5


 結局、恋人の弟が来ようと来まいと、ぼくの夕食の献立に変わりはなかった。

 ほんとうに調子に乗って作りすぎてしまったものは冷蔵庫もしくは冷凍庫、あるいはぼくの胃袋へ。使われなくなった皿やら箸やらは、ぜんぶまとめて台所のたくさんある収納のうちのどこかへしまった。新居の台所は、調味料やら料理器具をぜんぶしまってもまだ半分も空のままだった。ちょうどひとりぶん余計になった皿やら箸も、作りつけの収納扉のなかへ問題なく収まる。そもそもこの収納力に惹かれて、ぼくは三口ガスコンロの立派な台所を選んだのだった。キッチン周りはみるみるうちに片付いた。

 どうやらぼくが与えようと思ったものは、彼にとってはちょうど欲しいものではなかったらしい。あるいは、ぼくにはそれを望まないか。どちらにせよ、彼に拒絶されたという事実は、すくなからずぼくの心に打撃を与えていた。そして、与えようと差し出したものは、彼に受け入れてもらえなかったがために、まだぼくの家の玄関口を漂っている。仕事から帰宅して、廊下の蛍光灯を点けると、安っぽい光がぼくの感情の残滓をちかちかと照らすのだ。確実に何かを失ったぼくといえば、あの日からぽっかりと体に空洞ができてしまった。このがらんどうの心の埋め方をぼくは知らない。

 でも、たとえ名前も知らない恋人の弟が来ようと来まいと、仕事が終わって十八時過ぎに帰宅することには変わりがなかった。

 共用部の廊下を歩きながら、つい昔の癖でリュックにいったん閉まってしまった鍵を取り出す。ふと顔を上げると、彼の家のドアの前に立っていた。期待めいたものが、どくん、どくんとぼくの鼓動を鳴らす。

 もしぼくが彼の家のチャイムを鳴らしたとしたら。

 ぼくは自然と彼の家に体を向けていた。鍵を握っていないほうの右手を伸ばす。

 もしもぼくがとつぜん家にやってきたとしたら、彼はどんな顔でぼくを迎えるだろうか。

 一歩を踏み出そうとしたところで、チャイムの上、部屋番号の横に表札が出ていないことに気がつく。その瞬間、高揚しきった心がすとんと足下まで落ちた。一人暮らしだし、だいたいいまどき表札なんて掲げなくても誰も困らないし、そんなことが彼を構成する重要な部分でもないし、なんならぼくはこのときまで自分の家の表札の存在なんてすっかり忘れていたし、べつにどうってことないはずだけど、まっさらなプレートを見たらなんとなく足がすくんでしまった。

 ふう、とため息をついて、右手で鍵を握り直す。

 もしぼくが彼の家のチャイムを鳴らしたとして、それでたまたま彼が家で暇をしていて玄関を開けてくれたとして、だからなんだと言うんだ。どうせ当たり障りのない世間話を数分して、家にもあげてもらえず、すごすごと帰るだけだ。そうに決まっている。

 ずいぶん重くなった春物のコートを体から剥ぐようにして脱ぐ。濃紺のロングコートは体から落ちると、間抜けな音を立てて床に落ちていった。廊下の電気は点けずに、手探りでダイニングへと向かう。そのまま、先週末に買ったカーテンを開けると、窓も開けていないというのに夜の落ち窪んだにおいがぼくの鼻をついた。鬱陶しいからいっそのこと窓を開けてしまうと、その香りはいっそう強くぼくの体を包んだ。昔から、夜の重力はあまりすきになれない。外にいるときには感じなかった重さが、ぼくの心を無性に逆撫でる。帰りしなに駅前のスーパーで食材を買い込んできたのに、夕飯の支度をする気にもならない。仕方なしに、出窓に腰掛けて、さっき買ったばかりのビールに手をかけた。

 整然としたキッチンとは反対に、手入れをさぼった庭のように、部屋のなかは荒れきっていた。生活用品を出すために中途半端に開かれたダンボール。床に散らばった服やらタオルやら。邪魔だからという理由で方々にしまわれた小物たち。かんかんと光る廊下の蛍光灯とは違って、いまにも消えてしまいそうなダイニングの照明。

 荷物がすくないとはいえ、引っ越しは体力を使う。それに、上京したてのころとは違い、ぼくにもそれなりの歴史が積み重なってしまっている。しまうにしろ捨てるにしろ、いっそ飾るにしても、整理しなければならないことがたくさんあった。

「めんどうだな」

 そう独りごちると、とたんにすべてがほんとうのことのように思えてしまう。

 あの夜、ぼくが何かを間違えたのは明らかだった。何かというのは、言うべきことやすべきことのはずで、その答えを意識下では理解しているものの、ぼくの心の内側では混沌としていた。目を閉じると、彼の冷え切った瞳を思い出す。あの日、ぼくが口にした言葉は、あのときたしかにぼく自身が感じたことだった。言葉が先で、心があとにくる。たいていの場合、そうだろう。それの何がいけなかったっていうんだ。

「悲しみや苦しみを忘れさせてあげるというのに」

 声に出してみてはたと思う。ほんとうに? ぼくにそんなことできるの? 

 己のうちから湧き出た問いの答えを探そうと試みるも、アルコールで浮ついたぼくの脳みそはそう易々と動いてはくれない。煩わしさから逃れるように、出窓の木枠に体を預け、そっと目を閉じた。

 ほとんど意識を手放しかけていたところ、とつぜん耳慣れない音が鳴った。寒い冬の朝に毛布を引っぺがされたような焦燥を感じ、驚いてまぶたを開けると、薄闇のなか、インターフォンの画面が光っていた。ピンポン、もう一度底抜けに明るい音が鳴る。

 ろくに確認もせずに玄関を開けると、そこには恋人の弟がいた。

「お久しぶりです」

「どうも」

 間の抜けた返事と一緒に手から離れていったドアを、代わりに彼が押さえる。アルコールと急な目覚めのせいで、どくん、どくんと心臓が波打つ。身体中で鳴り響く早鐘を誤魔化したくて、代わりに、相対する男をまじまじと見つめると、もとの陶器のような顔に戻っていた。

「お腹が空いたんです」と彼は言った。

 あ、そう、とぼくは口にした。それ以上の言葉が見当たらなかった。

 恋人の弟は、怪我の名残が気になるのか、ただ気まずさを紛らわせたいだけなのか、口元を掻いた。

「すばるさんの家なら、なにか食べるものがあるんじゃないかと思って」

「きのう作ったカレーなら」

 思わず、そう答えていた。彼は眉毛をわずかに上げ、ほんと? と尋ねると、ぼくの答えを待たずにすっと体を扉の内側に滑り込ませ、あのまんまるの瞳でぼくをじっと見つめた。


 ダイニングまで彼を通すと、ひとりで過ごすぶんにはそれほど気にならなかった部屋の散らかり具合が、急に恥ずべきことのように思えてしまった。足下にはガムテープやら梱包材が散らばり、ダイニングテーブルにはとりあえず置かれた小物の数々が存在感を放つ。並び立つ彼はとくに何も言わなかったが、気配がどうも困惑している。ダイニングテーブルがおよそ食卓として機能しないことを確認すると、はたとぼくを見た。奥に座ってて、と言うと、視線を二、三泳がせて六畳の寝室兼書斎へと歩いていった。

 窓を開けていても、人の声ひとつしない静かな夜だった。ほんとうに何も聴こえないのだ。世界そのものが呼吸をやめてしまい、動いているものといえば、ぼくと彼の心臓だけ。生きているものといえば、ぼくらの心だけ。この街を常に徘徊する潮風だって、今はどこにも存在していなかった。

 明日の夕飯にでもしようとタッパーに保存していたカレーを取り出し、電子レンジで温める。同じくいつでも食べられるようにと冷凍していた米を取り出し、電子レンジへ突っ込む。こんなしょうもない料理で、はたして食べ盛りの男は満足するのだろうか。

 ベッド横のサイドテーブルにカレーを運ぶ。彼はベッドを背もたれにして、その様子をなにとはなしに眺めていた。反対に、ぼくはなるべく彼自身を見ないようにして隣に腰を下ろしたが、たえず視界の端に彼が映っているのを意識すると、ぼくは苦笑いを堪えなければいけなかった。

 ぼくはいつか彼に恋をするのかもしれない。

 そのときは遠からずやってくる。すこし前から、そんな予感がしていた。

 ぼくのまとまりのない思考を知ってから知らずか、隣に座る男はふと口を開いた。

「そもそもあなた、男もすきになれたんですか」

「そうなのかな」ぼくははたと考える。「いや、どうなんだろうね」

「どっちですか」

「そんな白黒はっきりできるものじゃないでしょ、世界って」

 彼はふっと吹き出した。ぼくの知らない、大人びた笑みだった。

「なに?」とぼくは言う。

「世界、ってずいぶん大きく出たなあって思って」

「大きく出ざるを得ないでしょ。あんなださいこと言ってしまって、こっちはもう失うものしかないわけだし」

「そんな言い方、」彼はスプーンを空中で泳がせたまま、はたと瞳を揺らす。「あ、いや、なんでもない」

 宝石みたいな瞳は、放物線を描いて落下していく。お腹が減ったと言っていたのに、彼はスプーンを握ったまま、肝心のカレーを口にしようとしない。とたんにぼくは腹が立ってきた。ついこの間、この男は鍵がないと嘘をついた。今度はたいしてお腹が減っていないのに、手料理をせびりにくる。ぼくが与えようと思ったものは、いらないと突っぱねたくせに。

 さいきんのぼくはどこか変だった。なんでもないことで笑ったり、くだらないことに憤りを感じたり、この男の気持ちがわからないと虚しくなったり。居心地の悪い空気を呑み込むように、カレーライスを頬張る。こんなにみじめで、こんなにもみじめな気分なのに、自分で作った料理はやはり美味しかった。

「冷めるよ」とぼくは言う。

 顔を上げる。犬でも狼でもない。ただ、二十の青年がぼくを見つめる。

「すこし前に、あいつとさよならしてきたんだ」

 そう口にすると、ほんとうになんでもないことのように彼は口元を歪ませた。

「ああ、そう」とぼくは言う。

「あんた、ほんとうに驚かないよな」

「これは自戒を込めて言うんだけど、きみの人生はきみだけのものだから、だれかに口出しできる権利なんてものはないんだよ。まあでも、この間よりいくぶんかきみの顔がすっきりしているから、よかったなとは思っているけど」

 彼はどうも、と言って、ようやくカレーを口いっぱいに頬張った。

 テレビのないこの部屋は、静寂がやけに目立つ。ひとりだと気にならない静けさも、いまはぼくの味方にはなってくれないみたいだ。景気付けにラジオでもつけようかと腰を上げると、隣に座る男がぼくの腕を掴んだ。

「おれはさ、」

 中途半端な格好で捕まってしまい、中腰のまま続きの言葉を待つ。ぼくを見上げる瞳は、やはり茶色がかっていた。宝石みたいな光を放ってゆらゆらと揺らめく。その色に吸い込まれれみたくて、ぼくは顔を近づける。まぶしいとき見える太陽の輪っかみたいに、彼の瞳の外側は茶色くぼやけていた。瞳の真ん中はこの世の汚れをしらない無垢な色を灯している。その境界線は、やはり彼だけが持つ美しさの象徴のように思えてならなかった。

 揺蕩う静寂に身を任せているうちに、彼のなかに、ぼくの青みがかった黒い瞳がほんのり混ざる。すると、ちょっとした宇宙みたいな色を灯した。ちかちか、きらきら。そんなふうに光るから、まるでぼくのまでうつくしいと思えてしまう。

 くいとすこし強めに引っ張られ、しぶしぶ腰を下ろした。ぼくを掴む手はそのままゆるゆると下降していき、最終的にスウェットの袖をとらえる。

「おれはさ、けっこうあなたのことが好きだよ」

「けっこう?」

「すばるさんが思ってるよりも、けっこう」

「それは、」一度口を閉じて、逡巡のち、しまいかけた言葉を取り出した。「それは、どういう意味の好き?」

 もはや指の震えを隠している場合ではなかった。風なんて吹いてないのに、ぼくの鼻はつんとした潮の香りをとらえた。隣の青年はぼくに目を向けると、ゆっくりと口を開く。早く、早く、とぼくは焦る。すべてがスローモーションでやけにはっきりと映る。言葉よりも早く、感情の水が迫ってくる感覚もある。彼はぼくの葛藤を知ってか知らずか、薄い唇をわずかに震わせると、ようやく言葉を発した。

「白黒はっきりさせないほうがいい、ってどこかで聞いた格言があるんだけど」

 そう言うと、狼は肩をひとつすくめて、ぼくに向かって頬を緩めた。

 それは欲しかった答えではなかった。でも、そもそも最初から答えなんて欲しかったわけでもないのかもしれない。なんだか拍子抜けしてしまい、つられて笑みが溢れる。そんなぼくを見ると、彼はふたたび目を細めた。

 ふたりの間に漂っていた重苦しい気配が、ふっと解れた。代わりに、左肩に沈み込むような重みを感じる。隣の青年が体を寄せた。やわらかな毛髪が頬をくすぐる。まるで、ひなたの若草を思わせる匂いがした。

「ありがとう、ほんとうに。あなたのおかげで、おれ、最近ずっと楽しかったんだ」

 ぼくの肩口に額を擦り付けるようなかたちで、ぽつりと呟いた。

 ほんとうに、楽しいんだ。彼はもう一度、そう繰り返した。

「世界が、まっすぐ見える。みどりちゃんのことも、父さんも母さんのことも、まえまでは靄がかかってよく思い出せなかったんだけど、最近はちゃんとわかるようになったんだ。あなたはさ、辛いことは忘れさせてくれるって言ったけど、おれ、いまは何も忘れたくないよ。あの日、あなたと食べたカレーライスの味も、あなたが得意げにスパイスを唱えていたことも、あいつに殴られてる間ずっと虚しかったことも、みどりちゃんがおれを置いて死んじゃったことだって、ぜんぶぜんぶ忘れたくない。すこしまえなら、なにもかもあなたに縋ってだめにしてしまっただろうけど、いまなら大丈夫、そんな気がするよ」

 誰にも内緒のだいじな宝物をひとつひとつ取り出してはぼくに見せるように、彼はゆっくりと言葉を発した。伏せた睫毛が影になって、深く澄んだ瞳を溶かす。ああ、このひとはこんなふうに喋るんだな。ぼくはようやく理解した。心が先で言葉はあとにくるんだ。海辺の砂を拾い集めるように、夜空の星を数えるように、そうやってひとつずつ心を開いてくれるひとなんだ。ぼくの眼前に漂っていた霧はいよいよ晴れ、夜だというのに春の日なたの香りがそこらじゅうに満ちていく。

「ねえ、ずっと楽しいがいいな。おれ、すばるさんとなら大丈夫な気がするよ。あなたはおれといてずっと楽しいでいられる?」

 ひとつ頷こうとして、はたと立ち止まる。ほんとうに「楽しい」は死ぬまで続くだろうか。

 かつて彼女は永遠なんてものをぜったいに誓わなかった。たとえ冗談であっても、ぼくらの関係性に「ぜったい」なんて言葉を持ち出すことはなかった。ぼくはそれをぼくらの年齢が離れていることや、彼女にはまだ見守るべき弟がいるからだと思っていた。ぼくにとって、その事実はすこし、いやかなり寂しかったけど、今から思うとあれは彼女なりの誠実さの表れだったのではないだろうか。ぼくはみどりさんのことが大好きだったし、彼女もぼくやこの弟を愛していた。それでも、彼女は死を選んだ。惜しみない愛情を注いだぼくらと死を天秤にかけたのだろうか。それはわからない。だけど、ぼくだって、彼だって、そうならないとは言い切れない。「ずっと」なんて約束は、いずれこのひとやぼくの心を縛る鎖に変わる可能性だってある。

「それは難しいかもしれないね」

 散々迷った挙句、ぼくはそう口にした。

 彼は不安そうな顔でこちらを見上げる。

 そういえば狼は犬の仲間だった。彼はやはり犬のようだなとぼくは思った。一匹狼は仲間を見つけた。孤独を受け入れることを知った。これから彼はどうなるのだろうか。

 こうやってこのひとと話しているうちにも、彼女と過ごした日々はどんどん遠くへ行ってしまう。彼女のフルートみたいに上品に震える声は、まだたぶん覚えている。わりに上がりがちな語尾の特徴的なトーンも覚えている。思い出は、忘れてしまったものはもう思い出せないけど、まだ両手で掬いきれないほどあるはずだ。でも、彼女の顔はもう、深い森のなかにいるみたいにおぼろげだ。

 じゃあ、彼女がはこぶ風のにおいは? 夜になると彼女を覆う孤独の気配は? 目には見えないものすら忘れてしまうことが、つまるところ記憶のリミットのように思っていて、昔はそれがほんとうに怖かった。なのに、最近大丈夫みたいだ。なぜだろう、わかるかい? 彼女にそう問いかけてみた。

 寂しくないよ、大丈夫。窓の向こう、夜の真ん中で、あのひとはそうやって笑った気がした。

 こみ上げる気持ちを春の風に流し、口を開く。

「難しいかもしれないけど、努力はするよ」

 彼はなんだそれ、とちいさく口にした。

 ああ、とぼくは唸る。恋人の弟は、やはり狼のような瞳で笑うのだった。

 ぼくたちは一生わかりあえない。つい最近まで、そんなあたりまえの事実に打ちひしがれていたのに、いまはそれすら愛しく思えるような気がしている。初めて空を飛んだ鳥のように、ぼくの心はいま、これまでになく自由だ。不思議だね、とぼくの心のうちにいるはずの狼に問いかけてみる。

 ぼくの孤独は、誰も知らない森の奥、おおきなおおきな湖の底にある。

 湖の対岸、森の奥から、狼はぼくを見た。

 ぼくも狼を見つめかえす。たちまち森の気配がそこらじゅうを覆いつくす。誰も知らない場所が、ぼくらふたりだけの世界になる。

 言葉もなく、ただ視線をかわす。それだけでいい。ほんとうにそれだけで生きていけるような気がしてしまうから。

 うつくしい瞳の淡いを漂っているうちに、ようやくぼくは彼の名前を思い出した。

「こはく」

 ああ、そうだ。このひとの名前は、こはくと言うのだった。

 弟の名前、こはくっていうの。わたしは翡翠のみどり、彼はこはく。ふたりとも宝石なの。瞳の色が由来。ねえ、ほら、見て。わたしたちってとっても素敵なきょうだいでしょう?

 澄み切った湖にゆらゆらと沈んでいくような、おだやかな気配がぼくを満たす。

 もう一度その名を呼ぶと、彼はちいさく首を傾げた。

「こはく、ってどういう漢字を書くんだい」

 彼は僅かに眉を上げると、大儀そうにのそりと体を伸ばし、テーブルに放ってあったメモ帳とボールペンを引き寄せた。つい最近、転勤が決まったときにもらったすこし高価なボールペン。自分には不釣り合いだと思って使ってなかったけど、この青年の白く薄い指にはぴったりと馴染んでいるみたいだ。肩が触れ合う。すると、彼は窮屈そうに体をねじった。

 かちり。ボールペンをノックする音が、鐘の音みたいにぼくの心の真ん中を打つ。

 彼は、メモ帳の隅に「琥珀」と書いた。

 静けさそのものみたいな、すごくきれいな字だった。

 ためしにそれを指でなぞってみる。誰かとはじめて手を繋いだ日のことを思い出す、やわらかな感触があった。やめろよ、くすぐったい、と彼が小さく口にする。

 ふと顔を上げると、同じタイミングで彼もぼくを見る。

 ぼくはいずれ恋をするのかもしれない。

 彼はふたたび愛を知るのかもしれない。

 予感はたえず胸のうちで鼓動を鳴らしていた。でもいまはまだ、もうすこしこのままでいさせてほしい。たとえそのときがもうすぐそこに迫っていたとしても、そのとき、それを選ぶのはほかでもないぼくらだ。そう、ぼくらには選ぶことができる。この先の人生を誰と生きるのか、誰の手も取らなくてもいい。誰かひとりを愛しぬくのか、誰も愛さないのか。誰かと恋に落ちるのか、そのどれでもない人生を歩むのか。ぼくらははてしなく自由なのだ。

 目を瞑り、明日、明後日、それからその先に待つ長い旅路に思いを馳せた。彼女を思ったときの遠い感じとはまたすこし違う、茫洋たる思いに支配される。すると、たちまち隣の青年から立ちのぼる若草の香りが、ぼくの心を甘やかにくるんだ。ままならない人生のなかで、彼の香りだけがほんとうのことのように思えてならなかった。

 未来は簡単に今になって、過去はぼくが望もうと望むまいとやっぱり思い出になってしまう。だったらいまはまだ、このやわらかな香りに身を委ねていたっていいだろう。すこしだけ、もうすこしだけ、と心のうちで呪文を唱える。解けない魔法はいらないけど、今日くらいはゆるされたっていいじゃないか。

「すばるさんは?」

 彼はふと思い出したかのようにそう口にした。呼びかけに応じてまぶたを上げ、言葉の続きを促す。

「名前、ひらがな?」

「ちがうよ」

 ぼくは彼の手にそっと自分の手を重ね、ボールペンを握る彼の右手を包む。

「こうやって書くんだ」

 春の風が、ぼくらのこれからを占うように頬を揺らした。

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