【9話】この痛み、君の為

 痛みと疲れが一気に押し寄せてきて、歩くのが辛い。足元がふらつき、視界がぼんやりとしている。朝霞あさかくんのために必死に頑張ったから、その反動が今、全身に現れているようだった。


「ちょ、ちょっと休もうか……」


 朝霞あさかくんが優しく声をかけてくれた。彼の手が私の手を握り、温かさが伝わってくる。しかし、立ち眩みがして、その場で座り込んでしまった。


愛月あいづきさん、大丈夫?」


 彼の顔には心配と戸惑いの表情が浮かんでいる。私は何とか頷こうとするが、言葉がうまく出てこない。


「せ、背中に……おんぶするよ」


 朝霞あさかくんの申し出に驚き、顔が赤くなる。


「え、で、でも……」


 一瞬、重くないかな、迷惑じゃないかなと心配になる。それでも、彼の真剣な眼差しに押され、思わずうなずいた。


「お、お願いね」


 私は朝霞あさかくんの背中に体重を乗せ、手を首に回す。彼は私の足を腕ではさみ、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間、彼の体温がじんわりと伝わり、心の中で小さな安堵のため息が漏れた。少し恥ずかしかったけど、きっと朝霞あさかくんのほうが恥ずかしいはず。本当に朝霞あさかくんは優しい。


 頭が痛くて目をつむり、全てを朝霞あさかくんに託している状態だった。彼の背中に顔を埋めるようにして、私は深呼吸をする。彼の匂いが心地よく、少しだけ痛みを忘れさせてくれる。


 朝霞あさかくんの背中は大きくて、とても安心する。何か懐かしい感じがした。目を閉じていると、記憶の中の風景がぼんやりと浮かび上がる。


(お父さん……)


 あの日、足を怪我してしまった帰りにお父さんが同じようにおんぶしてくれていた。それが最後のお父さんとの思い出。彼の背中のぬくもりが、あの時の安心感を思い出させる。自然と涙がこぼれ出てきた。


「あ、愛月あいづきさん!?だ、大丈夫?痛い?」


 朝霞あさかくんが私を心配して声をかける。彼の声には本当に心からの心配がこもっていて、その優しさが胸に沁みる。


「ううん、大丈夫。朝霞あさかくん、ありがとう。」


 私は朝霞あさかくんの背中に強くしがみつく。彼の心臓の鼓動が伝わってくる。それは安心感と共に、心地よいリズムを奏でていた。私の鼓動もだんだんとそのリズムに合わせて早まっていく。


 道中の景色はぼんやりとしていて、まるで夢の中にいるようだった。朝霞あさかくんの足音がリズミカルに響き、私をさらに落ち着かせてくれる。風が頬を撫で、彼の温もりが私を包み込む。全てが心地よく、私は次第に安心感に包まれていった。


 目を閉じていると、周囲の音が敏感に耳に入ってくる。足音が保健室の前で止まり、扉が開く音が聞こえた。冷たい空気が一瞬にして流れ込み、保健室の独特の消毒液の匂いが鼻をつく。


「着いたよ」


 朝霞あさかくんの声に促され、目を開けると、眩しさに一瞬目がくらむ。保健室の白い光が視界を埋め尽くし、目を細めながら少しずつ焦点を合わせた。


「こちらにどうぞ」


 保健室の先生がすぐに駆け寄り、私をベッドに案内してくれた。朝霞あさかくんは私をベッドに下ろし、優しく私の手を離した。


「傷は、少し切れてるけど、大したことないわ。でも、頭を打ってるから、病院で見てもらったほうがいいわよ」


 先生の声が心配そうに響く。私はお母さんに迷惑をかけたくない一心で断った。


「だ、大丈夫です、先生。家に帰って休みますから……」


 心の中では、お母さんにこれ以上心配をかけたくない気持ちが強くあった。お母さんに負担をかけることが、何よりも辛い。


「なら、少しここで安静にしていて。何か体調の変化があったらすぐ呼ぶのよ」


 先生はそう言って、優しい笑顔を見せながら部屋を出て行った。


 静寂が訪れると、保健室の静けさが一層際立った。外の騒がしさが嘘のように消え、静寂が二人を包み込む。私の心臓の鼓動と、朝霞あさかくんの心配そうな視線が唯一の音として感じられる。


 ベッドで横になる私の隣で、彼は心配そうに椅子に座ってくれた。窓から差し込む柔らかな光が、静かな保健室の空気をさらに穏やかにしている。


愛月あいづきさん、大丈夫?」


 朝霞あさかくんの声は優しく、温かさが伝わってくる。彼の存在がこんなにも心強いとは思わなかった。


「痛みもだいぶ引いたし、大丈夫だと思う」


 私は彼に微笑みながら答えた。彼の存在が私を安心させ、少しずつ痛みも和らいでいくような気がした。


 しばらく沈黙が続いた。保健室の静けさが二人の間に重くのしかかる。外の世界から切り離されたかのような静寂の中、時計の秒針の音だけが微かに響く。


 朝霞あさかくんは目を逸らしたままだった。彼の視線が宙を彷徨い、何かを言おうとしているが、言葉にできずにいるのが分かる。私はそんな彼の姿を見つめながら、心の中で何度も彼を励まそうとしたが、言葉が出てこなかった。


 沈黙を先に破ったのは朝霞あさかくんだった。彼の声が静かな保健室に響き渡り、私の心に深く刻まれる。


愛月あいづきさん、俺なんかのために、今日はありがとう。本当に、嬉しかった。」


 朝霞あさかくんの声には感謝の気持ちが込められていて、その言葉一つ一つが私の心に温かく染み渡っていく。朝霞あさかくんの誠実さが、その声から感じられた。


 彼の目を見つめながら、私は決心を固めた。これまでの出来事が頭の中を駆け巡り、心の中で言葉を整理する。自分の気持ちを伝えなければならないと感じた。


朝霞あさかくん、何も言わないでいいから、聞いてて」


 私は深く息を吸い込み、勇気を振り絞って話し始めた。保健室の静かな空気が、私の声を包み込むように広がる。朝霞あさかくんの目を見つめ、心の中で朝霞あさかくんと対話するように話し続けた。


「入学式の日、私はとても不安で、誰とも話せなくて……。でも、放課後の教室で、朝霞あさかくんが優しく話しかけてくれて、あの時、私は救われたの。朝霞あさかくんの優しさが、私にとってどれだけ大きかったか……」


 朝霞あさかくんは黙って聞いていたが、その目には驚きと戸惑いが浮かんでいた。彼の心の中で様々な感情が渦巻いているのが伝わってきた。


『あの日、上手く話しかけることなんてできていなかったのに…それでも救われたなんて…』


「あの日から私は少しずつ変わることができたの。朝霞あさかくんがいてくれたから。だから、今日朝霞あさかくんが落ち込んでいるのを見て、何とかしたいって思ったの」


 朝霞あさかくんの心の中には、私に対する感謝と自分への不甲斐なさが交錯しているのが感じ取れた。朝霞あさかくんの視線が一瞬揺れ動き、心の中で葛藤しているのがわかった。


『俺なんかが、愛月あいづきさんの助けになれていたなんて…本当に…?』


「だから、気にしないで。朝霞あさかくんには、いつも笑っていてほしいの。あなたの笑顔が、私にとって一番の支えなの」


 彼の目に一瞬戸惑いが浮かんだ。


『俺の笑顔が…支え…?』


「実はね、私、中学の時に親友だと思ってた子に酷いことを言われて、嫌われて、変な噂を流されて、ひとりぼっちになったことがあるの。それで高校に入学するのがすごく怖かったの」


 私は一瞬言葉を詰まらせ、朝霞あさかくんの反応をうかがった。朝霞あさかくんの目には優しい光が宿り、朝霞あさかくんの心の中にも同じような孤独と痛みが浮かび上がっているのが感じ取れた。


『そんなことが……俺もずっと一人で、誰かに話しかけることなんてできなかった……』


「だから、誰にも心を開けなくて。でも、朝霞あさかくんが初めてで、優しくしてくれたから、少しずつだけど、怖さが和らいでいったの。本当に……ありがとう」


 朝霞あさかくんの心の中で、私の言葉が温かく響き渡るのが感じ取れた。朝霞あさかくんは私の目を見つめ、心の中で私の言葉を反芻していた。


愛月あいづきさんが……俺のおかげで変わることができたなんて……信じられないけど、嬉しい……』


「で、でも、傷が……」


「傷は、髪の毛で隠れる場所だし、それに、もしもの時は……」


 ここで私は一瞬言葉を詰まらせた。言いたいことが胸に込み上げてきたが、それを押し殺して続けた。


朝霞あさかくん、私を大切にしてくれるなら、私はそれでいいの……」


 朝霞あさかくんの心の中で、私の言葉が静かに反響する。朝霞あさかくんは何も言わずに私を見つめ、その眼差しには深い感謝と共に、新たな決意が宿っているのがわかった。朝霞あさかくんの目には、私の言葉が彼の心に届いたことが明らかに見て取れた。


『俺が……愛月あいづきさんを大切にする……』


 その瞬間、朝霞あさかくんの心の中で何かが変わったのを感じた。


愛月あいづきさん……ありがとう。俺も頑張るから……」


 朝霞あさかくんの口からの言葉に、私も心が温かくなり、安心感が広がった。朝霞あさかくんの優しさが私の心に深く刻まれた瞬間だった。


(でも、この心を読む能力だけは、絶対に言えない。嫌われたくない。これだけは、私だけの隠し事)


 その時、スマホの電話が鳴り響く。柚月ゆづきからだった。


「もしもし?」


「ちょっと心結ここなちゃん!いまどこにいるの!?RINEも返ってこないしー!」


 柚月ゆづきの元気な声がスマホ越しに響き渡る。


「いま、保健室にいて、朝霞あさかくんと一緒に…」


「え!?保健室!?どしたの、大丈夫!?わ、私今からすぐ向かう!!」


 走り出す音と同時に電話が切られた。


 少しして、勢いよく扉が開かれる音がした。驚いて顔を上げると、心配そうな顔をした柚月ゆづきが飛び込んできた。


心結ここなちゃん!大丈夫!?」


 柚月ゆづきの目は大きく見開かれ、心配の色が濃く浮かんでいる。胸が少し苦しくなる。


「ちょっと頭ぶつけちゃっただけで、大したことないよ。」


 私は安心させようと微笑んでみせたが、柚月ゆづきの心配は消えない。


「もー心配したんだから。急に飛び出していっちゃうし……」


 柚月ゆづきの声には少しの安心感が混じっていたが、その言葉にはまだ心配が滲んでいる。


柚月ゆづき、ごめんね。」


 私は深く謝る。柚月ゆづきは私の肩に手を置き、心配そうに見つめる。


「痛くない?大丈夫?」


「うん、もう大丈夫だよ」


 朝霞あさかくんは少し照れくさそうに立っている。彼の視線が柚月ゆづきに向けられる。


朝霞あさかくんは、どうしてここに?」


 柚月ゆづきが尋ねるが、私が代わりに説明をする。


 事情を聞いて、柚月ゆづき朝霞あさかくんの背中を軽く叩く。


朝霞あさかくん!心結ここなちゃんを守ってくれてありがとう!それにしても陽之都ひのとは許せない!」


 柚月ゆづきは少し怒っていた。朝霞あさかくんは、困ったように微笑みながら頭をかく。


「そ、そんな……僕はただ……」


 その時、先生が戻ってきた。扉の開閉音が静かに響く。


「あら、みんな来てくれてるのね。体調はどう?」


「大丈夫です。」と答えると、先生は心配そうな目で私を見つめた。


「変化があったらすぐに病院行きなさいね」


 先生はそう言って微笑みながら見送ってくれた。


 保健室を出ると、夕焼けの光が廊下を赤く染めていた。外はすっかり日が落ち、肌寒い風が吹き始めている。柚月ゆづきが提案する。


心結ここなちゃんの怪我も心配だし、家まで送ってくよ。」


「お、俺も送る。」


「ありがとう、柚月ゆづき朝霞あさかくん。」


 三人で並んで帰る。夕焼けが街を染める中、私たちの影が長く伸びていた。風が冷たく、秋の訪れを感じさせる。柚月ゆづきが私の腕を優しく引いて、心配そうに見つめる。


「本当に大丈夫?」


「うん、もう元気だよ」


 私は微笑みながら答える。朝霞あさかくんも心配そうに私を見ていたが、彼の優しい眼差しに励まされる。


 三人で歩くその時間が、私にとって何よりも温かいものだった。夕焼けが背中を押すように、私たちは家へと向かって歩き続けた。

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