第13話 孔舎衛坂(くさえさか)の戦い






「イワレビコどの、ここには酒も珍味ためつものもどっさりある。つづみを打ち、笛をふき、琴をかなで、女に舞わせて楽しくやろうじゃないか。それほど急いで戻らずとも、もう二、三日、ここにいてはどうだね?」




 ウマシマジは、スメラギが屋敷から去るのを名残惜しそうにしていた。

 単に、話し相手もいないこのマキムクで退屈していたということもあるが……。

 たった一晩、閨戯ねやのあそびになれさせた女を、ほんのかりそめのちぎりで、骨抜きにしてしまったこの男に興味もあり、もうすこし眺めていたい気になったのだ。



「いや、一旦もどらねばならぬ」

 しかし、スメラギはその申し出を断った。

 勢いにまかせて馬を駆ってでてきてしまったが、側人にも告げずに何日も留守にするわけにはいかないと思ったのだ。

 イワレむらでは、姿を消したスメラギを案じ、騒ぎになっているかもしれない。



(………だが、サヒをほうっておくわけにもいかぬし)

 身二つにならぬ歯がゆさに、スメラギの心は乱れた。

 それゆえ、やや語気が荒くなった。

「おい、よいか。一旦ここを離れるが、必ずまた折をみてまかりこすゆえ、それまでにサヒに……」

「サヒ?」

「イスズヒメのことだ。あやつの身になにかあれば………いや、それでは足らない。あの巫女に滋養ある温かいものを食べさせ、柔らかいふすまを着せ、丁重に扱え。そうしなければお前も、この屋敷の女たちも、どうなるかわからないぞ!」


 ウマシマジは破顔し、

「まだそんなことを仰る。わかっておりますよ、あの娘はヤマト平定の要となる巫女なのでしょう」

 そういって、明るく「あはは」と笑った。

「そうだ」

「イスズヒメは、マキムクでもっとも地位の高い巫女が住まう『ヒメの宮』に住まわせ、かの誇り高きヒメミコさまの気の向くままに過ごせるよう心を砕きましょう」

 ウマシマジはそう受けあった。

 スメラギはひとつ頷くと、うまやから引き出した黒鹿毛の駿馬にひらりとまたがると、風のようにいってしまった。



 ウマシマジはそれを見送り、

「よくもまあ放胆な方だよ。よくも、わしの屋敷を訪ねてきたものだ。わしが敵か味方かもわからぬというのに………」

 と、ひとりごとをいった。

 しかし自分には別段、二心というものはない。

(そう思えば、運のある方だ。わしの館を訪ねてきたのだから……)



 ウマシマジにとっていくさ政治まつりごとも、別段どうだってよかった。

 ただおもしろおかしく毎日を過ごし、楽しいときが長くつづけばいいと思っているだけで。

 自分はニギハヤヒの子ではあるが、これまで子として優遇されてきたわけではないし、アスカの宮に義理立てするいわれはない。

 そもそもアスカの宮とツクシの宮とは、もとを辿れば「ひとつ」の血脈だ。どちらの味方につくかなど、考えたこともなかった。







 一方、馬上のスメラギは……

(これではだめだ。落ち着かなければ)

 気がはやる自分に気がついていたが、焦る気持ちをどうしたらいいのかわからずにいた。

(落ち着け……)

 冷静さをとりもどすかわりに馬の尻を思いっきり蹴り込んでしまい、ますます馬が加速した。

(俺は、これ以上仲間を失いたくないのだ)

 スメラギは唇を噛み締める。



 まだから幾月もたっていない。

 あの、屈辱の敗北の日から………スメラギにはこの数ヶ月、振り払っても振り払っても脳裏にこびりつき、忘れることのできない「記憶」があった。





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 ひときわ大きく、いきいきと葉を茂らせたマキのその太い枝に、人影がみえた。

 そのときその木の向こうから、ちょうど日がのぼってくるところであった。

 太陽の光はきらきらとまぶしく、強い逆光でその男の顔は見えなかった。


 長く引いた影のせいか、とんでもなく長い脚に見えた。

 男は、強い風がふきすさべどもみきに掴まるわけもなく、枝に足裏あしうらが吸いついたように、揺るがずに立っている。


 スメラギは、見た。

 その男が、長い腕をねじりあげ、ゆっくりと矢をつがえるのを。

 ためらうことなく、矢を引きはなつ。

 その矢は中空を裂き、またたく間に己の……スメラギの喉元をめがけてかけりきた。



 あっという間のできごとだった。

「……くうっ!」

 気がつけば、スメラギの隣にいたイツセがひじをおさえ、うずくまっていた。

「あにうえ!」

 スメラギは絶叫した。

 イツセノミコトはとっさにスメラギをかばい、自らの肘脛ひじはぎを負傷したのだ。



 その矢が合図であったかのように、雨あられのごとく矢が降り注いた。

 あたは坂の上から、一方、スメラギら率いる皇軍みいくさは坂の下から相対あいたいした。

 しかし、矢を頭上から射かけられればひとたまりもない。



退け!」

 スメラギの号令で、皇軍は一旦退却し、たまらず皆、近くのカシノキの影に身をよせた。

 その間もつぎつぎに矢が飛んできて、木や茂みに隠れきらない者たちが射かけられる。

 首を撃ちぬかれ、横ざまに倒れる者、眉間を撃たれ、跳ね飛ばされる者…――。射手は一人ではない。丘の上の茂みには多数の射手の気配がある。またその者どもの腕前もかなりのもので、正確に人体の急所を狙ってくる。




「もっとこの木に寄るのだ! 木の陰へ入れ!」

 久米臣くめのおみは、射手から隠れるように兵士らに指示した。

 兵士らはその声に従いネズミのように息を殺し、身を潜めた。



やからどもめ! 戦の作法もへったくれもないわ!」

 道臣みちのおみつるぎで矢を払いながら、木の陰へ滑りこみ、つばを飛ばしながら毒ついた。

 そもそも戦のはじまりには、まず両軍で「忌矢いわいや」を射るものだ。それもなく、ましてや天孫すめみまに対して、鹿ししを射るときと同じように作法もなく、めくらめっぽうに射かけるなど聞いたこともない。




「おそらく、………あれが」

(………ナガスネビコだ)

 久米臣がスメラギの耳にだけ聞こえるように耳打ちした。

 スメラギは何も言わず、ただ頷いた。

 仇敵ナガスネビコに、なすすべなく初戦で敗退したとあっては皇軍にとって大きな名折れとなる。

 ここでナガスネの名を死んでも口にしたくなかった。

「退くぞ」

 しかし、降るような矢に遮られるものがカシノキ一本では、いかんともしがたい。苦渋の決断をくだした。




 スメラギは坂の上の槇の木の上に立つ、そのどす黒い影を凝視した。

 陽の光を背にして堂々とたたずむ影は、白い歯を剥きだしにして、不敵なうすら笑いを浮かべているようだった。




 スメラギがナガスネビコとおぼしき人物と、じかに対峙したのは、この孔舎衛坂くさえざかの戦いがはじめであった。





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 イツセの傷は、さほど深いものではなかったが、矢尻にはたっぷりと毒が塗られていた。

 マムシの毒かなにかなのだろうか。

 幾重にもぬりこめられた強い毒は、肘脛ひじはぎから徐々に全身にまわり、負傷したイツセは昼も夜もなく全身が激痛に襲われるようになった。



 そのころ皇軍は、陸から安全な船の上へと移動していた。

 甲板の上で身をくねらせ、毒がまわる苦しみにのたうち回るイツセ。

 誰も、なすすべもないまま、ただ見守るしかなかった。

 しかし、やがて彼の意識は次第に混濁し、呼びかけにも答えなくなっていった……




「うおおおおおおおお!」



 ある朝、みながまだ寝ている朝ぼらけ。あたりに獣のような咆哮が響き渡った。

 みな「なにごとか?」と目をさますと、そこにイツセがつるぎを天に掲げて立っていた。

 道臣みちのおみなどは唖然とし、目をしばしばしている。

 その雄叫びは海面をゆるがし、陸の向こうのナガスネビコの住処まで届こうというすさまじい雄叫おたけびであった。



 そして、急に力尽きたようにへたり込み、

「……ああ、あんないやしい奴の手にかかって……なんの報復もできぬまま、死ぬなんてなあ……」

 かすれた声でポツリと呟くと、イツセはばったりその場に倒れふし、それきり息絶えてしまった。




(イツセの兄君は、俺の身代わりになって死んだのだ)

 大きな槇の木からあの男は、スメラギの顔面に正確に狙いをさだめていた。

 それを、イツセは身を呈してさえぎった。



 スメラギはあのときの気持ちを、どう表現していいのかわからない。

 悔しさ、悲しさ、憎らしさ、しかしそのどれもが足らない言葉であった。

 どんな言葉も空虚で、物足らなかった。


 歯ぎしりをしたいような悔しさ。

 おのれの臓腑をえぐり出したいような悲しさ。

 相手の歯を全部へし折りたいような、憎らしさ。

 思い出すのも嫌だった。

 あんな思いはもう二度としたくなかったのだ。


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