運命の赤い糸は、僕にはただの足枷だった

美濃由乃

第1話 侵蝕開始


「ん、ぅん~」


 部屋で宿題を片付けていた多希たきは、なんとも間抜けな声が聞こえて顔を上げた。


 多希が自分のベッドに目を向ければ、そこには本来の主ではない少女が横になっている。

 一見すると外見の整った少女は、普通に寝ているだけならば、さぞ絵になったことだろう。だが少女は、残念ながら普通に寝ているわけではなかった。


 豪快に大股を開いて寝ている少女。たまに先ほどのような不明瞭な寝言も言う。それだけでもなかなかだが、薄い部屋着の裾がめくれて綺麗なお腹が露になっているし、ズボンがずり下がっていて、腰のあたりでパンツが少し見えてしまっていた。

 この惨状では、とても絵になるとは言えないだろう。


 ちなみに、多希にとって今の少女の姿は見慣れたもので、その可愛らしい外見と豪快な寝相のギャップに、今更幻滅したりすることはない。

 ただいくら慣れているとはいえ、高校生という年頃男子の多希としては、異性のあられもない姿は、どうしても目のやり場に困るというもの。


 高校生になる前から目立っていた発育のよい胸が、彼女の穏やかな呼吸に合わせて静かに上下している。

 男子の中では身長が低い多希と、ほぼ同じくらいのその身長は、女子としては少しだけ高身長にあたるだろうか。

 中学までは女の子らしいからと伸ばし続けていた黒髪は、高校に入るときにばっさりと切ってしまった。今は肩に届かないくらいの長さで、色も明るめの茶色に染めている。当時は多希も戸惑いはしたが、今ではすっかりと見慣れてしまい、明るくて快活な彼女によく似合っていると思っていた。


 少女はいつもこうして、多希のベッドで寝てしまう。だが二人は別に付き合っているわけではない。それでもこれほどまでに二人の距離が近すぎるのは、多希と少女が幼馴染で、昔からお互いの部屋で過ごしてきたからだ。


「ねぇ由花ゆいか、もう起きて」


 声をかけるも少女、多希の幼馴染である由花ゆいかは、それくらいでは起きる気配もない。


「ねぇってば」

「ぅ、うふふふ……」


 由花は一瞬身体全体を震わせて、それからまた寝息をたてはじめた。

 よく言えば明るく大らかな性格、悪くいえばちょっと抜けているところある。そんな性格を表すかのような寝姿。

 由花にとって多希のベッドは、よほど寝心地がいいのかもしれない。特に高級なマットや枕というわけではないというのに、何がそんなによいのかと、多希は不思議でならなかった。


 この寝姿を見るに、生半可なことではまるで効果はないのだろう。多希は経験からそう感じ取った。ならばと、多希は三度目の正直で、由花の肩に手をおき少し強めにゆすった。


「由花ってば、起きてよ。もうそろそろ帰らないとだよ」

「ん、ぅぁ、たきぃ?」


 寝ぼけているからだろうか、幼い子供のような舌足らずの声になっている。いまだ完全には覚醒していないのだろう。それでも多希に身体を揺さぶられ続け、さすがの由花もまた目を閉じたりはしなかった。


「ちゃんと起きて。もうかなり夜遅いよ由花、そろそろ帰りな」

「ん、ん~まだ平気でしょ、もうちょっと寝かせて」

「いや、そしたらもう日付変わるよ」

「いいよぉ別に。泊まるから」

「泊まっていいかどうかはね、由花が決めることじゃないんだよ」

「じゃぁ、泊めてください」

「ダメです。おばさんとおじさん心配するでしょ?」

「え~……じゃあ、起こして」


 かなり粘っていた由花だったが、多希の説得により観念したのかもしれない。だが、それでもただでは起きないという、鋼のような意志を多希は感じ取った。

 仰向けのままの由花が、両手を多希に向かって伸ばしてくる。下手に近づけばそのままベッドに引き込まれてしまいそうだ。過去に何度かやられたことがある多希は、その経験を活かして、今の由花には近寄らないことにした。


「ほら由花、いい加減自分で起きなさい! もう子供じゃないんですからね!」

「ママ化するのはやめて、起きるから」


 必殺技、由花ママのマネを多希が披露する。顔を歪めた由花が、やっと心から観念したのか、しぶしぶといった様子で身体を起こした。とは言えその顔は不満そのもので、まだ寝ていたいという感情を隠そうともしていない。


「なんかさぁ、最近の多希きびしくない?」

「え、そうかな?」

「だってちょっと前までは普通に泊めてくれてたじゃん」

「ま、まぁ僕たちも高校生になったし、一応ね」

「今更なに気にしてるの? つい数か月前まで一緒に寝たりしてたじゃん」

「それは中学生だったからセーフっていうことにして」

「別にアウトなんて言ってないってば、、むしろ気にすることないって私は…」


 起きたてで乱れた髪の毛をかきながら、ぶつぶつと文句がとまらない様子の由花。満足する前に起こされた由花は機嫌が悪い。それを知っている多希は、なるべく由花を刺激しないように、先ほどまで取り組んでいた宿題の元に戻ることにした。


「ねぇ聞いてる多希? っていうか何してるの?」

「宿題。偉いでしょ」


 多希は由花が寝ている間に進めた自分の成果を見せつける。


「あぁ、英語のやつ?」

「そそ、あの先生厳しいからさぁ」


 少しの間、ぼーっとしていた由花が、急に目を見開く。どうやら宿題のおかげで完全に目が覚めたらしい。


「そういえば私、教科書とか全部ロッカーにおいてきちゃった!」

「えぇ、だらか普段から持ち帰る癖をつけておきなさいとあれほど」

「ママ化やめて。別にいいよ。人は怒られて成長するものだから」

「そういうのいいから、どうせ学校まですぐなんだから、明日取りにいくよ」

「えぇ〜せっかくの日曜なのに?」

「つべこべ言わない」

「……うぃ。やっぱり多希がきびしい」


 由花はまだ納得していないようだったが、そういうことになったのだった。


「じゃ、そろそろ帰ろっかな」

「まったまった。そのまま外に出るつもり?」


 大きなあくびをしながら立ち上がる由花を、多希は慌てて呼び止める。呼び止められた本人は、どうして多希が慌てているのか、まるで検討がついていなさそうだ。


「そうだけど?」

「髪の毛ぼさぼさだし、ちょっとくらい身だしなみ直して」

「こんな時間だし誰もいないでしょ。それに家すぐ隣じゃん」


 由花の言う通り、多希のアパートと由花の家は隣と言ってよい距離にある。だから由花が油断するのも仕方がないこと、なのかもしれない。

 だとしても、多希は見過ごすことができなかった。


 幼馴染であり、部屋で寝てしまうほど信頼している相手、とはいえだ。仮にも異性から寝癖を指摘され。しまいには、ジャージがずり下がって腰のあたりでパンツが少し見てしまっているというのに、これである。

 普通なら、少しくらい慌てて身だしなみを直すのものじゃないだろうか。


 多希は残念なものを見る目を向けてみたが、由花は慌てる様子もなくズボンを少しだけ引き上げた。

 これが慣れというやつなのだろう。何十年も一緒に過ごした男女は、いずれこうなってしまうのを止められないのだろうか。

 多希は世間に蔓延する熟年離婚について、深く考えざるを得なかった。


「はぁ、昔の由花はあんなに可愛らしかったのに」

「はぁ? 聞き捨てならんよ今のは! 今だって可愛いでしょうが!」

「ちっちゃい頃はさぁ、赤い毛糸を僕と自分の指に結んでね、運命の赤い糸だって、はしゃいでたんだよ?」

「またその話し? 覚えてないんだよねぇ、したかな、そんなこと」

「忘れちゃったんでしょ。それもまた悲しいのよ」


 多希がこういう時に持ち出すのは、決まってその話題だった。とても幼い頃のことで、多希も記憶はあいまいだが、そういうことがあったのだけは、忘れずにはっきりと覚えていた。

 とても小さな頃から一緒だった二人は、それこそ毎日のように一緒に過ごしていた。

 そんなある日のこと、どこから持ち出してきたのか、赤い毛糸を持ってきた由花は、一生懸命に自分と多希の小指に巻き付け、


『運命の赤い糸でつながってる二人はけっこんするって! わたしたちも結婚しようね!』


 と嬉しそうにはしゃいでいた…はずなのだ。

 由花はまったく覚えていないし、多希も何歳の頃だったとか正確には覚えていないのだが。


「あら由花ちゃん。今日は帰るのね? もう遅いから泊まっていけばいいのに」


 部屋を出ると、リビングにいた多希の母が、珍しそうに声をかけてきた。

 多希の家は古く小さなアパートの一室で、そこで母と二人で暮らしている。玄関まではリビングを通ることになり、親と遭遇するの避けては通れない。だが、だからといって、多希が慌てることはもちろんなかった。


 こんな夜遅くまで、同級生の女の子を部屋に上げていたところを親に見られたら、普通なら何かしら小言を言われることだろう。けれど多希と由花の場合はそうはならない。


 ちいさな頃からずっと一緒にいて、お互いの部屋に泊まるのすら当たり前。一体いままで何度こんなことがあったのか、それは多希でも正確にはわからない。そんな状況にお互いの親も慣れ切っているからだ。


「そのつもりだったんですけど、多希が帰れって厳しいんですよ」

「はぁ、いっちょ前に羞恥心でも身に着けたのかしら。多希なんか気にしないで泊まっていっていいのよ」

「え〜ホントですかぁ?」

「私が許可します。だいたい、こんな時間に帰ったら、お家の人起こしちゃうんじゃない?」

「そうなんですよ。だからもう泊まろと思ってたんですけど」


 そして二人の様子を見てわかる通り、多希の母と由花は仲がすこぶる良い。小さな頃から面倒を見てもらっていた由花は、多希の母にずいぶん懐いている。

 逆もまたしかりで、由花を気に入っている母から、娘がよかったと、多希は何度も言われたほどだ。


「由花パパママが心配するでしょ」

「あんたホントおかたくなったわね。誰に似たの?」


 多希としては正論のつもりだったのだが、母にひと睨みで撃退されてしまう。女たちの会話に混ざるべきではなかったと気づき、多希はそのまま壁と一体化した。

 

「ごめんね由乃ちゃん。私がちゃんと多希に言い聞かせておくから」

「いえいえ、私は気にしてませんから」

「これからも多希を見捨てないでやってね」

「あはは、もちろんですよ」


 女同士の勝手な会話が終わるまで、じっと黙っていた多希。止まらないお喋りが終わった頃には、もう日付も変わってしまっていて、多希は母に命令されるがまま、由花を隣の家まで送ったのだった。





「さっきの車凄かったね。なんていうか高そうだった」

「あぁ駐車場のやつね。スポーツカーってやつかな?」


 翌日。日曜日にもかかわらず、多希は由花と一緒に自分たちの教室に来ていた。


 目的は由花の教科書などなど勉強道具一式。ついでに教室なら集中できるからと、そのまま二人で宿題をすすめていた。というよりも多希のやった宿題を由花が写しているだけだが。


 会話にでてきた車のことは、多希もなんとなく覚えていた。学校の駐車場には似合わない、派手な見た目と色の車。多希は車にはまったく詳しくないが、ああいう系統の車はすごくお高いことくらいは知っていた。


「やっぱり乗ってる人はお金持ちかな?」

「どうだろ。ただの車好きかもよ」

「あぁ、ありえる……それにしても暑い」

「湿気すごいよねぇ。梅雨、いやもう夏かなぁ」

「多希、私のハンディファン返して」


 そよ風を浴びている多希に由花が恨みがましい視線をよこしてくる。だが多希は気にせず風速を一段階上げた。


「宿題写させてあげる代わりに、今は僕が自由に使っていいという契約だから」

「契約破棄は?」

「できません。すでに契約は履行されています」

「ケチ」


 唇を尖らせた由花だが、無駄だと悟ったのか、すぐに宿題を写す作業に戻った。

 由花のペンが走る音が、ハンディファンの駆動音と重なり合う。

 教室には二人だけということもあり、穏やかな時間が過ぎていった。


 こうして肩ひじ張らず自然体で過ごせること、これこそが多希と由花が長年育んできた二人の関係だった。


 幼い頃の思い出ではないが、多希は運命の赤い糸というものは本当にあるのだろうと、なんとなく思っている。目の前にいる幼馴染を見ていると、そんなロマンチックなことも、すんなりと信じられるのだ。

 赤い糸は、多希の小指から、きっと由花の小指に伸びていて。何年、いや何十年たってもこうして二人一緒にいるのだろうと、何も根拠がなくても多希はそう信じていた。


「……よし、終わり。ありがと多希」

「ん、じゃ帰ろう」

「あ、ちょっとトイレ行くから先に行ってて」


 多希は言われた通りに教室を出た。昇降口で待っていればすぐ由花もやってくるだろう。だが、


「あれ?」


 由花が来る前に、多希は廊下で女の子に出会った。


 出会ったという表現が正しいかどうかはこの際置いておくことにする。多希は下駄箱付近でうずくまっている女子生徒を発見したのだ。


 俯いているため表情は見えない。制服からでている腕や脚はとても細く、見ているだけで心配になるくらい頼りなかった。

 驚くほど色白で、その透き通るような綺麗な肌は、まるで人生で一度も太陽の光に当たったことがなさそうに見える。

 艶のある長い黒髪を後で一つに結んでいて、そこから見えるうなじには、汗が多量に滲んでいる。暑いのだろうか、女の子は肩で息をしているようだ。


 多希は後ろを振り返る。まだ由花はまだ来そうになかった。周りを見ても他には誰もいない。こうなれば、せめて声をかけるくらいはした方がいいだろう。


 そう思いつつも、多希が心配しているのは、いきなり知らない異性が声をかけても大丈夫だろうかということ。

 気持ち悪がられる可能性が無きにしも非ず。だがさすがにこのままスルーするのは、健全な人としてどうかと問われることだろう。


 とりあえず多希は、女の子を驚かさないように注意して、少し離れた場所から声をかけることにしたのだった。


「あの、大丈夫ですか?」

「……ぇ、あなたは」


 うつむいていた女の子がゆっくりと顔を上げる。意識があることに安心した多希だったが、すぐに驚きの感情に支配されることになった。


 まるで物語にでてくる深窓の令嬢。言葉で表現するならそれがぴったりだろう。魅入ってしまいそうなほど長いまつ毛、柔らかそうで思わず触りたくなるような頬。小さな唇は今は少し血色が悪そうだ。

 だが多希は、なにも女の子がとても綺麗だから驚いたわけではない。その表情が、本当に具合が悪そうで、少し慌てたのだ。


 額からは汗が流れ、湿った前髪がおでこにはりついているし、腕や脚から本来は色白だとわかる肌が、顔から首筋にかけて真っ赤になってしまっていた。明らかに熱がこもっているのだろう。


「す、すみません……少し、暑くて」

「大丈夫ですか? 先生呼んできますか?」

「ぃぇ、大丈夫です。すみません」


 大丈夫という少女だが、それが強がりだと医療の知識がない多希にもわかる。このまましゃがんでいても、絶対によくはならないだろうと思った多希は、ハンディファンの風を彼女にあててあげた。


「ぁ、涼しい?」

「よかった。気休め程度だけど使って」

「……はぃ」


 少女は目を細めて涼しさを感じているようだ。拒否されたらどうしようかと、密かに怯えていた多希はその姿を見て少し安心した。


「お待たせ~、ってどうしたの!?」


 やっと追いついてきたらしい由花も、驚きながら駆け寄ってくる。


「この子、暑さでちょっと具合悪くなったみたい。飲み物買ってくるから由花見ててあげて」

「わかった。こういう時はスポドリがいいよ」

「了解」


 同性の由花の方が女の子も安心するだろう。そう考えた多希は、由花にその場を任せて近くの自販機に走ったのだった。




 その後、スポドリを少しずつ摂取し、由花のハンディファンのおかげで体温も下がってきたのか、女の子の体調は目に見えてよくなっていった。

 熱中症のなりかけのようなところだったのだろう。症状がひどくなる前に出会えたのは、幸運だったかもしれないと多希は思った。


「あの、だいぶ気分がよくなってきました。ご迷惑をおかけしてすみません」


 だいぶ顔の赤みがひいてきた女の子が、丁寧な動作で頭を下げる。あまりにも綺麗で洗練されたその所作に、多希は迷惑じゃないと否定することも忘れて見入ってしまった。

 それは由花も同様だったのだろう。それだけ少女の所作は一つ一つが洗練されていて、とても同じ学校の生徒には見えなかった。

 それこそ最初に多希が抱いた印象の通りに深窓の令嬢か、どこかのお嬢様学校の生徒とかの方が似合いそうですらある。


「ぁ、あの、本当にすみませんでした」


 多希と由花が喋らないことで勘違いしてしまったのだろう。女の子が心底申し訳なさそうに、もう一度深々と頭を下げ、そこで多希はやっと我に返ることができた。


「全然大丈夫! 回復してよかった」

「うんうん! むしろ役に立ってよかったよね」


 多希と由花が笑顔で否定すると、女の子も少し安心してくれたようだ。迷惑をかけてしまったとこわばっていた表情がゆるむ。


「本当になんとお礼を言ったらいいか。飲み物までわざわざ買って頂いて…あ、代金お返ししますね!」


 お金を出させたという状況に今気づいたのだろう。女の子は慌てて鞄を開いた。が、すぐに先ほどより何倍もどんよりとした表情になってしまう。


「も、申し訳ありません。その、今はお財布を持っていませんでした」

「気にしないで。体調が悪い時は誰かに頼った方がいいんだから」

「そうそう! 困った時はお互い様だし、飲み物代くらい気にしないでよ」


 今にも泣き出してしまいそうな少女を、多希は由花と一緒になって必死に慰めた。その甲斐あってか、女の子は泣き出すこともなく落ち着いてくれ、その様子を見て多希は胸をなでおろした。


「保健室は? 本当に行かなくても大丈夫そう?」

「はい。あとは帰るだけなので、我が家の車も駐車場にありますから」

「そっか、迎えが来てるなら一安心だね」

「はい、心配までしていただいて、重ね重ね本当にありがとうございます」


 深々とお辞儀をする女の子。いちいち動作が丁寧で、多希は変にドキドキしてしまう自分の心を落ち着けるのに苦労した。


「もしよかったら車まで付き添うよ……由花が」

「いや私かよ!? あ、嫌ってわけじゃなくてね、なんで私だけ?」

「僕はほら、さっきあったばかりの男がそこまでは、ねぇ?」


 多希の言葉に由花は理解を示してくれたが、意外なところから反論の声が上がってくる。


「あの、善意で言ってくださっている方に、そんな失礼なことは思いませんから!」

「そ、そう? じゃあ僕もついていく?」

「え、あ、えっと、送ってほしいと言ったわけではなくですね!」


 その後、はしたないことを言ってしまったと慌てる女の子を落ち着かせ、多希は由花と一緒に駐車場まで送った。のだが、そこでまた予想外の展開に遭遇することになった。


「え!? お迎えの車ってあの車なの!?」


 驚きを隠すこともなく声を上げた由花。声こそ上げなかったが、その気持ちは多希も同じだった。

 あれです。と女の子が指さしたのは、なんと多希と由花が話題にしていた車だっからだ。

 高価であるという一点のみは、ご令嬢のような女の子にあっていると言えるかもしれない。が、ひときわ目をひく派手な車体は、丁寧でおしとやかな少女のイメージとはあまりにもかけ離れていた。


「ま、まぁ運転するのは親御さんだもんね?」

「えぇ、あの車は父の趣味でして」


 車からもこちらの姿が見えたのだろう。ドアが開き、中から穏やかそうな顔をした男性が降りてくる。


「終わったのかい千聖ちさと? その子たちは?」


 父親らしき男性が、多希に戸惑ったような視線を向けてくる。娘が知らない男、まぁ由花もいるが、見知らぬ男と一緒に戻ってくれば、父親の心労は計り知れないものなのだろう。


「えぇ無事に。それでお父さん、この方たちはですね」


 そんな父親に少女、千聖ちさとと呼ばれた女の子が事情を説明してくれた。多希はその名前にどこか聞き覚えがあったような気がしたが、似た名前の人がいただけかもと、深く考えずに事情説明が終わるのを待つことにした。


「そ、そうだったんだね。体調は? もう歩いて平気かい?」

「はい。お二人のおかげでこうして帰ってくることができました。重ね重ね感謝を」

「私からもお礼を、うちの娘は身体が弱くてね。本当にありがとう」


 親子そろって深々と頭を下げる二人。父親は見た目通りの優しい心をした人なのだろう。娘の話しを心配そうに聞いていた時の表情や、こうしてあったばかりの子供にまで、丁寧に頭を下げてくれる紳士的な姿から、多希はそう判断した。

 初対面の大人から、しっかりと頭を下げられた由花はかなり恐縮しているようだ。


「私たちはたまたま通りかかっただけなので」

「そんなに気になさらないでください。それじゃあ僕たちはこれで」


 この父親が一緒にいれば大丈夫だろう。多希は安心して帰ろうとしたのだが、気が付くと笑顔の女の子に回り込まれていた。


「待ってください。お礼どころか私、まだお二人の名前すら聞いていませんでした。どうか教えて頂けないでしょうか?」

「いや、お礼なんて、ホント気にしないで」

「そういうわけにはいきません。大事な娘の恩人ですから、私からもお願いします」


 女の子とその父親に詰め寄られる。鬼気迫る様子の二人から、多希はこのままただでは帰さないという気迫を感じ取った。

 困り顔の由花も同じものを感じ取ったのだろう。引き気味になりがらも先に自己紹介を始めてくれた。


「あはは、私は江田由花えだゆいか。一年生だよ」

「僕は梶谷多希かじたにたきです。同じく一年」

「え?」


 その瞬間、場に流れていた和やかな空気が、一瞬で霧散したのが多希にはわかった。


 それくらいわかりやすく、目の前の少女は明らかに表情を変えたのだ。いや、少女だけではない。穏やかな表情をしていた父親でさえ、今はその顔に驚愕の感情をはり付けている。

 二人が表情を変えたのは、明らかに多希が自己紹介をした瞬間。多希は自分が、何かのブラックリストにでも載っているのではと不安になった。


「本当に、あの多希君なのかい?」


 少女の父親からかけられた言葉に、多希は違和感しか感じない。何故か親し気な声色も、懐かしいものを見るかのような表情も、その全てが多希には理解できなかった。


「あのと言われてもどのッ!?」


 ただ困惑していた多希だったが、勢いよく女の子に抱き着かれたことを理解した瞬間、もう言葉が出なくなった。

 隣から由花の悲鳴じみた小さな声が聞こえる。

 真っ白になりかけている頭で、多希はなんとか状況を整理しようと心みるが、どうして初対面の女の子から抱き着かれているのか、そんなことが分かるはずもなかった。


「多希君。本当に多希君なんだ」

「ぼ、僕は確かに多希だけど」

「私だよ多希君。覚えてない? 千聖だよ。鷺沼千聖さぎぬまちさと。」


 鷺沼千聖さぎぬまちさと。勘違いではない。その名前をきいたとき、多希にはやはり既視感のようなものがあった。

 一度聞いたことがある。なんてその程度のことではなく。何度も呼んでいたかのように、親しみの持てる名前。

 自分が何か大切なことを忘れているような気がして、多希は女の子に抱き着かれていることすら忘れて記憶を辿った。


「私は覚えてるよ。あの日、引っ越して離れ離れになった日から毎日、一日たりとも忘れたことなんてなかった」


 千聖と名乗った少女は、その瞳から恥も外聞もなく、大粒の涙を流している。それはきっと嬉し涙。混乱している多希にもはっきりと分かるほど、千聖は歓喜に満ちているように見えた。

 まるで長年探していた大切なものを見つけたかのような喜び方。


 多希は千聖の言葉を反芻する。『引っ越して離れ離れになった日』そのワードの意味を考えたとき、多希は忘れていた過去を、濁流のような勢いで全て思い出した。


 とても幼い頃のこと、多希には幼馴染がいた。


 由花ではない。由花は当時売りに出され空いていた、隣の家に引っ越してきたのだ。

 その空き家には、元はある家族が住んでいた。両親と女の子の三人家族。その女の子と多希は同い年で、毎日のように一緒にすごしていた。その女の子の名前が、


「ぇ、ぅそ、千聖ちゃん?」


 多希が声をかけると、少女はその宝石のような瞳から、さらに涙をあふれさせた。


「そうだよ! 幼馴染の千聖だよ。隣の家に住んでた千聖。ずっと一緒に遊んでた……ぅ、ぅう」

「ち、千聖ちゃん!?」

「ぁ、逢えた……また逢えてよかった」


 多希の胸に顔を押し付けるようにして泣いている千聖。子供のように恥ずかし気もなく泣いている姿を見れば、本心から再開を喜んでいるのだと、それを疑う者はいないだろう。


 目じりに涙をためた父親にも肩を抱かれる。多希はふたりに抱きしめられて、ただされるがまま困惑していた。

 一人目の幼馴染と再会したのだという実感が、徐々に湧いてきてはいるのだが、それでもここまで熱烈に喜んでもらえていることが、多希にはどうしても疑問だったから。


 結局、親子二人が落ち着くまで、多希は千聖に触れないように、ホールドアップの体制を貫いたのだった。

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