第2話 侵蝕初期


「遠慮しないでくつろいでね」

「ありがとう。でもちょっと無理かな」


 多希は今、何故か千聖の部屋に招待されてしまっていた。


 幼い頃離れ離れになった幼馴染と、劇的な再会を果たした多希。あの後、大泣きする千聖ともらい泣きする千聖の父親を、多希は苦労してなんとかなだめた。

 二人が落ち着いたとところで、やっと解放されると思っていた多希だったが、二人から久しぶりに再会したお祝いに、家に招待したいとせがまれてしまう。


 急すぎる展開のため、さすがに断ろうとした多希だったが、今度は違う意味で泣きそうになった千聖に押し切られる形で、しぶしぶ了承したのだった。

 久しぶりに再会した幼馴染と、離れていた間の事を語り合うのもいいかもしれない。そんなふうに軽く考えていた多希は、すぐに自分の考えが甘かったことを思い知ることになる。


 由花には簡単に事情を説明してその場で別れ、あの派手な車に乗せられた多希。車に似合わない、これでもかというほど優しいドライビングで到着したのは、まさしく豪邸だった。

 家が大きくて立派なだけじゃなく、庭も広い。間違いなく金持ちの家だと、一目でそうわかるほどの住宅。多希は、車だけ好きな人かもという自分の予想が、まったくの的外れだったことを理解させられた。


 到着して出迎えてくれたのは千聖の母親で、父親と同じく、穏やかな笑顔が特徴的な綺麗な人だった。一瞬見惚れそうになった多希だが、すぐに気を取り直して挨拶を、


「ようこそ多希君! 久しぶりに会えておばさん嬉しいわ!」


 する前に抱き着かれてしまい硬直した。どうやら、千聖の父が事前に連絡していたらしい。千聖本人だけでなく、両親からも熱烈に歓迎されているようだ。

 そんな予想外の歓迎具合に、多希の疑問は深まるばかりだった。


 だいたいにして、会っただけで泣くほど感動されることがおかしいのだ。百歩譲って千聖はいいとしても、十年以上も前に引っ越して以来、まめに連絡を取り合っていたわけでもない。

 すっかりと忘れられている方が、とても自然に思えるような空白期間がある。それなのに、たとえ娘の幼馴染だったとはいえ、親までもがこうして歓迎してくれるのは、多希の価値観では普通のことではないと思えたのだ。


 その後は、怒った千聖が多希から母親を引きはがしてくれ、とりあえずは部屋に招待されて今にいたる。


 多希は千聖の部屋に着くまでも、いたるところにある、綺麗で高価をそうな家具や、調度品の数々に圧倒されていた。千聖の部屋自体もとても広く、高価そうなものであふれている。

 見た通りに住む世界が違うと実感させられて、あまり気が休まらない。今座っているソファーもあり得ないほどにふかふかで、多希は座るのに気おくれしそうになったほどだった。


 それにここは女の子の部屋。空間一面にいい匂いが香っていて、それだけでも緊張するというのに、お姫様の部屋のような高貴さに、多希はただただ圧倒されていた。


「ご、ごめんなさい。座り心地が悪かった?」

「いや、そうじゃなくてね。高そうなものがいっぱいで緊張するというか」


 本当は女の子の部屋という点についても緊張していた多希だが、そこは男としての見栄で、心の底の方にそっとしまい込む。

 高そうなものに緊張している時点で、なかなかに情けない姿をさらしているわけだが、自分の心を守るために、多希は深く考えるのを止めておくことにした。


「家具のことなら気にしないで、もし汚れても傷がついても、私は気にしないから」

「いやいや、すごく高そうだし気を付けるよ」


 多希の言葉に千聖は、何故か悲しそうに眉を歪めた。


「お家に招待しておいて今更隠すことじゃないから、正直に言うんだけど、今のうちは昔よりその、裕福になっていてね」


 言いにくそうに口にする千聖。そんな千聖の感情は多希にも理解できた。

 普通なら、自分で自分の家がお金持ちと言うなど、ただの自慢にしか聞こえない。もちろん千聖がそういうつもりではないことがわかるからこそ、多希は言いにくそうな千聖の気持を理解できている。


「お父さんの事業が成功してね。十年以上前に引っ越すことになったのも、その関係で」

「そうだったんだね。あの時は確か理由までは聞いてなかったと思ったけど」

「私も詳しくは聞いてなかったの。あの頃はまだ幼かったから」

「そうだよね。まだ難しいことを言われてもわからないもんね」

「うん。それで何が言いたいかというとね、本当に家具とかは気にしないでほしくて、自慢とかじゃないんだよ!」


 慌てながら説明しようとする千聖を微笑ましく見ながら、それは無理だと多希は心の中だけでツッコミをいれた。

 きっと千聖の感覚では、傷がつけばまた買いなおせばいいとか、そんなものなのだろう。けれど、お金持ちと聞いてしまった多希としては、本当にいくらの家具たちなのかと、余計に怖くなっただけだったから。


「千聖、ちょっといいかい?」


 ドアの外から声が響く。

 千聖がすぐに開けにいくと、ドアの外には千聖の両親が揃っていた。


「お父さんお母さん、どうしたの?」

「いやなに、食事の手配をしたんだ。今日の夕食は多希君を交えて再会を祝おうじゃないか」

「ホント? ありがとうお父さん」

「いいんだよ。久しぶりで積もる話もあるだろう?」


 なんだかいい空気になっている千聖一家。思わず微笑ましく見守ろうとしてしまいそうな多希だったが、会話の内容的にそのまま流されるわけにはいかなかった。


「ちょ、ちょっと待ってください! 今、食事って」

「あら安心して多希君。私が作ると黒焦げになっちゃうけど、専属のスタッフがいるからちゃんと美味しい料理が出てくるわよ」


 和気あいあいと笑いあっている千聖一家。だが多希が気にしているところはそこではない。根本的に違っている。


「いえ、そういうことではなくですね。急にお邪魔しただけじゃなく、ご飯までごちそうになるわけにはいかないですよ」

「え、どうして? もしかしてこの後何か予定があった?」


 心配そうな表情で聞いてくる千聖に、多希は首を横に振る。


「予定なんてないよ。そうじゃなくて、単に申し訳ないから」

「あ! 多希君の好きなものを言ってくれたら用意できるよ?」

「いや、メニューが心配なんじゃなくて」

「もしかして帰りの心配かい? もちろん送ってあげるから心配いらないよ!」

「いえいえ、さらに悪いですから! ホントに遠慮します!」


 ここまでくると、千聖一家はみなが困ったような顔になってしまっていて、多希は何故か自分が悪いことをしている気になった。


 三人から揃って見つめられていると、思わず頷いてしまいそうになる。そんな弱い心に鞭を打ち、多希は千聖一家に向き合う。

 この一家は何かずれているらしく、多希の遠慮を一向に理解してくれない。このままでは、ずっとすれ違ったままだと思った多希は、正直に言葉にすることを決意した。


「正直に言いますけど、僕は昔のこと、あまり覚えてませんでした。なのに皆さんの好意に甘えるのは悪い気がするんです」


 多希は今自分が置かれている状況に、ちょっとした負い目を感じていた。

 久しぶりの再会で喜んでくれている千聖一家。だが、多希には喜ばれるようなことをした覚えはない。連絡先を知らなかったとはいえ、多希はこれまで一度も千聖と連絡を取ろうとしたこともなかった。どうにかして調べようとしたことすらなく、あろうことか、千聖のことをすっかりと忘れていたのだ。


 それなのに、千聖一家は多希をしっかりと覚えていてくれ、こうして再会できたことをとても喜んでくれている。

 多希は薄情な自分が恥ずかしくなったし、再開を祝って歓迎される資格もないと、そう思えて仕方なかったのだ。


「まるでお金目当ての奴みたいで嫌というか、そういうわけで、とにかく遠慮させてください」


 歓迎されるがまま食事までごちそうになり、家まで送らせようなど、多希の良心が痛んだ。そんなことをしたら、千聖たちからの純粋な厚意を、都合のよく利用している最低な人間になってしまう。たとえ千聖一家をガッカリさせてしまったとしても、多希はそんな人間にはなりたくなかった。


「久しぶりに会えてボクも嬉しかったから、だからこそ、皆さんにはそう思われたくないんです」


 歓迎ムードをぶち壊し、空気を悪くしてしまうかもしれない。そうなったとしても、多希は自分との再会を喜んでくれた相手に、これ以上甘えることはできなかった。のだが、


「……あれ? な、なんでみんな笑ってるんですか?」


 多希が頑なに断っていたせいで困っていたはずの千聖一家が、何故か今は三人ともふんわりとした笑みを浮かべていた。三人は視線を合わせて頷き合っている。何かに納得しているような、そんな感じを出す三人の空気が、多希は本当に意味が分からなかった。


「やっぱり多希君は、多希君のままだったなと思って」

「えっと、どういう意味?」

「あのね多希君。久しぶりに再会したばかりで申し訳ないのだけど、聞いてほしい話しがあるの」

「なにか重要なこと?」

「そう。私の話し、引っ越してから今日までの私の」


 これまでの千聖の声にはなかった重苦しい何か。それを感じ取った多希は、真剣な表情の千聖に黙ってうなずいた。

 部屋のソファーに促された多希。正面には千聖だけでなく、両親が千聖をはさんで座り、気遣うようにそれぞれが手を握っている。


「私ね、実は引っ越した先で新しい生活に馴染めなくて、精神的にまいっちゃって、それで身体も壊しちゃったんだ……」


 三人の様子から、楽しい話しではないのだろうと予想はできていた。そんな多希の予想通り、千聖の口から伝えられた話しは、まったく楽しい過去ではなかった。


 父親の事業が成功したことで一気に成り上がり、誰から見てもお金持ちといえるくらいのステータスを手に入れた千聖一家。事業のために引っ越しをした先で、間違いなく生活水準は高くなったそうだ。

 そうして千聖はある私立の学校に入学する。他にもお金持ちの子供たちが通うような、由緒ある伝統校。家族みんなで喜んでいた……のは、初めのうちだけだったそうだ。


 千聖はそこでの新しい人間関係に苦労することになる。そこでまともな交友関係を築くには、これまで千聖が使うことなく、まったく知りもしなかった作法を覚えなければならなかった。

 苦労して今のような所作を身に着けた千聖。もちろんそれで終わりではない。そこからがもっと大変だったのだから。


 一代で成り上がった千聖の家は、いわゆる成金だ。代々続いている名家、そういうふうに呼ばれる家の子供たちが多くいたその学校では、千聖は毛嫌いされるかバカにされることが多かったらしい。

 それでもバカにしたりせず、仲良くしてくれる子供たちもいた。これならなんとかやっていける。千聖は、少しの間でもそう思っていたことを、酷く後悔したそうだ。


 何故なら、千聖と仲良くしてくれていた子供たちは、みんな千聖の家のお金が目当てだったのだから。

 千聖の家より立場が低い家の出身で、単に仲良くしていればいい想いができると考えていた子供。

 同じような成金の家で、千聖と子供を結婚させ、財力を高めようと画策する親から言われて近づいてきた子供もいた。

 みんな見ているのは千聖ではなく家の財力で、千聖はそれを手に入れるためのとっかかり。

 そんなふうにしか自分は見られていないのだと、そう気が付いたあとは、千聖は誰も信じることができなくなっていた。


 初めて会う人は誰も信じられず、酷い疑心暗鬼になり、次第に精神がすり減っていく。

 そのうち食べ物があまり喉を通らなくなり、食事量が激減。そうなれば当然、肉体もおかしくなる。

 そういう負の連鎖に陥った千聖は、すっかりと体調を崩してしまい、ふさぎ込んだ毎日を送っていたそうだ。

 そんな暗い毎日の中で、千聖の支えになったのが、


「多希君との思い出だったの。私は多希君のおかげで救われた」


 多希としては、そんな大層なことをした覚えはまるでない。が、そう語る千聖の目は本気そのものだった。


 千聖の周りの環境が変わる前、つまりは父親の事業が成功する前、千聖がまだ普通の家庭の子供だった頃、一緒に過ごしていたのは多希だ。

 お金や損得勘定で自分の周りにいたのではなく、純粋に千聖という人間と一緒にいてくれた。少なくとも千聖にとって、そう断言できる唯一無二の存在が多希だったのだ。


 千聖は辛いときは必ず多希のことを思い出し、自分を励ました。多希と過ごした何気ない楽しい時間のおかげで、なんとか心を保つことができたそうだ。

 そして千聖の両親も、多希が大切な一人娘の心の支えになってくれていることを知っていた。だからこその、この歓迎なのだろう。


 結局、それでも娘のためにと、両親は落ち着いてきた事業を他人に任せて、多希のいる地元に娘を連れて戻ってくることにしたそうだ。

 ちなみに高校が一緒になったのは本当に偶然なのだとか。千聖は学校で手続きを終えたら、多希の家を訪ねるつもりだったらしい。


「多希君と一緒に過ごした時間がなかったら、きっと私は壊れてたと思う」

「助けになれたのはよかったけど、こんな話を聞いたら、忘れてた自分がますます情けないよ」

「ふふ、気にしないで。幼い頃のことだもの、仕方ないわ……そうだ!」


 千聖は急に立ち上がると、机の引き出しから、丁寧な手つきで小さな箱を持ち出してきた。

 目の前で慎重に開かれた箱を多希は覗き込む。さぞ高価な宝石でも入っているのかと思えば、そこに入っていたのは、赤い色の毛糸のようなものだけだった。


「ちょっと恥ずかしいのだけど、思い出してくれないかな?」


 そう話す千聖は、また熱中症になったかと心配になるほど顔を赤くしていた。それでいて期待のこもったような視線を多希に向けてくる。

 初めは何なのか分からなかった多希も、その反応を見ていれば思いつくことがあった。


「え、もしかして、これって運命の赤い糸?」

「そう! 覚えててくれて嬉しい!」


 千聖の今日一番の大きな声。多希は若干ひるみながらも、酷く納得した気持ちだった。


 幼い頃に、お互いの小指に結んだ赤い毛糸。多希は由花との記憶だと思い込んでいたけれど、本当は千聖との思い出で、だから由花がまったく覚えていないのも当然のことだったのだ。


「ずっと取っておいたの?」

「私にとっては大事な思い出の品だったから、ちょっと恥ずかしいけど」

「あはは、僕もなんかちょっと恥ずかしくなってきたよ」

「実は昔の写真のアルバムもあるのだけど、見る?」

「いやいや、これ以上恥ずかしいのは勘弁で」

「そう? 残念。私は毎日見て過ごしてたのだけど」


 丁重な手つきで箱を閉じる千聖。本当に大事なものを扱っているのだと、何も言わなくてもその仕草が物語っていて、両親もそんな千聖を微笑ましく見守っていた。

 あたたかな空気に包まれる千聖一家を見て、多希は自分との思い出を、千聖が本当に大切にしてくれていたことを実感した。

 だからこそ、話を聞くまえ以上に、千聖たちの好意に甘えたくはなかった。


「再会を喜んでもらえる理由はわかったよ。けどそういうことなら、尚更食事なんてご馳走になれないよ」


 千聖の話しを聞いた多希は、話を聞く前より遠慮するべきだと思った。正直に言えば、多希は千聖に罪悪感すら感じていたから。

 自分との思い出を、大変な時期に心の支えにしてくれるほど、それほど大切にしてくれていた千聖。それに対して多希はといえば、記憶が曖昧だっただけでなく、千聖との思い出を、由花との思い出だと勘違いまでしていたのだ。

 そんな自分が、千聖一家から感謝されたままでいいのだろうか。そう考えたとき、多希はとてもじゃないが、いいとは思えなかった。


「思い出してくれただけで私は嬉しかったよ。それにね」


 千聖はそんな多希の罪悪感を取り払うように、多希の手をそっと握ってくれた。


「多希君はやっぱり向こうで会った人たちとは違うんだって思えて、だから私たちは嬉しかったんだよ」


 千聖の言葉に合わせて二人も頷いている。


「だから遠慮しないで、お願い、私の我儘を聞いてほしいの」

「…う、うん」


 必死な様子に流されるまま頷いてしまう多希。その瞬間、千聖が今日一番の笑顔になった。

 見た者を釘付けにしてしまいそうな可憐な笑顔。その笑顔の理由を聞いたとはいえ、まだ実感のない多希には、素直にそれを受け取ることができなかった。




 それから、多希は夜遅くまで千聖の家で過ごした。食事は多希が想像していた以上に豪華なもので、多希は度肝を抜かれっぱなしだった。


 物凄く盛り上がった食事会のあと、千聖家の面々に泊まっていくように誘われるも、そこだけは鋼の意思で遠慮。ならばせめてという千聖の父親に、家まで送ってもらうことになり、当然のように千聖も一緒についてくることに。


 一応家に連絡をいれたとはいえ、多希は母から怒られることは覚悟していた。のだが、それすらも千聖一家がなんとかしてしまった。

 何やら大量の荷物があることは、多希も気が付いていたのだが、まさかそれが全て手土産だとは思いもしていなかった。


 はじめは困惑していた多希の母だったが、久しぶりに会うお隣さんを、会話の中で思い出したらしい。お互いの親同士で会話が盛り上がり、たくさんの手土産を渡されたときには、気づけば勝負は決まっていた。


 手土産はすべて高価な食材や粗品。安物は一つもなく、その全てが値の張るもので、多希の母は目を見開いて驚いていた。

 しまいには、今度お食事に招待すると誘われて、すっかりと気をよくしたらしい。普段は絶対にしないというのに、意味もなく多希のことを褒める始末。

 あまりみることのない母の顔を見て、多希はなんとなく気まずかった。


 母は直接挨拶にきた千聖のことも大層気に入ったらしく「ちゃんと大事にしなさいよアンタ」や「千聖ちゃん、どうかうちの息子をよろしくね」とか、調子のいいことを言っている。

 聞き流せばいいものを、千聖はそんな母の言葉に全力で頷いていて、多希からすると、それがまた気恥ずかしかった。


「明日から同じ学校だね。よろしくね多希君」

「千聖を頼むよ多希君。キミがいてくれると思うと私も安心だ」


 別れ際に全幅の信頼を寄せていった千聖親子の車を、多希は見えなくなるまで見送った。





 そんな事があった翌日の月曜日。多希はいつものように由花と学校に向かっていた。


「で、どういうことなの?」


 朝から少しムッとしている由花が話しをふってくる。昨日は急においていかれたわけだから、こうなっていても仕方ない。


「お家で食事をご馳走になったよ。すごいお金持ちっぽいご自宅とお食事だった」

「へぇ~……ってそうじゃなくて、あの子はなんなの? 幼馴染って言ってたけど」


 由花が気になるのは当然だろう。千聖のことを忘れていた多希は、由花に千聖のことを話したことはないのだから。

 多希は由花に、千聖のことをかいつまんで説明した。転校してくる理由については隠したが、それは本人の許可を得なければ勝手に話していいことではないだろうから。


「今日転校してくるんだって、まぁ一人目の幼馴染みたいな感じ?」

「転校生かぁ、どおりで……てか、私が二人目ってことね」

「そそ、んで由花だけ覚えてないっていう思い出わりとあったじゃん? ああいうのは全部千聖ちゃんとの思い出だったみたい」

「……運命の赤い糸の話しとか?」

「うん。それよ。僕も千聖ちゃんに言われるまで由花としたことだと思ってたわ」

「ふ~ん、で、多希は結婚の約束をした幼馴染ちゃんと再会してどう思ったのよ?」

「どうって?」

「だからぁ、約束通りに結婚しよう! とか言っちゃったわけ?」


 肩を掴まれて引き寄せられる。無理に振り向かされた多希は文句でも言おうとしていたが、由花から感じる気迫に圧倒されて文句は飲み込んだ。


「まさか、向こうからしてもただの思い出話でしょ?」

「ふ~ん、どうだかね」

「いやホントに。それにさ、凄いお金持ちって言ったじゃん。ぶっちゃけ住む世界が違う感じがした」

「なに? そんなに凄かったの?」

「もう豪邸よ。それに料理スタッフがいるんだって、本物のお嬢様だよ、あれは」

「よかったわね、逆玉じゃない」

「いやいや無理無理、僕なんて眼中にないでしょ。それに絶対馴染めないよ」

「まぁお金持ちの家ってだけで息が詰まりそうだけど」

「そそ、僕はねもっとこう、一緒にいて気が楽な人がいいんだよ。自然体で過ごせるっていうかさ」

「へぇ~……それってさ、私みたいなのがぴったりじゃん」

「え、ま、まぁ由花なら文句なしよね、美少女だし」

「アハハッ、褒めても何もでないから」


 そうは言いつつも、明らかに上機嫌に見える由花が歩くスピードを上げる。その挙動はまるっきり照れ隠しのそれで、微笑ましすぎるその姿を見て、多希は心から笑った。


 由花と二人で過ごす時間。お互いが信頼していて、肩ひじ張らず自然体の自分で過ごせる空間。

 明確に付き合っているというわけではない。肩書の上では多希は由花とはただの幼馴染。それでも由花が特別という感情が多希の中には確かにあって、由花が同じような想いを抱いてくれているということも、なんとなく感じていた。

 由花と過ごす時間が多希には何より大切で、これからも二人の時間がずっと続いていくのだと、何の根拠もないというのに、多希は信じて疑わなかった。





「多希君! ごめんね、来ちゃった」

「あれ、千聖ちゃん」


 まだ午前中の休み時間のこと。転校初日の千聖が、わざわざ多希の教室までやってきた。

 多希も千聖の顔は見に行こうと思っていた。以前の場所での話を聞いて心配だったし、千聖の父親からもよろしくと言われた手前、昨日の恩を返すくらい、少しは役に立ちたかったから。

 ただ初日で何かと忙しいだろうから、午後にでも顔を見に行くつもりだったのだ。


「江田さん。昨日は急に多希君をお借りしてすみませんでした。改めて、鷺沼千聖と申します」

「え、あ、いやいや! どうもご丁寧に、多希のことは全然気にしないで大丈夫だからね!」


 一緒にいた由花に向かって、千聖が丁寧に頭を下げる。自分に話しがとんでくるとは思っていなかったのだろう。由花は慌てて手を振ると、それ以上は何も言えなくなってしまったようだ。

 人懐っこい由花は、いつもなら自分からもっと相手に声をかけるはずなのだが、千聖には少し遠慮がちなようで、多希にはそんな由花の様子が珍しかった。


「あの江田さん。私、多希君しか頼れる方がいなくて、これからもこちらにお邪魔してもよろしいですか?」

「う、うん! 私のことは気にしないで大丈夫だから! 遠慮なく多希に頼ってね」

「よかった! ありがとうございます。江田さんって優しいんですね」

「あはは、いや、私は何も」


 由花とお喋りに興じている千聖。転校生で美少女という要素だけでも自然と注目は集まったはずだ。だがそれだけではなく、千聖はわざわざ他クラスの多希を頼ってやってきた。

 そんな会話を大きな声でしていれば、クラスメイトたちが気になるのも仕方のないことだろう。

 多希は千聖と一緒に、すぐにみんなから囲まれてしまった。

 みんながただの興味本位だけで、悪意なんて一つもないと多希にはわかっていたが、人間関係で身体を壊した千聖には、少し大変な状況かもしれない。


 そう心配した多希だったが、千聖は嫌な顔一つせず、みんなからの質問全てに丁寧に答えていて、多希の心配は、結果的には杞憂に終わってくれた。

 クラスメイトたちは千聖の洗練された所作に魅了されていき、みんなが千聖を好意的に受け入れているようだった。


 さらには多希との関係を聞かれた千聖が、ただ幼い頃に一緒に過ごしていたというだけでなく、運命の赤い糸の話しや、そこまで言わなくても、と思うようなことまで話してしまうから、会話もなかなかに盛り上がっていた。


 はじめは恥ずかしくて止めようかとも思った多希だったが、千聖の話題として、少しでも友達作りの力になれるならと、恥ずかしさを耐えることにした。

 その甲斐あってか、千聖はこちらのクラスでも随分と顔見知りができたようだった。


「新しい学校も本当はすごく心配だったけど、多希君のおかげでみんなと仲良くなれそう。本当にありがとう多希君」

「いやいや僕は何も、千聖ちゃんの人柄というか、頑張ったからだと思うよ」

「そんなことない。多希君がいてくれるだけで私は心強いもの」

「え、いや、僕なんか何も」

「ふふっ、本当にいてくれるだけで心強いの。多希君がいてくれて本当によかった」


 千聖から褒められ続けて、多希はまた恥ずかしさがこみあげてきたのだが、丁度よくそこで休み時間は終わり、千聖は自分の教室に戻ってくれた。

 教室から出ていく直前、振り返った千聖が手を振ってくれた。多希は手を振り返しながら、千聖は少し、常人とはかけ離れた感性を持っているのかもしれないと思っていた。


 クラスメイトたちに囲まれた状態でも、まったく恥ずかしがることなく、素直な心情を吐露してくる千聖。真摯な千聖の言葉には、嘘なんてないと、そう無条件で信じられるような安心感があった。

 そんな千聖の態度を、誰も茶化すことはできなかったのだろう。千聖が戻ったあとも、クラスメイトたちは盛り上がっていたが、一人として多希を揶揄ってくることはなかった。


 多希はとりあえずは安心していた。人間関係に悩み、身体を壊してしまった千聖の過去を知っているから。だからこそ、この学校では大丈夫だろうかと心配していたのだが、千聖は多希が思っていたよりも上手く馴染めているようだった。


 今はまだ初日であり、千聖が目立つのも仕方ないことだ。それでも日々を過ごすうちに、きっと落ち着いた生活ができるだろう。そうなれば、多希もめでたくお役御免。

 今のような千聖の様子を見れば、ご両親も安心できることだろう。そう思うと、多希も少しは肩の荷が下りた気分だった。


 唯一辛抱しなければならなかったのは、転校生の千聖が人だかりを作ってしまったおかげで、いつものように由花とダラダラ過ごす暇が多希にはなかったこと。

 だけどそれも今のうちだけ、しばらくすれば、また由花との日常が戻ってくる。多希はそう考えていた。

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