短い小説集
森下 巻々
掌篇
第1話 或る日
*
今から考えても、やはり、僕の勘違いに間違いない。
肩を叩いた彼女は、振り返った僕にこう言ったのである。
「もしかして、カミ切ったあ?」
僕たちは中学生だった。教室でちょうど、問題集など補助教材の購入申し込み書が配られたときだったのである。僕は、申し込み書にある、切り取り用の点線を見ながら、
「えッ、なんで? 今、切り取っちゃったら不便じゃないの。名前とか書いて、提出するときは、こっちだけ持ってくれば良いってことでしょ?」
彼女はハニカムような、僕から見れば、どう受け取っていいか分からない、複雑な表情をして、黙ってしまったのだった。
思い返してみれば、あれは『髪の毛を切ったのか』と、つまり、近々に散髪したのかと訊いてきていたのである。間違える僕は、なんと頓珍漢なのかと、後からなら言えるが、その時は本当に勘違いしたのである。ふと、何かの拍子に気づいたのは、数日後であった。
実は僕は、普段からクラスメイトの彼女のことを意識していた。
黒目がちの瞳、可愛らしい声、いろんなところに魅了されていたと思う。
それでは、親しくしていたかというと、そうではない。勿論、授業や学校行事に関することで、会話を交わすことはあった。しかし、遊びの話でもしたかと考えると、全然覚えがない。
僕は或る日の夜、浴室横の洗面所で鏡に向かっていた。
年々、大人のようになってくるヒゲを剃った。また、小遣いで買ってあったハサミとブラシのセットを使って、眉を整えた。
家族には当時、朝風呂という習慣はなかったので夜入るほかなかった。髪の毛も、脇も、背中も、股間も、手足も、いつもなら考えられないくらい念入りに洗った。
翌朝は、早くに目が覚めた。寝坊しがちな、僕がである。
余裕のできた、その時間を使って、ドライヤーで髪を整えた。
僕は、ドキドキしながら、登校した。教室に入るときも、胸が苦しかったくらいだ。
僕は、どうして期待してしまったのだろうか。実際には、いつもと変わらない日常が待っていたのに。
その日は、バレンタイン・デーだったのである。
「もしかして、髪切ったあ?」
彼女が数日前に、尋ねてきたのは、本当にちょっと気になっただけだったのかも知れない。
僕は馬鹿で、情けなかった。告白する勇気もないのに、期待だけするなんて。
*
彼女は、現在どうしているだろうか。魅力的な人になっているに違いない。それだけは、確信できる。
(おわり)
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