第21部 4202年21月21日

 奇妙な風が吹いている。奇妙でない風というものはあるだろうか。真夏の夕方に吹く涼風、春の野原に吹き抜ける薫風……。いずれにせよ、「風が吹く」という事象自体が随分と奇妙なことのように思える。あるいは、その表現が奇妙に感じられるのだろうか。風の正体は空気の移動であり、それ自体が運動である以上、「風」という主体は実質的には存在しないからだ。


 時刻は午後四時を迎えようとしていた。僕は巨大な橋の上に立っている。隣に彼女もいた。風はまだ海の方から吹いているようだ。風の温度は低かった。頬と首筋を撫でるように次から次へと立ち去っていく。あるいは、循環しているのかもしれない。そうだった。僕達は今、地球という箱船の中にいるのだ。この中では、あらゆる事物が循環の中にある。


 隣に立つ彼女が僕の手をそっと握る。僕も握り返した。風との対照で、今は彼女の手は温かく感じられた。


 僕達は船を待っている。巨大な橋は海の上に真っ直ぐ架かっていた。平板だが重厚な橋だ。僕達はその橋の、端にいる。四方は銀色の柵で囲まれていた。空は灰色の雲に覆われ、柵の表面に光が反射されることはない。


 暫くそうして待っていると、遠くの方から汽笛の音が聞こえてきた。ここで、こうして、待つということが、その船を呼び寄せる条件となる。海上にかかった霧の向こうから巨大な影が徐々に姿を現し、波を後方へと押しやりながら滑って、僕達の前で静止した。


 船は旅客船のような体裁だった。黒くて太い廃熱機構が船体を貫通するように備わっている。そこから黒い煙が昇っていた。最近では珍しい、燃料式のようだ。今では、電気と磁気によって、海上を文字通り滑るタイプが一般的になりつつある。それは、本当の意味での船とはいえない。でも、人間は幻想を楽しむ生き物だから、大半の人々はそれでも満足のようだった。


 一方で、幻想では満足できない人間もいる。


 たとえば、僕の隣に。


 僕が見ているのに気づいて、彼女は両目を三日月型に曲げて笑った。僕の手を握っている腕をぶんぶんと振り始める。


「ikou」


 彼女は僕の手を引っ張ってタラップを渡り始める。


 船の内部は完全な空洞になっていた。ほかに乗客がいる気配はない。


 空洞のずっと向こう側に小さなドアが一つだけある。そこから船長らしき人物が姿を現した。


「やあ、これはこれは」彼は帽子を持ち上げながら、軽く首を傾げて挨拶をする。「予約されていたお二人様ですね」


「ええ」僕は応じる。


「本船は地獄行きとなっておりますが、よろしいでございますか?」


「mondai nai wa」と、僕より先に彼女が答えた。

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