第2話 小さな望み

 生きている以上、すべての生き物はいつかは死を迎える。

 ならせめて生きているあいだは幸福な人生を送りたいと、人は望む。天に願う。

 この世界は光と影のように、きこととしきことが背中合わせで存在していて。

 難なく幸せを享受きょうじゅできる人がいれば、罪を犯しても無いのに地の底に転落したかのように不幸まっただ中な人もいる。


 となるとポラリス・クライノートは、まさに地の底の住人と呼べる境遇の持ち主だった。


 

 チャイムが昼休みの開始を告げた。

 二月下旬。冬が長く夏が短いエテルノ王国では、当然のように凜とした寒気かんきが街を人を包んでいる。

 

 王都シレンシオの名門女子高校の、薄く暖房が効いている教室。

 教師が退出した瞬間、一旦授業から解放された女子生徒たちはそれぞれお喋りしたりお昼を食べる支度を始める。


 可愛らしいランチボックスを手にする者、仲良し数人で連れ合って美味と評判の学生食堂へ急ぐ者。いずれにしてもきゃっきゃと楽しそうだ。


 ここは来月にこの高校を卒業する、三年生のとあるクラスだった。現時点でほとんどの生徒の進路が決定しており、たまに登校してやることと言えば卒業式などの式典練習と、残り時間がわずかな学友との交流を楽しむことくらい。


 ほぼ大学進学の生徒が多数派だが、少数ながら海外――マナの世界への留学や就職の道へ進む者もいる。


 卒業したら通話でお喋りするのも難しくなるような生徒もいて、早くも友人同士で別れを惜しむ姿も見られた。


「あんたアルコバレーノ王国に行くんだっけ?」

「そうそう。だって魔法使ってみたいし」

「マナの世界に行くんだもんね。すごいねー!」

「そういうあなたは国一番の難関大学に合格したじゃない」


 クラスの一軍と呼ばれるきらきらした空気を振りまく女子グループの数名が、いかにもハイレベルな語らいをしている。


 ここにいる誰もがこれまで親しんできた日常との離別を不安に思い。そのあと始まる真っさらな新しい生活へ期待を馳せていて。


 玉虫色たまむしいろに輝く感情で胸を一杯にしている。

 ただ、一人を除いては。


 音も無く、十八歳のポラリス・クライノートが自分の席を立ち上がった。


 途端、示し合わせたように教室中にひそひそ声が広がる。


「……あの子、次期聖女になったんでしょ? よくなれたよね、暗ったいのに」

「リーヴィアちゃんのこといじめてたくせに、人を癒やせるわけないじゃんか。絶対人選ミスだよ」


 ――いじめてなんかないのに。


 真実と嘘が混ざり合った会話に、ポラリスはぎゅっと目をつむった。 


 わざと本人に聞こえる音量で交わされるひそひそ話の波が、教室中を伝播でんぱする。

 悪口まみれの大波をかぶるポラリスの心などそっちのけで、少女たちのお喋りは悪意の黒い薔薇ばらを咲かす。


 女子同士の関係には何かと意味も無く毒やいばらがついて回るものだが、それにしたってこれは異常であった。


「てことはあたしたち、あいつに守られるの? シレンシオ出てこうかな」

「ずるいよね、次期聖女に選ばれただけで騎士さまが付いて魔法が使えて、その騎士さまと婚約だなんて」

「んー。聖女の生活は厳しいから、無能だって神殿に捨てられるかもしれないわね」

「わー、それだったら良いかも」

「それか騎士さまに乱暴されたりしてえ」

「キャハハハ、えぐすぎー!」


 ――場を離れよう。


 必死にこわばる足を動かし、ポラリスは一歩ずつ外へと歩いて行く。早く、早くここから逃げなければ。悪口など平気な顔をしていなくては。


 じゃないともっと自分が傷つく。


「でもかわいそう、騎士になる人が」

「こうでもしないとあの人誰とも結婚できないでしょ」

「別に結婚しなくても生きていける時代だけど、友達だって一人もいないもんねー。ここまで人に嫌われることができるっていうのも珍しいっていうか」

「まあ自業自得だし」


 早く、早く、早く。


 目まいがする。今日は朝固いパンを一欠片食べただけだからだろうか。お昼は元々何も食べるものは無い。せめて水道の蛇口じゃぐちをひねって水分はとらなければ。


 昼休みだけで無い。他の休憩時間も授業中も。ポラリスが学校で安らげる時間は一秒たりとも無かった。





 ――なんだか体が、氷みたいに固まってる。





 数時間後にようやく学校という牢獄ろうごくを脱出したポラリスは、ふとある人の名を呼んだ。

 空腹に慣れきった体は時折気分の悪さやふらつきを起こすから、まぎらわす意図もある。それ以上にその人のことを想っているから。


「リヒトさん……」


 ――私、生きています。

 ――たくさん傷ついてもう何も感じなくて。でも生きています。


 

 慣れるということは恐ろしい。傷にも痛みにも耐性ができて、いずれ人間としての自尊じそんも忘れてしまう。



 ポラリスの実家は豪華な邸宅ていたくだった。

 パーティーが開ける広さのリビングも、ホームシアターやサンルームも、公園のように広く整備された庭園もある。


 もっともポラリスはそうした場所への立入を禁じられている。


 彼女はこの家においては娘ではなくできそこないの使用人であり、家族では無いらしい。なので家の中でもくつろげる場所など存在しない。


 他人にそういったことを話そうものなら容赦なく親から殴られて叩かれてしまうので、ポラリスは絶対に家のことも、家族のことも話さない。そもそも話せるような相手もいないけど。


「ただいま帰りました」


 返事など、無い。それでも挨拶あいさつを怠ることは禁止されているから、言う。


 父ベネデッドは大企業の幹部で多忙、一つ上の兄シリウスは大学生として実家を出て一人暮らしをしている。


 母イヴォンは今日も街で遊び歩いているのだろう。


 おそらくデパートで、ハイブランドのショップでしこたま買い込んでいるはずだ。金と引き換えに華美なものを手に入れるのが何よりの楽しみだと、ポラリスが夜中こっそり盗み聞きしたイヴォンと誰かとの電話で上機嫌にそう話していた。


 それか『お友達』の主催するパーティーかお茶会だろうか。ああいうのは手に入れた自慢のドレスやアクセサリーを見せびらかすにはうってつけの場である。


 ――私には楽しいことなんて何もないですが。


 平坦へいたんな感情でそう思ってから、くたびれた感じのある学校の制服のまま台所へ向かう。

 途中、意味も無く設置された壁一杯の鏡に、自らの姿が映ったのが目に入った。


 まるで燃え尽きて灰燼かいじんと化したような少女がいた。

 銀糸の長い髪はそれこそ灰の色にくすみ、肌は不気味なほど青白い。

 血色けっしょくを喪失した唇、冬の枯れ枝のように痩せ細った全身。

 赤い瞳は廃墟はいきょを照らす夕焼けのように、かろうじて退廃的たいはいてきにぶい光を宿している。


 着ている制服はあちこちがよれている。もともと学校の制服とジャージに体操着、それに数枚の下着しか衣服の所持を認めないとイヴォンに言われているのでこうなった。


 捨てられた人形、のようでもだった。人生の先どころか、精神と栄養の状態からして明日の生存も危うい可能性さえある少女。一応これでも十八歳成人のエテルノでは、成人の。


 なんやかんや使用人扱いやら厳しい行動制限やらしておいた割には。

 それでも親は大学への進学費用は出すと言ってくれた。だからポラリスはあらかじめ指定されていた難関大学への入学のため、勉学を頑張っていた。


 もしかしたら何か変わるかもしれないと、救いの手がある場所へ行けるかと信じていた、けど。


 ポラリスは王都シレンシオの次期聖女に選ばれた。選ばれてしまったのだ。


 元から聖女候補ではあった。けど王都ということもあって他にも聖女・聖者の候補者は大勢いたし、はっきり言ってまさか自分がという心情だった。


 現聖女であるハンネローレ・プルマスは現在三十代後半。

 なんでもとある事情でシレンシオの聖女の椅子いすから降りることを考えるようになり、大水晶の許しもあって次代の聖女選出が実行されたという。


 忘れられない。王都中の人々の『頭の中』に向かって、大水晶のお声はポラリスの名をお告げになった。



『ポラリス・クライノートをシレンシオ市の次期聖女とする』



 それから程なくして正式な決定通知の封書ふうしょが神殿から届いた。

 聖女、聖者となる者は基本的に神殿で生活することになる。次期聖女は現聖女の指導の元で、修行に一日の大半を費やすという。


 なので大学進学は諦めざるを得なかった。娘を一流大学に行かせて周囲に自慢したかったイヴォンは、これまでの学費教育費が無駄になったと喚き散らしていたが、もうポラリスはどうでも良かった。



 聖女も神殿もこれからの厳しそうな生活も、はっきり言ってどうだって良かった。どうなったって良かった。

 どのみち実家を出られるのだと考えれば、少しは環境がマシになる可能性が無くも無かったし。


 でも、そんな彼女にも。道端みちばたに小花が咲くようなささやかな望みがあった。


「リヒトさん」


 あのシャボン玉の日から結局一度も会えていない、たった一人の味方でいてくれた人。


 今だからこそわかる。きっとポラリスはリヒトに、二つ年上の少年に小さな恋をしていた。


 遊んでくれて嬉しかった。話してくれて嬉しかった。生きて欲しいと言われて嬉しかった。

 リヒトに出逢えて嬉しかった。一緒に過ごした一秒一秒が宝物だった。


 だから、ひとつだけ願いがは叶うというなら彼に会いたい。もしかしたら神殿に会いに来てくれるかもしれない。それでも良い。一目で良いから、会いたい。



 生きている以上、すべての生き物はいつかは死を迎える。

 ならせめて生きているあいだは幸福な人生を送りたいと、人は望む。天に願う。

 この世界は光と影のように、善きことと悪しきことが背中合わせで存在していて。

 難なく幸せを享受できる人がいれば、罪を犯しても無いのに地の底に転落したかのように不幸まっただ中な人もいる。


 となるとポラリス・クライノートは、まさに地の底の住人と呼べる境遇の持ち主だった。

 だがどんな地獄に在っても、幸福を望むことはできる。



 ――でも、私は生きています。

 ――他の誰でも無い、あなたと再び会うために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る