか。百合は自信がなくなった。


 百合は35才独身。小学3年の息子がいる。ふだんはパート勤めと家事に追われている。勤めはシフト制だから、出勤と退勤の時刻は、曜日によって異なる。

 帰宅が遅い日は、午後8時を過ぎることもある。幸い、学童保育があり、息子は午後5時まで学校にいて、その後は家でテレビなどを見て、母の帰りを待ってくれている。

 いつも息子には、寂しい気持ちをさせてすまないと思っている。しかし、これが、百合の選択した道だった。

 百合は2年前、離婚した。原因は夫とのすれ違い。夫は本庁捜査1課の刑事で、仕事に忙殺されていた。

 結婚するときは、充分承知していたことだが、いざ実際に結婚生活が始まると、夫の不規則な帰宅に、ついていけなくなった。

 いったい、何のために結婚したのか。これだとひとりでいたときのほうが、はるかに気楽でいい。

 百合はそんなことばかりを考えた。そして、そんなとき、夫がある所轄の事務職の若い女性と、危険な関係にあるという噂を耳にした。百合は、もう我慢できないと思った。

 夫に不倫の事実はなかったが、夫は、その若い女性に心が動いていたことを認めた。百合は、涙を見せずに離婚を要求した。夫は承諾した。


 百合は離婚に際して、慰謝料と財産分与で、1千万円近い現金を手にした。息子の養育費は請求通り、毎月、4万円振り込まれてくる。

 住まいは夫と購入した3LDKのマンションにそのまま居続けている。ローンは夫が支払う条件だ。名義は夫との共有だが、百合は、5年以内に別の住まいを探し、移り住むことが離婚の条件にもなっている。期限まで、あと3年。

 再婚を考えないことはないが、息子がいることはやはり障壁になる。それに、出会いも少ない。百合が好ましく思っている男性がいないわけではないが、妻子のいる男性ばかり。夫で懲りているから、百合自身、不倫するつもりはない。

 しかし、他人の色恋は気になる。やはり、妬ましいのだろうか。

 3日後。午後4時を少し過ぎた頃。

 百合はいつものように、パートの帰りに「八百茂」に立ち寄った。息子の好きなハンバーグをつくるため、玉ねぎと人参を買って行こう。

 そのとき、「八百茂」には1人の男性客がいた。若い。マスクもいい。百合好みだ。まだ20代後半だろう。

 百合は、若い男にすぐ目がいく自分が恥ずかしくなった。

「いらっしゃい」

 女将の亜於衣はいつもの笑顔で、百合を迎えながら、若い男性客に大きなレジ袋を手渡している。

「ありがとうございます」

 そう言って、彼が去る姿をジーッと見つめている。

 女将も若い男には関心があるのだろう。百合は幾分、救われた気がした。

 若い男性客は、「八百茂」の少し先に駐めてあった青い国産クーペに乗った。

 エンジンをかけ、走り去る際、窓ガラスの内側に右手を差し上げ、女将に挨拶する仕草をした。

 亜於衣は、それに対して、うれしそうに小さく手を振って応えている。

 百合はその光景を目にして、急に妙な気分に陥った。ここの女将は、若ければ、どんな男性客にも、あんなに愛想よく振る舞うのだろうか。わたしにだって、出来る。あれくらい、イイ男だったら……。

「奥さん、きょうは何にしますか?」

 百合は女将に声をかけられ、我に返った。

「玉ねぎ5個と、人参3本、キャベツ1つ、それとプルーンに……」

 百合は店先に並ぶ果物を見ていて、紙箱に入ったシャインマスカットにふと目がいった。

「シャインマスカット、おいしそうね。ひと箱いただこうかしら……」

 言ってから、シマッタと思った。

 よく見ると、ひと箱1200円と表示されている。いつもより、200円以上、値段が高い。

 百合のパート収入では、高価すぎる果物だ。ひと箱と言っても、ひと房30粒程度しか、実は付いていないのだから。

 しかし、百合は思った。たまには、いいか。息子にもおいしいものを食べさせたい。わたし自身にも。百合はそう思い直して、財布を取り出した。

「おいくらかしら?」

 すると、亜於衣は、

「ちょうど2千円いただきます」

「エッ」

 百合の計算では、2100円に消費税がプラスされるはずだ。

「あのォ。金額が違いませんか?」

 百合は、亜於衣に尋ねる。

 すると亜於衣は、百合に顔を寄せ、ささやくように答えた。

「いいの。きょうは、朝からいいことがあったから。サービスよ」

 いいこと? あの、仁梨とかいう不倫相手と、いい約束でもしたのだろうか。百合はそンなことを考えながら、品物を受け取ると自宅のほうに足を向けた。

 あの日、2人は約束通りの時刻に会っていない。そうか。尾行されていることに気がつき、待ち合わせの日時を変えたのだ。そうとしか考えられない。

 そのとき、百合と入れ替わるように、2人のスーツ姿の男が、「八百茂」の店頭に現れ、亜於衣に挨拶をした。

 百合は何かを感じ取り、足を止めると、何かを思い出したようなそぶりをして、来た道をひき返す。

 そして、買い忘れたものがあるような顔をして、八百茂の店先で、

「なんだったかしら……買って欲しいと頼まれていたものが、あったのだけれど……」

 とつぶやく。

 2人の男は、亜於衣を店の奥のほうに導き、懐からバッジのようなものを取り出し、示している。

 あれは、警察手帳だ。

 百合は、2メートル先の店の奥で、戸惑っている亜於衣の目の前に突き出された警察手帳に目を見張った。

「奥さん、3日前の水曜日ですが、午後8時頃、ご自宅におられましたか?」

「……」

 その言葉で百合は、思い出した。

 3日前といえば、亜於衣が仁梨とデートするのだと考え、あとを尾けた日だ。結局、女将は夫を見舞ってそのまま帰宅している。

 その後百合は、夕食を兼ね、息子にせがまれていたアニメ映画を一緒に観に行った。その帰宅の途中、「八百茂」の前を通りかかった。

 あれは、午後9時45分頃だった。

 なぜなら、午後10時から、楽しみにしているテレビドラマの最終回の放送があり、見逃せないと、帰宅を急いでいたから。9才の息子だって、そう証言できるだろう。

 そのとき、「八百茂」の通りに面した2階の窓は、カーテンが引かれ、中に明かりがついていた。

 アリバイというのだろうか。しかし、どうして?

 そのナゾは、百合が自宅に戻ってから、明らかになった。百合は暇さえあれば、インターネットをいじっている。

 ネットのニュースの見出しに、「赤塚消防署員が遺体で発見。金銭のもつれか?」

 と、あった。

 クリックして詳しく見ると、被害者の氏名が、あの「仁梨泉(になしいずみ)」とある。

 仁梨泉は、昨日の早朝、青梅の山中から遺体で発見された。彼は、赤塚消防署で、主に救急隊の仕事をしていた。しかし、仕事のかげで、金貸しをしていたらしい。自宅からは、彼が金を貸していた人物の住所、氏名、借用書等が見つかり、警察はそれらをもとに捜査をしているとあった。

 「八百茂」を訪れた2人の男は、刑事に違いない。刑事は亜於衣の犯行時刻のアリバイを問いただした。ということは、「八百茂」の女将が仁梨と連絡をとりあったのは、デートではなく、借金返済のためだった。百合はそう推理した。

 仁梨程度の男に、あの女将が惚れるわけがない。百合は自分の判断基準で、そう考えた。

 百合は久しぶりに、興奮を覚えた。ドラマのような事件が身近で起きたのだ。

 仁梨の死因は、鋭利な刃物による刺殺だった。体内から、致死量ほどではないが、毒物も検出されたという。

 亜於衣は、仁梨からお金を借りていた人物の1人であり、被疑者にされたのだろう。

 しかし、百合は彼女が被害者の死亡時刻に、自宅にいたことを証言できる。警察から聴かれれば、いつでも亜於衣のアリバイを証明してあげようと考えた。

 ただ、3日前は、亜於衣が仁梨と会う約束をした日だ。しかし、彼女は会っていない……。その点が、百合の心の中で、しこりのように引っかかっている。

 1ヵ月後。

 「八百茂」は3日間、臨時休業した。理由は百合にもわからない。野菜と果物だけは、安くて新鮮だからといつもスーパーからの帰り道、「八百茂」に立ち寄るようにしている百合は、その3日間、仕方なく、スーパーで買い物をすませた。

 しかし、3日間の臨時休業の後は、何事もなく、「八百茂」は、いつも通り、女将の亜於衣が店頭に立って声を嗄らした。いつもの「八百茂」が戻ったのだ。

 ところが、買い物にくる主婦の間で、闘病中だった亜於衣の夫、茂民(しげたみ)が病院で亡くなったという噂が広まった。

 百合は、それなら、お悔やみのひとつも言わなければと思い、その日、スーパーの帰り道、「八百茂」に立ち寄った。

 すると「八百茂」の店頭に、見かけない男がいる。野菜の段ボール箱を奥から担いできて、店先に野菜を並べている。

 あれッ。あのひと……。

 百合の反応に、商品をザルに仕分けていた亜於衣が振り返る。

「奥さん、きょうからきてくれたバイトさんです。羽革(はがわ)さん、よろしくね」

「こちらこそよろしく……」

 百合は、その男性を見て、お悔やみを言うきっかけを失い、呆然となった。

 バイトといっても、学生の年齢ではない。どうみても、20代後半。それに、体ががっしりしていて、マスクもいい。

 どこに、こんなステキな男がいたのだろう、と羨むような好男子……。そこまで考えたとき、百合は思い出した。

 1ヵ月ほど前だったか。亜於衣が店先から愛想よく見送っていた、若くて、イイ男。彼だ。あのとき、彼は「八百茂」に、バイトの面接にでも来ていたのだろうか。

 さらに1ヵ月が過ぎた。

 いつものように「八百茂」に立ち寄り、野菜を物色しているとき、ふと頭上の看板に眼が行った。

 看板が新しくなっている。それだけではない。それまでの「八百茂」が、「八百新」になっている。

 百合が看板文字に釘付けになっていると、亜於衣がそばに来て、

「夫が亡くなったものですから、気分を一新するために新しくしたンです」

 うれしそうに話す。

 2ヶ月ほど前、「八百茂」は3日間臨時休業した。あの3日間は、彼女の夫が亡くなったため、その葬儀のための休業だった。

 百合の自宅は、八百茂から、徒歩で10数分の距離があり、同じ町内ではない。事情は伝わりにくい。噂も、1ヵ月以上たってからでないと、近所づきあいの苦手な百合の耳には届かない。そういうことなのか。

 百合の頭のなかで、複雑にからんでいたモノが、急にすっきりと整理されていくような気持ちがした。

 そのとき、亜於衣が店の奥に向かって、

「シンちゃん、マンゴーの段ボール、持って来て」

 弾ンだような声をあげた。

 すると、すぐに、あのマスクのいい若い男性が段ボールを肩に担ぎ、現れた。

 あれが、「シンちゃん」ってッ!。

 看板の「八百新」の「新」は、新しいという意味なンかじゃない。

「女将さん、ご主人、紹介してくださらない?」

 百合は、憎らしい気分がして、声を張り上げた。

「ハッ、はい」

 亜於衣はびっくりしたように振り向く。「シンちゃん、ちょっと」

 と、好男子を呼んだ。

 百合は、男が目の前に来ると、機先を制するように、

「わたし、こちらによく来ます、百合といいます。これからもよろしくお願いします」

 そう言って頭を下げた。

 すると、男も、

「い、いえ。羽革新造です。こちらの2代目というか、八百屋を務めさせていただいています。これからも、ご贔屓に願います」

 被っていたキャップを脱いで、ペコリと頭を下げた。

 なかなか、腰の低い男だ。これなら、庶民相手の八百屋は務まるだろう。しかし、……。

 百合は、変死した消防署員の仁梨泉のことが、釣り針にからんだテグスのように、心の隅でわだかまっていた。

 まだ、犯人は逮捕されていない。亜於衣は、仁梨から、借金をしていた。恐らく、夫の入院、治療費の類いで、お金に困ってのことだろう。

 しかし、仁梨の急死で、返済の必要がなくなったのではないのか。そして、都合よくと言っては失礼だろうが、夫の茂民が入院先で死亡した。

 亜於衣は、すぐに羽革新造と再婚している。法律の関係で、入籍はまだだろうが、実質上結婚生活を始めている。

 百合は、他人の幸せに水を差すほど野暮ではない。しかし、彼女の心のなかでモヤモヤしたモノが、徐々に形になってきている。

 仁梨が亡くなる10日ほど前だった。

 百合は、買い忘れたものがあって、午後7時過ぎに「八百茂」に自転車で走った。「八百茂」は、午後7時閉店と聞いていたが、少しくらいなら待ってくれるだろう。

 近付くと、店の明かりがまだ点いていた。亜於衣が商品を店の中に取り込んでいる最中だった。

 百合は、自転車のスタンドを立てると、

「すいません。こんなに遅く。息子が明日、理科の教材に使うおイモを買い忘れて。サツマイモでも、ジャガイモでもいいンですが……」

 そう亜於衣に話しかけた。

「サツマイモね。サツマイモなら、あの辺に。待ってください」

 そのとき、百合はイモらしいものが入っている段ボール箱が店の隅にあるのを見つけた。

「あそこにあるのじゃ……」

 すると、亜於衣は、

「いいえ。あれはジャガイモ。すっかり芽が出てしまって、売り物にならないの……」

 段ボール箱の底に20個ほどあるが、なるほど気味の悪い、赤い芽が、あちこちから噴き出ている。

「あのジャガイモは、どうされるンですか?」

「捨てるしかありませんが、芽をとって、わたしがいただくしかないわね」

「でも、ジャガイモの芽は毒なンでしょう?」

「そうだけど、芽をすっかりとって、よく火を通せば、食べられるから……」

 亜於衣はそう言うと、ジャガイモを1つ手にとって、毒々しいその芽を指先で撫でまわした。

 いまから、2ヵ月以上も前の出来事だ。

 百合は、息子を寝かせてから、パソコンを開き、「ジャガイモの芽の毒」について調べた。

 ジャガイモの芽には、ソラニンと呼ばれる天然毒素が含まれていると言われる。加熱しても毒素は消えない。もし、亜於衣がジャガイモの芽を抉りとり、それを乾燥させて粉にして、仁梨の飲料水に入れたとしたら。

 あの日、亜於衣が仁梨をメモで呼び出したのは、彼女が仁梨に会うためではなく、仁梨を共犯者と会わせるためだったとしたら。その共犯者は、あのイイ男、シンちゃん、だったとしたら……。

 百合の想像は止まらない。新造は女将とワケありで、女将が借金返済に困っていることを知り、凶行に及んだとしたら……。

 さらに、亜於衣が、闘病中の夫の飲み物に、粉末にしたソラニンをひそかに盛ったとしたら……。

 百合は想像か妄想か、自分でもわからなくなった。

 しかし、これらは、状況証拠でしかない。警察に通報すべき内容だろうか。

 亜於衣に恨みはない。亜於衣のことは、八百屋のいい女将だと思っている。

 そうだ。2割近くもサービスしてくれたことがあったっけ。

「朝から、ちょっといいことがあったものだから……」

 あのとき、亜於衣は言った。そして、仁梨が青梅の山中から遺体で発見された。体内から毒物が検出されたほか、致命傷になったのが、刃物による刺しキズだった。

 亜於衣は、夫の看病に疲れていただろう。毎晩、店を閉めてから、病院に通っていたと聞いている。

 脳梗塞でリハビリを続けていたが、言葉と、右半身が不自由で、もう1度発作が起きれば、命の保証はできないと言われていた。そして、実際、そのようになった。

 百合にはかわいい息子がいる。別れた夫とは、毎月第1日曜日に会っている。夫は再婚するつもりはないと言っているが、この先はどうなるか、わからない。

 百合夫婦の離婚原因は、世間によくあるすれ違いだ。刑事だった夫の帰宅はめちゃくちゃだった。休日出勤も日常茶飯事。こんなことなら、一緒にいる意味がない。だから、よく話し合って、別れた。

 でも、離婚するほど嫌いだったわけではない。だから、月に1度の息子との面会日は、息子以上に、百合は楽しみにしている。

 離婚については、夫にも言い分はあるだろう。刑事の仕事は結婚する前、十分に説明したはずだ、と。

 明後日は、夫との面会日だ。亜於衣のことを詳しく話して、彼の意見を聞いてみよう。

 よりを戻すには、話題は多いほどいい。元夫と月に1回以上、会える口実に出来るかも知れない。

                 (了)

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百合の殺人推理 あべせい @abesei

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